2026年04月12日「主の御心ならば」

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主の御心ならば

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ヤコブの手紙 4章13節~19節

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誇り高ぶるな

13よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、 14あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。 15むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。 16ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。 17人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 4章13節~19節

原稿のアイコンメッセージ

ヨブ記14:1-2
ルカによる福音書12:13-21
ヤコブの手紙4:13-17


「主の御心ならば」

I.予測が難しい人生
  さて、今日は、一つには、私たちの人生設計について、考えたいと思います。今日の御言葉は、一回だけの人生を計画立てて生きていくという事を決して否定している訳ではありません。

人生の計画をたてること。計画をすること。設計すること。目標をもって人生を生きることは素晴らしいことです。寧ろそれは健全な生き方です。

 「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち」(ver13)、

 これは嘗ての、ユダヤ人の姿であり、今の日本人の姿でもると思います。今でもユダヤ人は、商いが上手だという事は、よく言われることです。 
当時ユダヤ人は、世界地図を広げて、新しい商売を拡張する事に励んでいました。

こういう人たちは、人生を前向きに生きている人々です。自分の人生に確信をもって生きている人々です。そしてそれは又、間違った意味での自己肯定感に繋がっていくのです。
 
このような計画をたてることは決して、間違いではありません。しかし、これ等全ての計画が自分だけのものであり、自分の人生の運命を握るのは、自分以外の何ものでもないと信じている所に、このような人々の誤りがあるのです。
 
商売に対する自信だけではなく、自分の人生に対する生き方や、その決定に至るまで、自分で全てできると確信している所に、その誤りがあるのです。

そして、こういう人は、本当に気をつけなければなりません。それは先ずは、誇り高ぶるという事です(ver16)。彼らは能力もあるでしょう。先見の明に富んでいるかもしれません。ですから富を得ることには早い人々です。

 しかし、ともすれば、自分の能力に頼って、大言壮語する訳です。そして、その決定的な誤りは、人生は自分で全てを支配できると勘違いしているところにあるのです。

「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ver14)。
 人生というのは予測が難しいという事を決して忘れてはならないのです。私たちの人生にとっ
て、確かなことは、過去起こった出来事だけです。そして未来において、確かなことは、人は全ての人は必ず死ぬという事です。

ですから、十返舎一九は、東海道中膝栗毛の中で、たらいから墓場までのちんぷんかんぷん、一体人生とは何なんだろうと言ったのです。

「人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない」(ヨブ記14:1-2)。これが私たちの人生の現実です。

私たちは、今本当に不思議な導きで、花小金井教会に集っています。ある方は御自分でその門を叩き、ある方は知り合いに連れられ、ある方は家族に連れられて、様々な形で、導かれてきたと思います。しかし、それも又お一人お一人が実に不思議な導きだと思います。

私が牧師になりたての、1989年頃、まだ他教派にいた頃、学園西町に住んで、吉祥寺の教会で副牧師をして、田無の家庭祈祷会に定期的に集っていました。多摩湖線に乗って、萩山で新宿線に乗り換えて、花小金井を過ぎて、田無まで定期的に行っていたのです。

花小金井駅を過ぎる度に、ああここに、改革派の花小金井教会があるなと、何度も思いながら通り過ぎていました。それから数十年後、よもや、私がその花小金井教会の牧師になるとは、思っても見ませんでした。

その時は、田無のある家庭に集って、将来の開拓伝道の為に、特に所沢に照準を定めて、祈っていました。しかし、神は不思議なように、所沢開拓の道を開かれずに、私を沖縄に導かれました。

そこで、数年間の開拓の後に、残念ながら、体調を崩して、自分自身の牧会を神に問われ
て、改革派神学校の、教理と信仰告白に堅く立った教会形成こそ真理だと思い知らされ、2000年に江古田教会に加入して、改革派教会での第一歩が始まったのです。

もしあの時に、沖縄へ行っていなければ、私は改革派教会に加入することはまずありませんでした。実に神の不思議な導きを思うのです。

このように、人生には、様々な不確定要素が満ちているのです。ですから、私たちは、このように、人生には不確定要素が沢山あるのだ。或いは知り得ない事柄が沢山あるのだという事を忘れて、

「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ver13-14)。

神を忘れた自分の計画は空しい物に過ぎないのです。イエスはルカによる福音書で次のようにお語りになりました。

イエスはルカによる福音書で、次のように言われました。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:17-21)。

実はヤコブは、イエスのこの御言葉を思い出
して、今日の手紙を書いたと言われているのです。

このように計画をたてること自体は間違いではありません。しかし、これ等全ての計画が自分だけのものであり、自分の人生の運命を握るのは、自分以外の何ものでもないと信じている、このような生き方の愚かさをイエスは語っているのです。人生を予測するのは難しい。そのことを覚えて行きたいと思います。
だからこそ、主と共に歩んで参りたいと思います。
II.主の御心ならば
 第一に、私たちは、人生の予測は難しいことを見て参りました。ですから、ヤコブは、その中で祝福を受ける秘訣を、二つ語ります。

第一に、大切なことは、それが、「主の御心であれば」ということです。

「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです」(ver15-16)。

やはり、自分の人生を自分自身で握りしめていてはいけないのです。勿論人生設計をすることは悪い事ではないのです。しかし、全ては神の御手の中にある事を覚えたいと思います。

イエスは山上の垂訓で言われました。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。
ここを、文語訳聖書では、「汝らのうちたれか思ひ煩ひて、身の丈一尺を加へ得んや」(マタイ6:27)。と訳しているのです。

私が思い煩って、身長が180㎝を超すならば、幾らでも思い煩い思い悩みます。
しかし、私が、どんなに思い悩んだからと言って、煩ったからと言って、身長がこれ以上伸びる訳ではないのです。結局、そこにあるのは、全て、1~10まで主の御心なのです。

私たちは、何処までも、神の御心を最優先させていく必要があるのです。自分の思いよりも、神の御心に道を譲っていくことは、大切なことなのです。聖書の中で、使徒パウロほど、神の御心を意識した人はいないでしょう。
「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した」(使徒18:21)。

「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」(Iコリント4:19)。

「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」(同16:7)。

パウロは、ことごとく神の御心のままに生きて、活動しました。イエスも又、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4:34)。

私たちも又、主の御心を知り、それを良く悟って、弁え知る者でありたいと思います。

主の御心こそが、最善であり、主の御心こそが、最高であり、主の御心こそが、最良である事を覚えていきたいと思います。
 
最後に、予測が難しい人生に於いて、祝福を受ける秘訣、それは第二に、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ver17)。

 本来であれば、人生は、「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのこ
とやこのことをしよう」と言うべきです」(ver15)。
しかし、実際は、誇り高ぶっており、現実的には、主の御心を為さんとする人生より、自分の思いに生きる、自分の確信より頼む。そのような人生に陥ってしまっているのです。
だからヤコブは言うのです。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ver17)。ここでいう為すべき善というのは、主の御心に従うという事です。

私たちが主の御心に従わないならば、それは、私たちの罪であると聖書は語ります。それほどまでに、主の御心に従うという事は、大切なことなのです。

私たちの人生に於いて、大切なことは、自分たちの願いや、努力、そして、思いはあったとしても、一先ずそれを脇に置いて、ましてや、高慢や自慢の材料にするのではなくて、主の御心に従うという事なのです。
 
もう少し具体的に言えば、今日やるべき事柄が本当に主の御心ならば、私たちは、それを今日の内になすという事なのです。神のみ心が分かっていながら、今日それを行わないのは、罪であると聖書は語ります。

既に御言葉に聞いて参りましたように、私達が、本当に恵みに生きる者であるならば、今日為すようにと示された神の御心を明日に伸ばすことなく、今日の内に終わらせなさいということなのです。

それほどまでに、一日、一日を大切に生きなさいと聖書は語るのです。今日できることを明日に回すなという言葉がありますが、しかし、本当に今日やるべきことを明日に回す事が出来るのかといえば、ある意味、矢張り人生は予測が難しいのです。絶対にそれを明日為す事が出来るかどうかは分からないのです。

よく真逆の事を言う人がいます。「明日やるべきことを今日やるな」これは私たちも何となく安心する言葉です。勿論これが、明日のことは明日が心配しますというイエスのお言葉の通り、神
に委ねる信仰から来ているのであれば、何の問題もないと思います。
しかし、ともすれば、私たちは、この言葉を今日やらないことへの言い訳として使っているのです。
ですから、大切なことは何でしょうか。自分の思いを、自分の願いを、あらゆる事柄に優先させていくのではなくて、何処までも、主の御心を最優先させていくという事です。
そして、それを、私たちが、主の御心であると確信したならば、その善を、明日に伸ばすのではなくて、今、今日、ここから行っていくことなのです。
どうか、私たちが、神を抜きにして、あれやこれやと人生の計画をたてていくのではなくて、主の御心ならば、それを行おうという信仰に立って、さらにそれを御心だと示されたならば、今、今日、ここから行っていく。
「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ver17)。
 予測が難しい人生だからこそ、主の御心に従う、そして、主の御心だと信じたら、主と共に前進をしていく。そのような歩みをして行こうではありませんか。

 榎本保郎牧師が書いた『ちいろば』の中の一文に次のような話がありました。「分厚い封書」を読んだ建築会社の社長は、驚き顔でこういった。そうです。「牧師さんの中にはじつに非常識な人が多いですなあ。建築予算も手持ちの資金もないのに、ボーリズ建築事務所に相談にいった榎本牧師という人、本当に、非常識な人ですなあ。しかし、こういう非常識な人でなければ、教会堂は建ちませんなあ」
どうか、自分の思いを越えて、主の御心に従っていく。そのような歩みをしてまいりたいと思います。

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