2026年04月05日「変えられた私たち」

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聖句のアイコン聖書の言葉

復活する

1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

番兵、報告する

11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、 13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

マタイによる福音書28:1-15

「変えられた私たち」

I.復活の証拠―変えられた人生
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(ver1)。

神が永遠の始め、「光よあれ」と仰せになりますと、光ができました。そして神は、この光と闇とを区別されました。そして神は、この光を昼と名づけ、夜を闇と名づけられました。

そして、最初の朝と夕べがこの地上に訪れました。これは、真に美しい朝であったに違いありません。

この最初の朝が、地球に訪れて以来、数えきれないほどの朝がこの地上に訪れました。しかし、この復活の朝は特別な朝、確かに何時もと変わらない日の出の朝でした。

しかし、この日、人類の究極の敵である死が打ち破られて、イエスは死から甦られました。
私達は今年もまた復活の朝を迎えました。それは、勝利と希望と栄光の朝です。今日はイエスの復活の証拠について御言葉に聞ながら、復活の命を信ずるクリスチャンの生き方について御言葉に聞きたいと思います。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明けに、マグダラのマリアともう一人のマリア
が、墓を見に行った」(ver1)。マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。これは、何のためなのかといえば死んだイエスの死体が腐らないように、防腐剤を混ぜた香料を塗るためでした。

「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(ver2-4)。

この石は、イエスを墓に収めたときに封印した墓石です。その石が転がしてあって、上に天使が座っていた、これは、天からの直接的な介入によって、イエスの死と葬りに対して、勝利がもたらされた事を意味しています。そして、天使がその上に座っていた、これから正に大切なメッセージがもたらされようとしている事を意味していました。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(ver5-8)。

驚くべきメッセージが語られました。イエスが死から甦られたのです。それだけではありません、ガリラヤでお目にかかれるというのです。

イエスが死から甦られた、紛れもいない事実、その証拠がここにあります。「ここにはおられない」(ver6)、空の墓、これこそが、イエスの復活の確かな証拠です。復活の証拠は、葬られたはずの亡骸がなかった、つまり、墓が空であった事によって証明されます。
しかし、これは、消極的な証明でしかありません。何故なら空の墓には、色々な説明ができるからです。

祭司長や長老達が考え出したように、弟子達が夜中に来て盗んだとも言える訳ですし(ver12-15)、これは、よく言われていることです。 
確かに、空の墓は復活の動かぬ証拠です。しかし、それで全て説明がつく訳ではありません。

もうひとつの大切な要素があります。それは、ガリラヤで主にお会いでということです。弟子達と共に宣教を始められたあのガリラヤで復活の主にお目にかかれるのです。

その後イエスは多くの人々、500人以上の人々にご自身を現されました(Iコリント15:6)。

この復活のイエスに出会って、弟子達は変えられました。そして、多くの人々に主を証しして、殉教の死を遂げて行ったのです。確かにイエスの復活には、様々なことが言われています。

最も有名なのが、弟子達が夜中に来て盗んで行ったという、窃盗説ですが、他にも、完全に死んでいなかった、化死していたのが、墓の冷たい空気に触れて、息を吹き返したのだという人がいます。

しかし、では、十字架の時には、ちりじりばらばら、人々を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていた弟子達の、180度の大転換、勇ましい福音の宣教と殉教の死を一体どのように説明するのでしょうか。

仮死状態からたまたま息を吹き返してきた人のために殉教をする人がいるでしょうか。盗んだ死体のために殉教をする人がいるでしょうか。いや何よりも長い歴史の中で、復活の主に出会い、新しく変えられてイエスに従うようになった、多くの人々の人生を私達は、どのように説明をするのでしょうか。変えられた弟子達。これこそが主の復活の動かぬ証拠なのです。
II.復活の主に出会う人生
イエスは、復活後弟子達や、女性たち。更には、多くの人々にご自身のお姿を現されました。

それは、一つには、この地上におられたイエス、十字架上で苦しまれて、死んで葬られた
イエスが正に甦られた、つまり、十字架のイエスこそが、復活のイエスである事を、弟子達に信じさせるためでした。

十字架のイエスと復活のイエスが全く同じ
イエスである事を示す事が、イエスが復活のお姿を現された第一の目的でした。

ですからイエスは疑り深いトマスに、この手の跡に指を差し入れてみなさい、わき腹の槍の跡を見なさいと、確かに同じイエスが甦ってこられた事をお示しになられたのです。

確かに死がイエスを取り去りました。しかし、同じイエスが死から甦られることによって、死は終わりではない、死をイエスが打ち破って下さった、その驚くべき事実を弟子達は、イエスに出会う事によって、知る事ができたのです。私たちは、復活の主に出会うことによって、次のことを教えられるのです。

それは、イエスの復活は私たちのたであったという事です。イエスを信じるときに私達も又、復活の命が与えられるのです。イエスを信ずるあなたに復活の命を与えるために、イエスは死から甦られたのです。

あなたは、復活の命をお持ちですか。私達の人生80年、29200日、90年としても、32850日、
100年としても、36500日で終わってしまうのではない。死で終わってしまうのではない。死という一枚の垂れ幕を通った向こうに永遠の命がある。私達もまた甦る事ができる、永遠の命に与る事が出来る、私達は復活の命をもっているでしょうか。
III. 変えられた私たちこそ主の復活の証し
イエスは確かに死から甦られました。その証拠に天使が告げたように、弟子達は確かにガリラヤで、イエスに出会う事ができました。これは大切な事柄です。同じ御言葉が、ver10に繰り返されています。

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(ver10)。

ガリラヤで私たちに出会えるということをイエスは何故弟子達にも婦人達にも語られたのでしょうか。実は、ガリラヤで主に出会う、そこには大切なメッセージが含まれていました。
実際、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(ver16)。

そして、そこでイエスにひれ伏した、これは礼拝したという意味です(ver17)。そして、そこで弟子達は、大宣教命令をイエスから授けられるのです。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(ver18-20)。

この大宣教命令を授けられたのです。その内容は、全ての民に、あらゆる国民、あらゆる民
族、あらゆる人々に福音を宣べ伝えるということです。
その目的は、全ての民をイエスの弟子とするためです。
そして、宣教の方法は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(ver19-20)。
人々を教えなさい。教育する事によって、人々を弟子化しなさいというのです。しかも、私たちはそれを一人する必要はない。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(ver20)。

復活のイエスが、その原動力となって下さるのです。ガリラヤから始まる宣教の働きは、肉の力でできるものではありません。私達が復活の主にお従いして、大宣教命令を行っていくときに、主が成し遂げていって下さるのです。
私達もまた弟子達のように、ガリラヤに行き、復活の主に出会い、主を礼拝して、宣教していくことは、大切なことです。夫々に遣わされていく場所、その置かれた立場は違います。しかし、その置かれた所で忠実に主に仕えることを求められているのです。

フレディイゲイリーという人がいました。彼は6歳のときに両親が離婚して、母親は彼と妹を連れて実家に帰りました。しかし、そこで彼女が直ぐに再婚をしてしまったので、彼は捨てられたような気持ちになり、ギャングの仲間に入り、ギャンブルや殺人、麻薬、様々なものに手を染めて、13歳でそのグループのボスとなりました。
そして、15歳ではなんと100人の部下を抱えるボスとなったのです。17歳のときに捕らえられますが、父親の保障で釈放され、ハイスクールに行きます。しかし、少しもよくなりません。ますます麻薬に溺れるような日々でした。ところが半
年後、鏡に映った自分の顔を見てこれではいけないと思い、人生をやり直そうと、同い年の女の子バーバラと結婚をしました。
しかし、そんなに物事は簡単には、うまくいきません。結婚生活は、直ぐに破綻をしてしまいました。それからまた半年後、父親がベスタルという牧師に会うように勧めました。

始めはいやいや、渋々でしたが、彼はベスタル牧師に会いに行くうちに、ベスタル牧師の誠実な人柄に触れて、遂にイエスを信じ、彼は、悔い改めたのです。

彼は自分の関わっていた今までの仲間に何かをすることはできないか。彼らを助ける事はできないかと考えました。回心の翌朝、彼は警察に出向き、全てを告白して、喜んで処罰を受ける事を申し出ました。

しかし、警察は刑務所に入れておくよりは、出ていたほうが人のためになるだろうと思い、超法規的措置により彼を逮捕しませんでした。

こうして彼の証、伝道が始まりました。昼間はトラックを運転して、夜は教会の集会で証をしました。5ヵ月後に補教師になりました。

ここでひとつの問題が起こりました。彼の使う言葉です。余りにもその言葉遣いが稚拙なのです。彼の妻が戻ってきて、大学に行くように勧めました。高校は一応出ていました。しかし、これは、出されたといった方がよい状態でした。

やがて彼は4年間、大学で学びました。そして週末には一生懸命に伝道しました。卒業後等々彼は、伝道者になって、ダラムという町に本部を置いて伝道しました。
その後彼は自分の伝道のあり方について考え抜いて、青少年のために奉仕するように導かれました。
ある日友人とドライブしていると、大きな土地付の家が25万ドルで売りに出されていました。それを集会で話すと、人々は賛成して、多くの少年や、大人達が献金をしてくれ、更には、掃除までしてくれました。更には、様々なものが寄付されました。こうして一切の必要が満たされて、多くの少年達が、悪の道から救われて、イエスを信じていったそうです。

ここにも又、復活のイエスに出会って、変えられた一人の人の証しがあるのです。
確かに、イエスの復活は、多くの人々によって、批判され、批評されてきました。一番有名なのが、申し上げました、窃盗説です。当局者達が来て盗んで行った。墓泥棒が来て盗んで行った。弟子達が来て盗んで行ったというのです。
更には仮死説。十字架で死に切れていなかったイエスが、墓の冷たい空気に触れて息を吹き返したというのです。
  そして、幻覚説です。弟子達がイエスの復活を切望していたので、幻を見たというのです。これらすべては、歴史の中でケルソスという教会史家によって全て論破されて物ばかりです。
しかし、最も雄弁な、最も大きな、そして確かな証拠、証があるのです。それは、変えられた私たちです。ここにいる私たち一人一人が、復活のイエスに出会うことによって、新しい人生に入れられて行ったという事実。
99%の人が背を背ける中で、こうして、毎週神を礼拝しているという事実。これこそが、主の復活の最も雄弁な証なのです。イエスが復活した。その全ての答えが、私たち一人一人なのです。
私達もまた復活の主の証人です。主を死人の中から甦らせた復活の主の御力が私達のうちにも働いているのです。この復活の証人として、恰も弟子達が、復活の朝に、甦りの主に出会って、喜んで福音を宣べ伝えていったように、私達もまたガリラヤで復活の主に出会い、ここにはおられない、甦りの主を、復活の主を宣べ伝えていこうではありませんか。

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