それでも愛の言葉を
- 日付
- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 3章6節~12節
舌を制御する
6舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。 7あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。 8しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。 9わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 11泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。 12わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 3章6節~12節
箴言12:18-19 ヤコブ3:6-12
「それでも愛の言葉を」
I.制御不能
ヤコブの手紙のテーマは、信仰の見える化です。信仰の証しとしての行いです。
しかし、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ver2)。言われているように、人生には過ちがつきものです。失敗が必ず付いて回ります。この地上において、イエス以外に失敗しない人はいません。
そして、その失敗の中で、最も大きな物が、「舌」です。「ことば」の失敗です。ヤコブは、もし言葉で過ちを犯さないならば、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ver2)。と言っています。
そして、馬とクツワ、船と舵の例を挙げて、小さなものが全体に影響を与えることを語ってきました。
「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」(ver5)。
Ver5はギリシャ語を読んでみると、段落が変わっています。そして、強調されているのが小さな火でも大きな森を燃やしてしまうという事です。
「大言壮語」とは、「誇る」という意味ですが、本当に私たちは、舌によって、言葉によって自分
自身を誇るのです。そしてそれは神の御前に自分自身を弁えない者として捉えられているのです。
更にヤコブは、続けます。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ver6)。
例えば、私たちは直ぐに、大言壮語してしまいます。小さな火が森を焼き尽くしてしまうように、小さな舌から発せられた言葉が、人間関係を焼き尽くしてしまうのです。本当に小さな舌から発せられた何気ない言葉が、人間関係を破壊していくのです。
そして舌は、不義の世界とヤコブは語ります。ヤコブは舌は罪の凝縮であると考えるのです。
堕落した世界の悪の性質、貪欲、偶像礼拝、冒涜、限りのない欲望、それらはみな、舌から始まるのです。その結果、体全体を汚し、全人格を汚していくのです。
こうして言葉は、口は舌は、私たちの人生を根本から全人格的に破壊して行ってしまうのです。
そのことを、ヤコブは、 舌は「火」とか「不義の世界」、「全身を汚し、」「移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ver6)。と言う大変ショッキングな言葉で表現しているのです。
ですから、舌をコントロールすることは、正に人生をコントロールすることになるのです。
それにしてもなぜ、ヤコブはこれほどまでに、舌に拘るのでしょうか。それは、舌が神によって
創造されたものであるにも拘らず、制御不能だからです。そして、それは、実際に箴言でも言われているところです。実に箴言には、口に係る御言葉が多数ありますが、例えば、
「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬」(箴言12:18-19)。
「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。愚か者の口は破滅を/唇は罠を自分の魂にもたらす。陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く」(箴言18:6-8)。
「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜」(箴言18:12)。私たちの人生を破壊していく、言葉の恐ろしさを語っているのです。
噂は噂を産み、舌は人を傷つけて止まないのです。
更にヤコブは続けます。「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました」(ver7)。
動物を制御することができる人間であったとしても、「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ver8)。
たとえ人間が動物を従わせる事が出来たとしても、誰も舌を従わせることはできないのです。
どんなに科学万能の時代に生きていたとしても、私たちは舌だけは制することができないのです。
ですから、もし私達が舌を制することができたら、それは、唯神の憐れみ、恵み、助け以外の何ものでもないと思います。神に頼ること。これこそが、舌を制する唯一の方法なのです。
II. それでも愛の言葉を
さて、イエスは、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ15:11)。 と言われて、私たちの口が、舌がどんな言葉を発しているのか、その大切さを語られました。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(マタイ15:18-20)。
本当にその人を汚すのは、外から入るものではなくて、その人の心から出て来るものなのだと聖書は語ります。
つまり、イエスは、その人が語る言葉は、その人の霊性を表していることをマタイの15:18-20で語っているのですが、同じ様に、ヤコブも、その人の語る言葉が、その人の霊性を表していることを語っているのです。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36-37)。
ですから、私たちは語る言葉に本当に気をつけていく必要があるのです。心が二心で、一貫性のない人は、その口の言葉にもまた一貫性がないのです。
「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ver9-10)。
ヤコブはここで、同じ舌が、神を賛美し、同じ舌が、神に象って創造された人間を呪う。同じ口から讃美と呪いが同居してでてくるという、負の二重性を語ります。
更には、「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」(ver11-12)。
これはヤコブが好む、修司疑問文で、「いいえ」という答えを期待しているのです。
「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか」(ver11)。イイエそんなことはありません。ヤコブはそんな答えを期待しているのです。
更には、「わたしの兄弟たち」とここでもまたヤコブは言っていますから、本当に、愛をもって語りかけて、「いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか」(ver12)。イイエそんなことはありません。
ヤコブは、このような答えを期待し更には、三つ目のイイエです。「塩水が甘い水を作ることができますか」(ver12)。イイエできませんとヤコブは言っているのです。
それにしてもヤコブはどうしてここまで舌を悪者扱いするのでしょうか。彼はそこまで人を傷つけてしまったことがあったのでしょうか。それとも言葉によって、人に傷つけられてしまったことがあったのでしょうか。
もしかすると、被害者としての憤りが収まらないのかもしれません。それとも、言葉の加害者としての絶望感に打ちのめされてしまったのかもしれません。
何れにしても、神のかたちに象って創造された人間です。その唇は、本来神を賛美するために造られたものなのです。
しかし、それでもその同じ舌で、同じ口で人を呪ってしまう、どうしようもない人のさがを彼は見つめざるを得なかったのです。
「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ver6)。だから彼は、この御言葉を語らざるを得なかったです。
最後は言葉の過ちによって、自分自身も地獄の火に焼かれてしまう。その罪深さを語らずを得なかったのです。
丁度企業で社員をリストラする責任者が、多くの社員をリストラした後に、最後は、責任を取って、自分自身をリストラして、使命を終えていく、そんな話を聞いたことがあります。
同じように、舌も、自分でやるべき悪を全部やり尽くして、最後は責任を取って、自分も地獄の火に焼かれて行く。
ヤコブは悪を止めたくても止めることができない、人間の罪深さを、「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ver6)。この御言葉を語らざるを得なかったのです。非常にシュールな光景です。
ヤコブは、人間を徹底的に見つめていたの
だと思います。救い主イエスを自己保身の為に、十字架にまで追い込んで行く、人の罪性をその身にも又味わったのだと思います。
神のかたちに創造され、神を賛美するために造られたその舌が、神を賛美する。その同じ口で人を呪っていていく。
神のかたちに象って造られたと言っても、同時に人は、土の塵によって、創造された存在でしかないのです。
土の塵です。本当に儚くも脆い、それが人間の存在です。正に土の器です。
そうした存在でしかないことを、彼は、知っていたのだと思います。人は悲しみの存在です。
実際に私達も又、神がよいことをするように創造されたにも拘らず、悪や汚れが私の人生に入り込んで、他の人々を巻き込んで、自分という存在を汚し、人生を狂わせて、もしかすると、永遠の世界に至るまで影響御与えてしまうかもしれない。そういった悲しみの存在、それが人間なのです。
「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」(ver11-12)。
本来あってはならないものを生み出してしまう、自己矛盾。そこから生まれる、悲しさ、虚しさ、憤りに苛立ち、そうした彼の思いが込められている言葉なのです。
どうか、私たち一人一人、そのような自己矛盾に満ちた、言葉を語るものではなくて、願わくは、神をのみ褒め称える、いつも、首尾一貫した、言葉を語る、愛の言葉を語る人生を歩んで行く者でありたいと思います。何よりもイエスご自身が平和の使者として、この地に来られて、呪われたら、呪い返し、罵られたら、罵り返す。どうしようもない、言葉の応酬に終止符を打って下さり、更にはまさに今際の際に、あの十字架で、
「父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているか分からないのです」(ルカ23:34)。と言われて、賛美と呪いが同じ口から出る生き方に、終止符を打ってくださったのです。
どうか、それでも愛の言葉を語る、そのような人生を送って行こうではありませんか。
