2026年02月01日「信仰の見える化作戦」

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信仰の見える化作戦

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ヤコブの手紙 2章14節~17節

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行いを欠く信仰は死んだもの

14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 2章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

「信仰の見える化作戦」

創世記1:26-28 ヤコブ2:14-17

I. 信仰の実践に生きる

この手紙は、何回か申し上げてきました通り、イエスの弟ヤコブが書いた手紙です。イエスと少なくとも30年近く、一緒に歩んだ人が書いたものだけあって、見えない信仰を見える形に表していく。見えない信仰の世界を見える形で表していく、それが中心的なテーマです。

今日の御言葉でも、「わたしの兄弟たち」と言っていますが、彼は、正に愛をこめて、イエスを信じる人々が生涯、信仰から零れることがないように、何度も、何度も「わたしの兄弟たち」と言いながら、行いの伴った信仰とはどのようなものなのか、書いてきているのです。

勿論私たちは、この手紙から信仰による救いなのか、それとも、行いによる救いなのか、余りにも有名な、神学的な命題を見出す事が出来ます。しかし、聖書は基本的に、神から、私たち一人ひとりへの愛の手紙です。
ですから、この手紙の本質は、信仰による救いなのか、それとも、行いによる救いなのか、という神学的な命題を見出すのではなく、クリスチャンにとって生きた信仰とは何なのか。クリスチャンに信仰の実践を勧めている手紙であるという事が出来るのです。

さて、この手紙の2章に入りますと、信仰が目に見える形で問われてくる、具体例が続きます。それは、教会内の貧富の差、人々を分け隔てすること、そして、差別の問題等でした。信仰が正に目に見える形で問われてくる訳です。

「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(ver14-16)。

原典では、「何の役に立つでしょうか。」で始まり、「何の役に立つでしょう。」で終わります。最初の、「何の役に立つでしょうか。」は、行いのない信仰が「何の役に立つでしょうか。」で始まり、それを更に深く掘
り下げて、「その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」で終わるのです(ver16)。

私には信仰があります。これは誰でも言えることです。問題は、その信仰の質です。信仰の中身です。私は神を信じているという人は幾らでもいます。

しかし、問題は、どのような神を信じているのかということであり、そして、あなたが、本当に聖書の神を信じているならば、それは、あなたの信仰の行いに現れて来るのではないか。ということなのです。

ですから、その人がどんなに自分には信仰があると主張してみても、「その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」(ver16)。
行いに現れてこない信仰は、何の役にも立たないものなのだとヤコブは語るのです。そして、そのような信仰は、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ver17)。
死んだ信仰だと言っているのです。「そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ver14)。結論は、救うことができませんということなのです。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27-28)。

イエス御自身がこのようにお語りになられたように、イエスは、信仰を人々に正に見せました。病める人々の病を癒し、目の見えない人々の目を開き、足の悪い方の足を立たせ、耳の聞こえない方の耳を開き、悪霊を追い出され、罪人の罪を赦し、そして、最後は、十字架の死に至るまで従われました。

正にイエスは信仰を見せたのです。愛を見せたのです。神の救いとはどのようなものなのか、具体的に見せたのです。

最後には、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕(ルカ23:34)。私たちもこの日本で信仰をもって生きていくときに、正にその信仰が問われる場面が沢山あると思うのです。
拒否するのは簡単です。相手を裁くこともできます。見えていても、目に入っていても、丸で見えないかの様に生きることもできると思います。

「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ver14)。イエスを信じる信仰+良い行いで救われるのではないのです。

イエスを信じて救われた人は、その結果として、目の前にいる人々の必要を満たしていこうとする、唯心の問題に終始するのではなくて、実際に愛をもって、様々な事柄に取り組んで行く。私たちも信仰の実践に生きて行くものでありたいと思います。



II.生きた信仰と死んだ信仰

さてヤコブが、ここで問うていることは、信仰の本質です。聖書が語っている信仰は、イエスを信じるだけで救われる信仰です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ヤコブも決して、そのことを否定している訳ではありません。彼がここで、問うているのは、その信仰の本質です。私は、信仰を持っています。私は救われています。このように言うことは誰でもできます。
「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。ヤコブは言って憚らないのです。
信仰は、心の問題だけではありません。現実的なこの世界の中で生かされてくるものです。

心の問題だけに終始していたら、ただ天国に行くことだけが、私たちの目的だとするならば、私たちは何故、この世界に生きているのか、何故生かされているのか、その生かされてある意味が分からなくなるのです。

1974年スイスのローザンヌで開かれた、福音派の世界宣教会議で、世界の福音派が初めて、キリスト者の社会的責任について明らかにしました。そこで、伝道と社会的責任は、車の両輪であることが初めて明らかにされたのです。
それまでの福音派は、兎にも角にも、福音宣教第一、それ以外の事柄は、全て第二義的な事柄であり、教会の第一の務めは、伝道以外の何ものでもないと考えられていました。勿論この考え方は、今でも間違っていません。

少なくとも、私がいた頃の福音派は、例えば日本でいえば、靖国神社の問題にキリスト者が取り組むとか、在日外国人の人々に対する配慮、少数民族への配慮、社会的な弱者への配慮、性的マイノリティーの人々の問題、そして、環境問題、そのような事柄を教会が取り扱うことは、リベラルな事柄であり、そんなことよりも、兎も角も伝道しましょうと言うという雰囲気でした。

しかし、先程も申しました。1974年スイスのローザンヌで開かれた、福音派の世界宣教会議で、キリスト者の社会的責任について明らかにされました。

そこで、伝道と社会的責任は、車の両輪であることが明らかにされて以来、教会は、靖国の問題、在日外国人の人々に対する配慮、少数民族への配慮、性的マイノリティーの人々の問題、社会的な弱者への配慮、そして、環境問題など、それは、福音宣教と同じように、大切な事柄であると考えるようになったのです。

確かにこの世界に終わりはきます。しかし、終わりの時は破壊ではありません。完成の時です。

ですから、どうせこの世界は終わってしまうから、一生懸命伝道だけしていればよいというだけではなく、神が与えて下さっている、この地球を、この世界を、そして、そこに住む人々に正しく配慮していくことは、神が私たちに求めておられる事柄です。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28)。

そしてこれこそが、文化命令と言われた、神の御心に従うことなのです。そしてヤコブが、「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(ver15-16)。

この御言葉で語りたかったことは、このことなのです。勿論、社会奉仕をすることが=福音宣教なのではありません。社会的奉仕が、福音宣教にとって代わることは決してできません。

この世界は全ての民族に福音が宣べ伝えられて、それから終わりが来ますといわれていますから、一人でも多くの人々に福音を知らせることは、急務なのです。

しかし、私たちは、労働を通して、学び舎における学びを通して、地域社会における働きを通して、神と共に与えられている、この地球を、この社会を治めていくことを決して疎かにしてはならないのです。

だからヤコブは言うのです。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ver17)。

私たちは、何時も神の御前に、私の信仰は生きているのか、そのことを問われてまいりたいと思います。



III.信仰の見える化作戦

「しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そう
すれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver18-19)。
新改訳2017では、「しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」(ver18-19)。
信仰とは、これが信仰です。と、心の中から、取り出して見せる事が出来るものではありません。勿論口で、信仰とはこういうものです。ということは出来ます。

しかし、私たちが、人々に本当に信仰を見せようとするならば、私は行いによって私の信仰を見せましょうと言うふうに、良い行いをするしか、人々に、私たちの信仰を見せる道はないのです。

勿論私たちが礼拝に出席して、神を賛美し、お祈りをして、例えば、使徒信条や十戒を告白して、私たちの信仰を言語化して、人々に見せることはできます。しかし、私たちが、日々の生活の中で、信仰を見せようとするならば、それは良い行いを通して、私たちは人々に信仰を見せていくしか道はないのです。

そして、その私たちの反面教師としての、悪霊のケースがver19で語られ、お手本としてのアブラハムとラハブのケースがver20以下の所で語られて行くのです。

私たちは悪霊も信仰を持っていると聞くとビックリしますが、悪霊は、無神論者ではありません。神の存在を信じており、イエスが救い主であることも又信じています(マルコ3:11-12)。
永遠の滅びという刑罰の場所がある事も信じているし(ルカ8:31)、しかも、イエスが裁き主である事を知って身震いしているのです(マルコ5:1-13)。
 
これだけのことを知っていながらも彼らは、良い行いをするどころか、クリスチャンを神から引き離そうと躍起になっているのです。

正に、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver18-19)。ということなのです。

ですから、要は私たちは、自分の信仰をどのように人々に対して、見える化かをしていくのか、そのことが問われてくるのです。良い行いと信仰の対比ではないのです。更には、救いの条件としての良い行いでもありません。

信仰の結実としての良い行いなのです。「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ver19)。
ただ頭で信じて、知性で信じて、心の中の問題だけで終始していくような信仰なら悪霊だって持っていますよとヤコブは言うのです。

しかし、私たちはそうではない。イエスを信じて、あなたが本当に救われているならば、それは、良い行いに現れるでしょうと聖書は語ります。

私たち一人一人与えられた信仰の中で、私たち一人一人、あなたでなければできない、信仰の見える化計画をしていくものでありたいと思います。
神があなたに与えて下さった方法で、信仰を見せていく、そのような歩みをしてまいりたいと思います。

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