2026年03月29日「弟子達の足を洗うキリスト」

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弟子達の足を洗うキリスト

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章1節~11節

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弟子の足を洗う

1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 13章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

ヨハネによる福音書13:1-11

「弟子達の足を洗うキリスト」

I.イエスの謙遜な姿
さて、今日から受難週に入りました。今日は、イエスが、ころばに乗って、エルサレムに入城されるのを、人々が棕櫚の葉を道に敷き、それを振って、イエスを迎えた「棕櫚の日曜日」です(マタイ21:1-11)。

次にイエスは、(月)に、宮清めをし(マタイ21:12-17)、(火)は権威についての問答をなさり(21:23-27)、(水) はベタニヤで香油を注がれ(26:6-13)、(木)に、最後の晩餐を行われました(26:17-30)。そして(金)に、十字架で命を奉げ、葬られ(26:31-27:61)、(土)は墓の中で休まれました。
イエスが弟子達の足を洗ったのは、(木)の最後の晩餐の前の出来事ですが、これは、ヨハネによる福音書にのみ記されています(ヨハネ13:1-11)。
今日は、このヨハネによる福音書13章から御言葉に聴いてまいりたいと思います。

さて、この13章から、ヨハネによる福音書は、大きな分岐点を迎えます。2章から12章までは、いわゆる、しるしの書でした。
カナの婚礼において、水をぶどう酒に変えた奇跡をはじめとして、イエスは七つの奇跡を行われました。その7つのしるしを中心に、話は展開してきたわけです。

それに対して、13章から最後までは、「受難の書」とか「栄光の書」と呼ばれ、12章までとは、趣を異にするのです。
12章までは、7つのしるしと奇跡について語られてきたわけですが、それは、一般のユダヤの人々が、主な対象でした。しかし、この13章からは、その対象も、伝道対象である一般のユダヤ人から、弟子たちに移っているのです。

それからもう一つ、そのカギとなる御言葉も、今までは、「命」や「光」だったのですが、13章からは、1節にもありますように、「愛」が中心テーマになっています。
そして、イエスの弟子たちに対する愛が描かれます。その愛の最初の出来事が、イエスが、弟子たちの足を洗われた洗足なのです。
勿論、この洗足の儀式に、謙遜と奉仕の意味が含まれていることは分かることです。

過越しの祭の食事では、第一の盃の後に、水が入った鉢が回され、手を洗うのが決まりとなっています。ここでイエスが取られた行動は、基本的にはこれに則っているのですが、ここでは、ありえないことが、二つ起こっています。

第一は、イエスご自身が、たらいに水を汲んで運んできたということです。通常、これは、家の僕がするべき仕事です。
第二に、イエス御自身が、弟子たちの足を洗い始めました。しかし、これも普通は、手を洗うのが決まりです。そして、足を洗う、これは、本来、奴隷がするべき仕事です。

ここで少なくとも、表面的に分かる、イエスが弟子たちの足を洗った意図、それは、弟子たちに対する愛を示されると共に、謙遜と奉仕の精神を表していることは確かなことです。

パウロも次のように言いました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。
イエスは私達に、互いに仕え合うことの重要性を、身をもって教えられたのです。
しかもです。
「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ver2)。
これから、イスカリオテのユダがイエスを裏切っていくわけです。しかも、イエスはそのことを知っておいでになります。それにもかかわらず、イエスはユダの足をも洗われるのです。なんという謙遜でしょうか。
イエスは真の神であるにも拘らず、純粋な人となられた。更には、それだけではなくて、十字架の死に至るまでも、私達を永遠の命に導くために従われました。ですから、私達もまた、お互いに謙遜に生きるということは大切なことなのです。
スコットランドで、若い牧師が、ある教会から説教を頼まれました。彼は十分に研究して作り上げた説教を持って、自信満々で講壇に立ったのです。しかし、残念なことに、聴衆の反応は芳しくありませんでした。彼は失望して、自信を失い、すごすごと講壇から降りる羽目になりました。
ある老婦人が言いました。「先生、あなたは今、講壇から降りてきた態度で、講壇に上れば、先ほど上って行った態度で降りてくることができたのですよ。」

II.洗足の意味
しかし、このイエスによる洗足は、謙遜と奉仕の精神を表すためだけにしているのではないことは明らかです。もっと深い霊的な意味があるのです。そこのところについて、御言葉に聞いてまいりたいと思います。
「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(ver3-5)。

ここで、「上着を脱ぎ」(ver4)と、御言葉は語り、「上着を着て」(ver12)と、語ります。
 この「脱ぐ」、「着る」と言うのは、イエスが御自身の復活を語られた御言葉、ヨハネ10:17-18、
「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:17-18)。
 
この御言葉の「捨てる」というのが、今日の御言葉の「脱ぐ」であり、「受ける」というのが、「着る」と訳された言葉なのです。
 聖書では、人が死ぬことを、「着物を脱ぐ」と言い、復活の体が与えられることを「着物を着る」(IIコリント5:2~)と言います。
ですから、イエスがここで、「上着を脱いで」足を洗い、そして又、「上着を付ける」(ver12)ということは、イエスの死と甦りを、象徴的な演技の中で表しながら、弟子たちの足を洗っておられるということなのです。
 その証拠に、ペトロが恐縮して、
「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた」(ver8)。
何のかかわりもなくなる。即ち、天国でペトロが受ける分け前が無くなるということなのです。

ですから、これは、もし、ペトロの足をイエスが洗わなかったとするならば、これは、ペトロがクリスチャンでなくなってしまうことを表しているのです。
「イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた」(ver7)。

この「後で」とは、もう少し後で分かるというよりも、イエスが十字架で栄光をお受けになる時に分かるということなのです。
 
ですから、この洗足の儀式は、単なる謙遜と奉仕の精神を表す儀式である以上に、非常に霊的なことを語っているのです。

ここから私たちは、三つのことを知ることができます。
第一に、イエスの十字架の罪の赦しは、一方的に与えられるものであるということです。 
「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(ver8-9)。
 ここでは少なくとも、ペトロは、イエスが自分に何をなさろうとしているのか、そのことを理解できていないのです。

後で分かるようになるのです。そして、足を洗おうとすると、手も頭もと言っていますから、全く頓珍漢なことを言っているのです。
 
そういう彼の内面とは全く関係なく、この洗足の儀式が表しているイエスの十字架の死と復活は、完全にペトロの罪を赦すことができるということなのです。

 罪というのは、私達が理解している罪と、全く意識していない、無意識の罪とがあると思うのですが、イエスの十字架は、私達の理解や私達の態度とは全く無関係に、その流された御血潮によって、全ての罪を、過去犯した罪、今犯している罪、そして、これから犯すであろう全ての罪を赦して下さるのです。

それほどに、イエスの十字架の贖いは完全なものなのです。そして、その十字架の罪の赦しを、イエスは一方的に与えて下さる御方なのです。
 
そして第二に、イエスを信じるということが、クリスチャンにとってすべてであるということです。

「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた」(ver8)。

 あなたは、私と何のかかわりもないことになる。これは、クリスチャンでなくなるということです。ですから、クリスチャンとは、イエスから足を洗って頂いた人なのです。

当時はサンダル履きで、アスファルトなどありませんから、足は、本当にドロドロになる部分です。体の中で、一番汚い部分です。そしてそこを洗うというのは、イエスが私達の本当に汚い部分である心を、十字架で贖って下さったということを表しているのです。
 
クリスチャンにとって、本当に大切なことは何でしょうか。それは、イエスに足を洗って頂くことです。すなわち、イエスを信じて、罪を赦して頂くことなのです。
それが全てであって、それ以外の事、例えば奉仕をする、伝道をする、献金をするということは、イエスを信じて救われた結果、するものであって、私達はあくまでも、イエスに足を洗って頂くこと、即ち、罪の赦し、主イエス・キリストを救い主と信じることが大切なのです。そして最後に、イエスの十字架の贖いは、完全であるということです。

「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」(ver8-10)。
 
例えば、カトリック教会は、洗礼式によって、少なくとも、それまでの罪はすべて赦されます。
洗礼式の後から犯す、あれやこれやの様々な罪は、土曜日に、必ず神父様のところに行って懺悔、いわゆる告解をしなければなりません。
ですから、少なくともカトリックの人々は、天国に行くために、洗礼を受けた後も、ずっと告解をし続けていかねばならないのです。

しかし、イエスは、
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ver10)。
 
何度も、告解などする必要はないのです。洗足において象徴されるイエスの十字架の贖いは、一度限りのものであり、先ほども申しました、イエスの流された血によって、全ての罪を、過去犯した罪、今犯している罪、そして、これから犯すであろう罪も、全て赦して頂けるのです。

それほどに、イエスの十字架の贖いは完全なものなのです。そして、その十字架の罪の赦しを、イエスは一方的に与えて下さる御方なのです。

 私達は、確かに、失敗することもあります。欠点もあるかもしれません。不完全さもあります。しかし、「罪に問われる」ことはありません。正に、頭も足も体も全身が清いのです。

「イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ver10)。
 イエスを信じて、完全に罪を赦された人生を送っていこうではありませんか。

ビリー・グラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い人夫をしていた男が救われました。
貧しさの故に荒れた生活をしていた彼は、その時から、生活ぶりが全く変わったのです。
 教会へも日曜日ごとに出席しはじめました。
仲間に会うと、誰かれとなく、教会へ一緒に行こうと誘いました。
ある日、仕事場で、顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうが、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組み、仕事を始めました。
昼食時となって、二人は瓦礫の山に腰を下ろし、ぽつりぽつりと世間話を交わしていましたが、
「今度、教会へ行かないかい。」と、勧めたのです。
突然のことに、刀傷の男は、
「この俺が?」
と、自らを指して、びっくりしました。
 
しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、言いました。
「俺なんか、ダメさ。 この、こんな傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ。」
 
「いいや。俺たちをな、迎え入れてくれる御方がいるんだよ。その御方は、おまえよりも、もっとひどい傷を、その脇腹に持っているんだよ。」

イエスの受けた傷は、私たちを赦すための傷、イエスの十字架は、私たちを赦し、受け入れるためのものなのです。

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