2025年11月09日「群集心理の裏表」

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湖の岸辺の群衆

7イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章7節~12節

原稿のアイコンメッセージ

「群集心理の裏表」

旧約聖書:コヘレトの言葉11:6
新約聖書:マルコによる福音書3:7-12      
      
I.敢えて私達のような者を
 イエスは、神の御国の福音を宣べ伝えて行かれました。神の御国の福音、それは、「神と人」との和解、「人と人との和解」、そして、「人と被造物」との和解です。イエスは、この福音を主に、今迄は会堂で語っておられました。しかし、これからは、主に、会堂の外で、イエスは福音を語って行かれる事となります。何故でしょう。それは、

「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(ver7-9)。
 イエスの御言葉を聴いて、イエスがなされた素晴らしい御業を見て、夥しい人々がイエスの下に集まって来ました。
 ガリラヤ、ユダヤ、エルサレムだけではありません。南は、イドマヤから、北はツロに至るまで実様々な地域から、イエスの御業を見て、癒される事を願い人々は押しかけてきました。
 これは、会堂におけるイエスの癒しが、ファリサイ人、律法学者達から受け入れられなかったとしても、一般民衆からは受け入れられていっ 
た、そのことを意味しているのです。霊的な事柄に於いては、一般民衆の、理解の方が、ファリサイ人、律法学者よりも、遥かに当を得ていると言いましょうか。主の御心に叶っているということも、また事実でした。
 この時イエスはどうされたのか、 「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(ver9)。
イエスは一人一人を大切にされました。しかし、決して、群衆をもまた、お見捨てになられることは有りませんでした。イエスは、群衆をもまた大切にされました。
しかし、群衆とは何なのかということを、イエスは客観的に理解されていました。今自分を求めて、激しく押し迫ってくる群衆が、後に、掌を返すように、バラバを釈放しろ、バラバを釈放しろ、イエスを十字架につけろ、イエスを十字架につけろ、この様に言って、イエスを十字架に追いやることもわかっていたのです。
 それでも、イエスは目の前にいる、群衆を決して拒否為されることはなかった。その代り、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(ver9)。弟子達に助けを求められたのです。
 ここに伝道の原点があります。日本人の99%の人々は、まだイエスの救いを知らないのです。
正に、私達の周りには、私達を押し潰さんばかりの群衆がいるのです。そして、一人、一人、問題を抱えている、悩みを抱えている、病を抱えている。ご家族に戦いがある、仕事の問題で悩んでいる、人間関係で苦しんでいる、様々な軋轢を抱えた、正に私達の目の前には、そんな群衆がいるのです。
しかし、どんな群衆であったとしても、イエスは決して押し潰されることはない、寧ろ、そんな群衆を相手にしたら、間違いなく、潰されてしまうのは、私達でありましょう。今日の御言葉で言えば、弟子達でありましょう。
それにも拘らず、イエスは、弟子達に助けを
求められた、そして、イエスは、今私達に、助けを求めておられる。何に於いて、助けを求めておられるのか、それは、伝道に於いて、イエスは、私達に助けを求めておられるのです。

何故でしょう。イエスがこの世界に臨まれて、ぱっと御力を発揮されれば、あっという間に、多くの人々が救いに入れられて行くでありましょう。主が直接に御手を伸ばされた方が、遥かに、効率的でありましょう。しかし、イエスは、敢えて、「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリント:21)。
 それならば、私のような者ではなくて、もっと、知恵在る者を立てれば、色々な意味において、摩擦も少なかろうにと思う訳ですが、
「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(Iコリント1:27-28)。
 神は敢えて、私達のようなものを立ててくださった。正に、主は、イエスは私達に助けを求めてくださったのです。
 イエスはここで、伝道をするにあたって、決して、群衆を軽んじてはおられません。だからこそ、群衆と心底付き合われたからこそ、イエスは、お疲れになられた訳ですし、正に押し潰されそうになることにも、敢えて甘んじておられたのです。そして、そこにいる一人一人を心から大切になされたからこそ、イエスは、弟子達に助けを求められたのでした。
今は、一頃に比べれば、クルセードが少なくなりました。所謂大衆伝道です。それでも、最近、ビリーグラハム先生のお孫さんの、ウイルグラハム先生のクルセードが、来年関西や四国で開催されようとしています。
クルセードは、多くの決心者を求めて行くものです。しかし、このような、マスを相手にした
伝道を否定する人々がいる事もまた事実です。何故ならば、イエスは群衆を目の前にしたときにでさえ、そこにいる一人一人を大切にされたのです。だから敢えて、小舟を弟子達に用意させて、その中から、人々に語ろうとしたのです。
 大衆伝道をする、本当にたくさんの人々が、集まってくる。そして多くの人が救われる。これは、素晴らしいことです。
私は今ままでも、定期的に、メディアミニストリーあさのことばでお話をしていました。
もう20年以上話してきたので、後任に道を譲って引退していたのですが、何人か私の話を期待して待ち望んでおられる方々がいるということを、お聞きし、又その様な方々が先日もわざわざ私の説教を生で聞くために教会を訪ねて来られましたので、悔い改めて、来年からメディアの働きに又復帰することにしました。
メディアミニストリーのリスナーの数は、ざっと、9万人位と言われています。正にマスに対して福音を語っています。しかし、私はそれを聞いている人々の、素性も何も知りません。男性か、女性か、若者なのか、中高年なのか、御老人なのか何も知りません。ある意味語り放しです。
それでも、9万人に福音を語れるこれは素晴らしいことです。ある意味、水の上にパンを投げるような、働きですが、この働きにやはり使命を感じて、これからも福音を語っていきたいと思うのです。
こんな者で良ければ、喜んで福音を語りたいと思うのです。たとえ、教会に来ることのできない方であったとしても、その方に福音を語ろうと思うのです。
 しかし、それと共に、一人一人に対する伝道を大切にしていきたいと思います。何故ならば、イエスは敢えて私達に助けを求めておられるからなのです。
伝道というのは、突き詰めると、どんな集会を開いて、何人集まったかではないのです。結局そこにいる一人一人と、膝を突き合わせて、福
音を語らなければならないと思うからなのです。神は私達をまとめて、救われる事はない。だから、神は、私達のようなものを敢えて、お選びになられて、マスに、群衆に福音を伝えるだけではなくて、私達が、一人一人の、友達に、教会に来る人々に、更には、あなたのご家族に、正に膝を突き合わせて、福音を語るために、神は敢えて、私達のような、者を選ばれたのです。
 「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(ver9)。
イエスは、決して押し潰されることはない、しかしイエスは、敢えて、その様な心で、覚悟で、そこにいる一人一人と向かい合っていこうとされたのです。
今イエスは私達一人一人を必要とされているのです。神は、私達のようなものを敢えて、お選びになられて、私達、一人一人の、友達に、教会に来る人々に、更には、あなたのご家族に、正に膝を突き合わせて、福音を語っていく、その様な歩みを求めておられるのではないでしょうか。
II.群衆の心の裏表
「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」(ver10-12)。
 病気に悩む、辛いことです。しかし、時として、人生に於いて、そのようなマイナスが、イエスに出会うきっかけになることもあります。そして、多くの人々が癒してもらおうと、イエスに触れようとして、イエスの下に押しかけて来たのです。傍に押し寄せたと、聖書は言っています。しかも、イエスを見た、汚れた霊は、「ひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」(ver11-12)。 イエスは、ここで、病に癒し主として、広く世間にご自身が知られるのを、お嫌いになられたのです。そのような形での、「神の子」、救い主としての御自身を現すことをお喜びにはなりませんでした。
 群衆の問題は何だったのか、それは彼らが、結局は、汚れた霊の虜にはなったとしても、真の神の命の虜にはなっていなかったということなのです。
だから、この人には、癒しの御力があるということで、一生懸命に手は伸ばすのだけれども、そしてイエスに触れる訳ですが、その触れているお方が、真の神の御子、救い主、イエスであることに気が付かないのです。そんな恐るべきお方が今、目の前にいることに群衆は結局気が付いていないのです。

 そして、それに気が付いたのは、汚れた霊だけなのです。汚れた霊は、霊だけに敏感だから、今目の前にいるお方が、どんなお方かすぐに気が付いたのです。しかし、イエスは、この汚れた霊に、御自身が神の御子であることを知らしめてはならないと禁令をお出しになられたのです。
 
何故でしょうか。それは、イエスご自身が、神の子としての権威をもって、ここにいる人の悪の霊を追い出したとしても、人々の病を癒されたとしても、結局彼らは、ここに登場してくる、群衆は、ファリサイ人、律法学者達と本質的に何も変わらないことをイエスは結局見抜いておられたのです。
 
ファリサイ人、律法学者達は、最初から、イエスを否定してかかって行った。群衆は、イエスに癒しを求めて、正に押し潰さんばかりの勢いで、押し迫って行った。

しかし、イエスは決して、そこにいる全ての人々を癒された訳ではありませんでした。多くの人々は、結局、癒されないまま残りました。
いや、イエスは敢えて、多くの人々を、そこに癒さないまま、置いて於いたのです。
 結局、群衆は、何処まで行っても群集なのです。癒された人々ですらも、結局イエスは、救い主というよりも、単なる、奇跡を行う者、預言者の一人程度にしか考えていなかった。
そうなるとましてや、癒されなかった人々がイエスを、救い主であると、信じ従ってくことはなかったのです。結局どちらに転んでも、彼らは、主を信じることは有りませんでした。
そして、この群衆が、ファリサイ人、律法学者達と結託して、最後は、イエスを十字架へと追いやっていったのです。だから、イエスは敢えて、汚れた霊どもに、
「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」(ver11-12)。のでした。

そして、御自身はあくまでも、神の御国の福音を宣べ伝える、真の救い主であるという、本来のあり方を貫き通して行かれたのです。

しかし、それでもイエスは、その群衆の心を御存じの上で、この群衆を愛して、御自身が押し潰されそうになられるほどに、弟子達に助けを頼むほどに、愛し抜いて行かれたのです。
結局、ある人々の、病は癒されたかもしれません。しかし、彼らの根本の問題、罪の問題は、解決されないままなのです。残ったままなのです。
このような、群衆の身勝手な心を御存じの上で、主は愛して行かれました。願わくは、私達は、このような身勝手な群衆ではなくて、生涯に渡って、主に従いゆく、主を愛し従っていく、その様な歩みをさせて頂こうではありませんか、
エリコという町にザアカイという徴税人がおりました。彼は、お金が全て、あこぎな取り立てで身を建てているような人でした。それでも彼は、何とか自分の人生を変えたかった。そこに噂で聞いた、日頃から様々な奇跡を行い、人々を愛されて行った、しかも当時のユダヤ教指導者達が相手にしない、遊女や罪人を受け入れて行
かれた、あのイエスが、わが町、エリコに来られることが分かりました。もしかすると、自分のような者でも受け入れてもらえるかもしれない。愛してもらえるかもしれない。彼は身長が低かった。群集に遮られて、イエスが見えない、しかし、一目でもキリスト様を見ようと、彼は、いちじく桑の木に登って、イエスが来られるのをじっと待っていました。そうしたら、キリスト様の方から彼に目を留めて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(ルカ19:6)と聖書は言っています。私の子供が小さな時に悪さをしまして、その時叱ろうと思って、「新ちょっと来なさい!!」と言ってもまず来ません。しかし、抱っこでもしてやろうかと思って、「新ちょっとおいで」といいますと、直ぐに飛んできます。何故でしょうか。親である私の言葉の語気を敏感に感じるのです。ザアカイも同じです。キリストの、「ザアカイ降りて来なさい」という言葉の中に、「お前よくもまあ、あんなあこぎな取立てをしたな。」、「お前良くも多くの人を苦しめて来たな」、「他の誰が赦しても、このキリストだけはお前を赦さないぞ!!」、「ザアカイちょっと降りて来なさい!!」、裁かれるような語気をちょっとでも感じたら、彼は、大喜びで木から降りる事が出来なかったと思うのです。ザアカイだって自分が悪い事をしてきた事は百も承知だと思うのです。その上に、これ以上責められてももうこれ以上どうしようもなかったと思うのです。所が、「ザアカイ降りて来なさい」、キリストの言葉の中には、彼を責める思いは何もなかったのです。イエスはザアカイのありのままを、そのまま受け入れられたのです。全てを受け入れられた時に、ザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ver8)。彼の人生が、180度変わったのでした。

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