創世記15:5-6 22:9-10ヤコブ2:18-26
「信仰が見える三つの事例」
I. 悪霊の信仰
この手紙は、イエスの弟ヤコブが書いた手紙です。イエスと少なくとも30年近く、身内として、一緒に歩んだ人が書いたものだけあって、見えない信仰の世界を見える形に表していく。それが中心的なテーマです。
「わたしの兄弟たち」、先週も、御言葉に聴きましたように、この手紙の中で、この御言葉は何回出て来るでしょうか。
彼は、正に愛をこめて、イエスを信じる人々が生涯、信仰から離れてしまうことがないように、何度も~「わたしの兄弟たち」と言いながら、行いの伴った信仰とはどのようなものなのか書いてきているのです。
信仰による救いか、行いによる救いなのかではありません。
この手紙が語ることは、クリスチャンの生きた信仰とは何なのか。クリスチャンに信仰の実践を勧めている。そのような手紙なのです。
そして、信仰は私たちの心の内にある単なる知識ではありません。寧ろ御言葉を聞いて行うと、私たちは学んできましたように、御言葉を聞いて、それを心に蓄えるならば、必ずや、それは外側に現れて来る、実を結んでいくのです。
そういう意味で、信仰とは蒔かれた種のようなものです。それが、良い土地に落ち、更にその種の内に、命がある。それが良い種であるならば、必ず実を結んでいくのです。
しかし、それが命のない種、悪い種であるならば、残念ながら、実を結んでいくことはないと思います。
このヤコブの手紙は、信仰と行いを何か対立的な事柄として、捉えられているのではなく、行いというものが、その人の内に、確かなる信仰がある事を確認していく、そのようなものであると言っているのです。
信仰を目に見える形で表していく、信仰の見える化大作戦と先週御言葉に聴きましたが、私達が持っている信仰を可視化するもの、それが良い行いのです。
そして正に、その反面教師として出て来るのが今日の御言葉の悪霊です。
「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。
先週も、御言葉に聴きましたように、悪霊は無神論者ではありません。私たちは、悪霊も信仰を持っていると聞くとビックリしますが、悪霊は、無神論者ではないのです。
彼らは、神の存在を信じています。しかもそれは、八百万の神々ではなく、真の神を悪霊も又信じているのです。更には、イエスが真の救い主であることも又信じています(マルコ3:11-12)。
当然永遠の滅びという刑罰の場所がある事も信じていますし(ルカ8:31)、しかも、イエスが裁
き主である事を知って身震いしているのです(マルコ5:1-13)。これだけのことを知っていなが
らも彼らは、良い行いをするどころか、クリスチャンを神から引き離そうと躍起になっているのです。これが「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。ということなのです。
ハイデルベルク信仰問答は、問21で信仰について次のように言っています。
問21:まことの信仰とは何ですか。
答:それは神が御言葉においてわたしたちに啓示されたこと全てを私たちが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊が私の内に起こして下さる信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
イエスが救い主であるということを頭で、知識で知っているだけではありません。ましてや、神が存在する。そのことを理解しているだけでもないのです。心の内で確信して、更には、主に信頼していく。そういう信仰を、ハイデルベルク信仰問答は語ります。
そして、そのような、信頼を伴った信仰は、その信頼の姿は必ず外に現れてくるのです。しかし、悪霊の場合は、この確信と信頼が全くありません。知識はあります。霊的な知識については、私達人間なんかより、よほど豊かな知識はあるでしょう。
しかし、その知識が信頼へと結びつかずに、寧ろ全く逆に、恐怖心を抱いて、身震いをする、という事となって現れてくるのです。イエスに対する信仰が信頼へと結びつかないのですから、それは結局単なる頭の知識でしかないのです。「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。
私は神を信じています。その様に言う人は沢山います。しかし、大切なことは、どの神を信じているのかということです。どのお方を真の神として、信じ、信頼しているかということです。
更には、私は信仰をもっていますと言う人も沢山いるでしょう。しかし、その信仰は、どのような信仰なのですか。知識だけの信仰ですか。心の中にあるだけの信仰ですか。それとも、行いの伴った良い生きた信仰ですか。
信仰が外側へ良い行いとなって現れ、更には、ハイデルベルク信仰問答が言っているように、本当にそれが救い主への信頼となって、現れていく、これは本当に、大切なことです。「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。
私たちが信じている神は、どのようなお方ですか。私たちは、どのような信仰を持っているでしょうか。
II.アブラハムの信仰
さて、ヤコブは、悪霊の信仰の愚かさを語りながら、「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」(ver20)。
このように言って、今度は、模範的な信仰として、イスラエル民族の父、アブラハムの信仰について語ります。
「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(ver21-22)。
ここは大切な所ですから、じっくりと語りたいと思いますが、ここは、信仰による救いか、行いに
よる救いなのか、対立的に語られていく御言葉です。
しかし、信仰が行いによって、実証された、信仰が見える一つの実例として、アブラハムの信仰についてヤコブは語るのです。
アブラハムはイスラエル民族の父と呼ばれた人ですが、その信仰は、一人子イサクを神にお献げしたときに、完成したのです。
具体的に言えば、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:5-6)。
未だイシュマエルも、イサクも生まれていなかった、この時点で、神はアブラハムを義と認められたのです。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:6)。と言われたとしても、見える世界は、年老いた自分と年老いたサラしかいないのです。
それにも拘わらず、アブラハムは神を信じたのです。「聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります」(ローマ4:3)。
「それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです」(ガラテヤ3:6)。と言われているのは、この時のアブラハムの信仰を言っているのです。
しかし、ヤコブが、「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」(ver21)。と言っているのは、この創世
記15:5-6の時点のことではなくて、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(創世記22:9-10)。
この時点のことを指しているのです。最初にアブラハムが神によって、信仰によって、義と認められた、それから、30年後、アブラハムの信仰は、神の御前に息子のイサクを献げるという行いによって、結実して行ったのです。
アブラハムの信仰は、最初に神によって、義とされて以来、有効に働き続けて、自分の一人子イサクを献げるということにおいて、完全に、外にいる人々に対して、心の中の信仰を、見える化していったのです。
ヤコブがいう、行いは、パウロがいう信じることによって救われるという、信仰が生きて働くことの結果なのです。
そして、そこには、一切の矛盾は存在しません。この行いと信仰は彼の内にある両輪であって、だからこそ、アブラハムは神の友と呼ばれたのです。
信仰と行いは対立するものではありません。そうではなくて、信仰が生きている事柄であることの証し、それが行いなのです。
III.ラハブの信仰
最後にヤコブが挙げるのは、遊女であったラハブの信仰です。旧約聖書ヨシュア記2章、6章に登場します。
「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」(ver25)。
ラハブは、異邦人でしたが、ヨシュアがエリコの町の偵察の為に送り出した使者を匿って、追手が来たときに、別の道から送り出したのです。
その結果イスラエルに加えられて、ダビデ王の先祖になった人です(ヨシュア記2:2-12)。ということは、イエスの先祖ともなった人です(マタイ1:5)。
エリコの城門近くで、ヨシュアが遣わした拙攻を送り出したときに、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア記2:9-11)。
どういう経緯によってか、ラハブは異邦人の娼婦でありながらも、真の神を信じる信仰に至っていたのです。そして、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました」(へブル11:31)。
アブラハムと同様にラハブも、信仰によって救われた人の事例と、行いによって救われた人の事例の両方に挙げられている人です。
確かに初代教会の中には、パウロ派の信仰による救いを強調する人もいれば、ヤコブ派の行いによる救いを強調する人もいました。
しかし、聖書66巻の文脈の中で考えてみれば、この両方の考えが全く矛盾のない考えとして受け入れられていくのだということを、このヤコブの手紙は語っているのです。
こうしてヤコブは、一人の反面教師の事例、そして、二つの模範的な事例をひいて、
「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行い
を伴わない信仰は死んだものです」(ver25-26)。
行いの伴わない信仰は、死んだものです。との結論に至っているのです。実際に、人は、霊と肉体を決して、切り離すことはできません。
同じように、行いという見えるものがないとするならば、見えない信仰が、生きているかどうか、改めて考えてみなかればならないのです。
信仰と行いは、決して切り離す事が出来ないとヤコブは語ります。
パウロは語ります。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……」(IIコリント13:5)。
私たちの信仰が、生きて働くものであるかどうか、改めて心探られて行くものでありたいと思います。