だからこその十字架
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- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 4章7節~11節
7だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 8神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。 9悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。 10主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
兄弟を裁くな
11兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 4章7節~11節
詩編24:3-5 ヤコブ4:7-11
「だからこその十字架」
I.神に服従し、悪魔に反抗する
見えない神を見えるようにする、良い行い。しかし私達は、毎日、良い行いだけをする訳ではありません。主の心を悲しませる、そのようなことをすることも多々あるのです。特に4章で、聖書は、クリスチャン同志の様々な、いさかいについて、語り始めるのです。
教会は外からの攻撃に対しては、強固に守りを固めて、打ち勝っていく事が出来ます。しかし内部からの問題。特に教会員同士の争いが起こると、教会は弱体化していくのです。
幾らクリスチャンといっても私達は、この地上において、完全に聖よめられている訳ではありません。私達は永遠の御国において、初めて完成をするのです。
ですから、内部分裂を起こそうとする。これは、悪魔の常とう手段です。
そこで、聖書は次のように語ります。これから、ヤコブは神の御恵みを受ける、10の秘訣について語ります。祝福を受ける10のステップです。
「だから」という接続詞で始まります。悪魔に勝利し、更に恵みを受けるその道筋について、語っていくのです。
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ver7)。
「そうすれば」という御言葉がver10までの間で3回出て参ります。
二つは、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい→そうすれば」(ver7)。「神に近づきなさい→そうすれば」(ver8)。という二つの命令の文脈で出てきます。
そして次が、ver8後半から、ver10までの7つの命令の文脈で、「そうすれば」とでてくるのです。Ver11以下にも、「そうすれば」という言葉は出てきますが、神の命令と共には語られておりませんので、この10の命令が、神の祝福を受ける上で大切なことであることが分かると思います。
ここで三組の命令と約束が出て参りますが、第一が、神に従い、悪魔に反抗するという事です。悪魔は嘗ては、御使いの長でした。しかし、その高慢の罪の故に、神に裁かれ、地に落とされました。勿論悪魔は、イエスの十字架によって、敗北しました。しかし、教会とクリスチャンに反抗して、今でも多くのクリスチャンを堕落させようと働いているのです。
悪魔は様々な形で私達に誘惑を仕掛けてきます。それは私達が体験する様々な欲望、肉体的事柄のみならず、物質的な様々な暮らし向きの自慢など、様々な事柄を通して、誘惑してまいります。それはひいては、貪りに繋がっていくのです。
更には、自分を成長させようとするような、向上心をも、それが過ぎれば、悪魔は欲望に変えてしまうのです。
悪魔とは、ヘブル語では、「告発する者」ですから、様々な手を尽くして、私達にささやきかけて、お前それでも、牧師か、それでも、クリスチャンかと語りかけてくるのです。
そして、本当にお前の様な者の罪は赦されるのかと、私達に神に対する疑義を抱かせるようとするのです。私達を惑わそうとするのです。
このような、悪魔の様々な攻撃に、私達が、打ち勝っていくには、私は絶対に、悪魔ではない。神にのみ従うのだと自覚することが大切なのです。
神に従うとは、人生の所有を明け渡すという事です。イエスを主とすることです。人生のかじ取りを主にお任せしていくのです。自分が人生の主ではないという事を自覚していくことが大切なことなのです。
イエスは弟子達に対して、私について来なさいと語られましたが(マタイ4:19)、これは、Come after Me という言葉で、神に従うとは、神の後をついて行くという事なのです。私は悪魔の側に付く者ではないのです。私は、神の側に付く者である。
Im on Gods Sideと告白することなのです。それが悪魔に反抗することであり、そうすれば、悪魔は私達から逃げ去っていくのです。
先週もお話ししました、アメリカ史上、最高の大統領と呼ばれるアブラハムリンカーン、彼は、ウイリクス・ブースという人に殺され、アメリカ史上最初の暗殺された大統領になってしまった人でしたが、先週も申しました。
南北戦争の時に、部下から、リンカーン閣下、神は、我々北軍の味方ですか、それとも、南軍の味方ですか? と聞かれた時に、神が我々北軍の味方であるか、それとも、南軍の味方であるか、そんなことは問題ではない。問題は、我々北軍が神の味方であるかどうかだと言ったことは、余りにも有名なことですが、私達も又、神の味方となる、神と共に歩む。そのような歩みをしてまいりたいと思います。
II.神に近づきなさい
神に近づきなさい。この命令には、明確な答えがあります。そうすれば、神は近づいて下さるという事です(ver8)。今の時代、ライトな感覚で神に近づくという事が良く語られ、賛美されます。
これは私が福音派にいたときに、よく聞いたメッセージであり、今でもYou-Tubeでもそのような賛美が溢れています。親しい友の様に、まるで肉親の親子であるかのように、そして、神が何時も共にいて下さる。それが、当たり前であるかのように、思われているのです。勿論私は世の終わりまであなた方と共にいる。神は約束して下さっていますから、主はいつも共にいて下さる。これは真実な福音です。
しかし、聖書の時代に遡れば、絶対的に聖よい神に、人間が近づくことなどあり得ないことでした。ですから、預言者イザヤは、自分の目で神を直接に見てしまったときに、
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ書6:5)。と語らざるを得ませんでした。
契約の箱を運んでいた牛がよろめいてしまって、契約の箱を落としそうになったときに、不用意に契約の箱に触れてしまったウザは、神に打たれて死んでしまいました(サムエル記下6:4)。
大祭司であったとしても、神との会見の場と言われた、至聖所に入ることは、一年に一度しか許されませんでした(ヘブル9:7 レビ記16)。
これが聖書の時代の神と人間との距離感だったのです。しかし、イエスの十字架によって、あの至聖所への垂れ幕が上から下まで真二つに裂けてしまったときに(マタイ27:51)。
私達が自由に神と交わる、主とともに人生を歩む、主が何時も、終わりの時に至るまで共にいて下さるという、祝福の中をわたしたちは、生きる事が出来る様になったのです。
イエスによって贖われた、救われた私達は最早、悪魔は恐れるに足らない者であるばかりか、神は決して遠いお方ではなく、私達と共にいて下さるお方である、そのような存在に代わったのです。私達は、どんな時にもイエスを通して、
神に近づく事が出来る様になったのです。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さる。神は遠くに鎮座ましましておられるようなお方ではなくて、私たちが祈ったら初めて、重い腰を挙げられるようなお方でもなくて、私たちに駆け寄って来て下さる神なのです。
III.だからこその十字架
「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」(ver8)。
罪人たち。心の定まらない者たちとヤコブは語ります。これは特定の誰かではなくて、私達一人一人の姿です。確かに私達は、罪人であり、心の定まらないものではありますけれども、いつまでも、そこに留まり続ける必要はないのです。
人生は、何処までも前を向くのだというのが、聖書の教えです。過去の涙で、決して、決して未来まで染めてはいけないのです。
「手を清める」、「心を清める」。これは原典の言葉も違う言葉が使われていますが、それ以上に、祭司達が儀式を行うことでした。
祭司は、儀式をとり行う前に、入り口に置かれていた、洗盤で手を清めなければなりませんでした。そして、それは、心が清められていることの証しでした。
「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/
欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる(詩編24:3-5)。
そして、これは、私達が現実の生活の中で得て行くものなのです。清さは、一朝一夕で身に付くものではありません。外見的に私達は幾らでも、そのように振舞うことはできます。しかし、
本質的に、心の中まで、自力できよめることはできないのです。
それはどこまでも、主を第一にして、主を礼拝し、日々の生活の中で、主に従う、神に従い続けるしか、私達が聖よめられていく方法はないのです。そして、最後に聖書は語ります。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ver9-10)。
まるでイエス山上の説教を思い出させる御言葉です。私達は、主の御前に、自分自身をつき詰めていくならば、とても笑っておられるような状態ではないという事が分かると思うのです。
自分の罪深さに圧倒されてしまう、そのようなことがあると思います。だから聖書は語るのです。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ver9-10)。
自分の心の中を見れば、悲しみ、嘆き、泣くしかないのです。とても、笑ってなんかいられないのです。私達は真摯に、この御言葉を読めば、私達は絶望するしかないのです。
しかし、だからこその、イエスの十字架なのです。十字架によって、私の心の中にある、絶望が希望に、涙が喜びに変えられていくのです。
だからこそ、私達は、そのような時にこそ、私達を憐れんで下さる神に近づいていくことが大切なことなのです。
そうするならば、私達の様な者にも神は近づいて下さって、私達を受け入れてくださるのです。鍵となるのは、神の憐れみにより頼んで行くことなのです。私達がイエスを通して、神に近
づいていくときに、私達の敗北を勝利へと主は逆転して下さるのです。
正に、そのままの姿で、私達一人一人を受け入れてくださる。それが父なる神であり、救い主、イエス・キリストなのです。また実際に、人生には、悲しみの時もありますし、嘆きの時だって、沢山あります。更には涙の時にだって人生には沢山あるのです。
しかし、「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩編30:6)。
私達が、自分の姿を認めて、もう一度、神に従おうと決心する。神と供の歩もうと決心をする。イエスが私の主なのだから、このお方と主に歩み、イエスにあって神と共に歩み、イエスにあって神に近づいていく。
そうするならば、神が私達に近づいて下さるのです。この様な心をもって、これからも、この地上における、クリスチャンライフを歩んで行く者は決して、涙のままの朝を迎えることはありません。そのことを信じて、これからも、クリスチャンライフを歩んで行く者でありたいと思います。
チイロバ先生として有名な、故榎本保郎牧師は、神学生の身でありながら、本当の意味で、十字架の意味が分かりませんでした。ある時、そんな彼の心を見透かされるように、「君はまだ罪が分かっていない。罪意識のない者は、福音を理解することができない」と言われました。
その言葉に腹を立てながらも、小さな頃からの思い出せる限りの罪を具体的に書き出してみると、出るわ~分厚くなった自分の罪のリストの便箋を眺めながら、「私のこの罪の為にイエスが十字架について下さったのだという実感が沸
き感激の涙があふれてきて、この時ほど、イエスの受持化が身近に感じたことはなかった」と、その時の感激を記しておられます。
そして彼は、三人の人に自分の罪の告白の文章を送ったそうです。どんなに小さなことでも、伏せておきたいような不名誉なことでも、赤裸々に思い出す事が出来る限りの罪を書き記して投函したのです。
恐怖が襲ってきました。告白文を読んだ両親からは勘当を、神学校からは退学を、愛する女性からは、絶交を言い渡されるのではないかと・・・正に彼は、榎本先生は、罪から来る報酬を身にしみて感じたのです。
いよいよ神学校の先生から、呼び出しがかかると、観念して祈りの時を持ちました。すると、「子よ、汝の罪は赦されたり。安らかに行け」との主の御声を聞くのです。一切のおそれを取り除く、新しい赦しの力を得て、後の彼の歩みが、神の主服に身満ちたものになったのか、それは疑いようがありません。
十字架の贖いによる、罪の赦しを、彼は己がものとして体験したのです。今でもあの時の感動を忘れることはできないと、榎本先生は記しておられます。
どうか、私の内心をみれば、罪人であり、心の定まらないものであり、手を清め、心を清めなければならない。ましてや、笑ってなんかいられない。嘆き、悲しみ、泣かなければならないものですけれども、だからこその十字架。
私は神に従うのだ。私はイエスにあって、神に近づくのだ。そうするならば、神は必ず私たちを引き上げて下さる。そのことを信じて、これからも、クリスチャンライフを歩んで行く者でありたいと思います。
