2026年05月03日「愛こそが全て」

問い合わせ

日本キリスト改革派 花小金井教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

イエスとペトロ
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 21章15節~19節

原稿のアイコンメッセージ

イザヤ書43:4 ヨハネ21:15-19

「愛こそが全て」


I.愛こそが全て

さて、ギリシャ語で愛を表す言葉は、三つあります。第一に、アガペーです。神の愛を表す、神にしか持ち得ない、あり得ないほど豊かな愛です。そして、この愛によって、神はイエスをこの世に送り、イエスの十字架の死によって救いが成し遂げられました。
第二が、フィレオーです。これは人間の中では最高の愛で、親の子供に対する愛を表す言葉です。これは、人間レベルで考えれば、至高の愛です。
第三が、エロース。この言葉は聖書にはありませんが、元々は、人間が自分の力で神に近づこうとする。人間の愛の限界を表す言葉でした。しかし、これが今日では、あらぬ方向で用いられてしまっているのです。
今日の御言葉でイエスは、アガペーという言葉と、フィレオ-という言葉を巧みに使い分けられながら、ペトロの心に迫って行かれ、正に魂の医者として、失敗したペトロを改めて、立ち上がらせて行かれたのです。
早速御言葉に聞いて参りたいと思います。ガリラヤ湖の岸辺で、復活のイエスがシモン・ペトロに語りかけられた有名な物語です。
甦られたイエスは、ガリラヤ湖畔で焚火を起こし、パンと魚を焼いて、弟子達をまって、やがて7人の弟子達と共に、食事を共にしました。
その後、イエスは、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた」(ver15)。この実に印象深い御言葉を語られるのです。そして、この御言葉が三回繰り返されてまいります。
この三回に渡るイエスの問いかけは、ペトロのイエスに対する三回の否認、それを思い起こさせるためであったと言われています。
そして、イエスは、「あなたは私を愛しますか」という三回の繰り返しの中で、最初に非常注目するべき、御言葉を付け加えておられるのです。それは、「この人たち以上に」というイエスの御言葉です。
なぜイエスは、ここで、「この人たち以上に」という御言葉を付け加えられたのでしょうか。それは嘗てペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と自分を誇っていたからでした。
昔の彼なら恐らく、「はい、イエス様勿論です。私は、他の誰よりもあなたを愛します」と、胸を張って、答えていたと思うのです。
昔のぺトロは、明らかに自信過剰でした。勿論自分は他の弟子よりも上であると思っていました。自分を上に置いていました。
イエスはそこに目を留められて、あなたはまだその弱さを学んでいませんか?これがイエスのぺトロに対する問いかけの真意です。
「わたしを愛しているか」本当に何気ない、御言葉です。愛するという事は、子供でさえも理解できる御言葉です。それでもイエスは、敢えて、子供でも理解できる御言葉「わたしを愛して
いるか」と問いかけられたのです。私たちは、経験値が上がれば、上がる程、自分の力で何でもする事が出来る様になります。ですから、単純にイエスを愛する。神を愛するという事が難しくなってくるのです。
しかし、そのような、私たちの能力以上に、イエスが何よりも求めておられるのは、イエスご自身に対する一途な愛なのです。イエスはそれを何よりも、私たち一人一人に、お求めになられるのです。
私達は、どれだけの事が出来るか出来ないか、どれだけのものを集める事ができたか、その様な事で人々の能力を測るような事があります。しかし、これは、正に、この世界の基準です。しかし、イエスの基準はそうではありません。それはただ一つです。
「あなたはわたしを愛しているか」、唯それだけなのです。イエスにとって「愛こそが全て」の基準です。
ここにイエスの素晴らしい御性質がここにあります。イエスの行動の動機には、いつも愛があるのです。一人の人を引き上げるには、叱責も大切です。
しかし、何よりも大切な事は、「愛すること」。それが全てです。ですから、イエスのペトロに対する問いも、正にその一点でした。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ver15)と三回問い掛けられました。
「あなたは、信じていますか」、「あなたは、回心しましたか」、「あなたは、聖められていますか」、「あなたは、選ばれていますか」、「あなたは、義と認められましたか」、「あなたは、聖霊を受けましたか」、「あなたは、新生していますか」、
この様な、問いなら、どれ一つ取っても、ペトロは、答えるのに苦労したと思うのです。しかし、主の問いは、只一つ、子供でも分かる、しかし、非常に、根源的な問いでした。
「あなたはわたしを愛しているか」、ですから、彼は直ぐに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver15)と答える事が出来ました。
そして、これは私たち一人一人に対する、
イエスの問いかけなのです。主は、私達一人、一人に対しても、「あなたは私を愛しているか。あなたは、わたし愛しますか」と語っておられるのです。
あの、ナポレオン・ボナパルトフランスの偉大な皇帝となり、ヨーロッパを制圧し、その後彼は、ロシア支配という野望に挑戦し彼は失敗するのです。するとロシア、オーストリアなどが連合軍がナポレオンに追い打ちをかけたのです。
この戦いに敗れた彼は1814年に退位し、エルバ島へと島流しとなります。そこで、彼は権力の頂点に立っていたころのことを思い出してこう言ったそうです。「アレキサンダー、シーザー、シャルマーニュ、そして私は、偉大な帝国を建設した。我々は何に依存してそれをなしえたのか。我々は武力に依存したのだ。
だが何世紀か前にイエス・キリストは、愛の上に帝国を建て、人々を解放した。しかも、今日に至るまで、夥しい人々が、彼のために死をもいとわないのである。ナポレオンはこう言ったそうです。
あなたはわたしを愛しているか。この問いに、私たちはどのように、答えていくのでしょうか。

II.あなたの失敗を通してでも

さて以前のペトロは、「たとえ、みんながつま
ずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と自分を誇っていた訳ですから、「あなた
はわたしを愛しているか」と問われた時に、「はい主よ、勿論です。私は、他の誰よりもあなたを愛します」と、胸を張って、答えていたと思うのです。
しかし、この時ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver15)。とイエスの判断に任せるような言い方をしています。その言葉を受けて、イエスは言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」(ver15)。
ここで、ぺトロは、イエスが三度も、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」言われたので、「悲しくなった」(ver17)。と非常に、象徴的な御言葉が出て来るのです。
ライルという聖書学者が、イエスが正にペトロの魂の医者となって、彼の心に悲しみを掻き立てたと言っていますが、本当にその通りだと思います。
実は、イエスの三回目の愛しているかという御言葉は、二回目までの、アガパオウという言葉ではなくて、人間の中の最高の愛、フィレオ―を用いているのです。
イエスがペトロの目線まで下りて来られているのです。イエスが三度目に同じ質問をした時に、「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった」(ver17)。と聖書は言っていますように、イエスの質問の意味が明確になりました。
何故、イエスが、三回目にはフィレオーという言葉を使って、ペトロに三度も、同じ質問をされたのか、その意味がわかったのでした。それは、先程も申し上げましたように、彼が三度、「そんな人は知らない」と、イエスの弟子である事を否定してしまっていた事に対応していたからです。
しかし、ここになって、初めてイエスは、ペトロをお用いになる事が出来るようになったのです。
「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)。と彼の、ペトロの愛が如何に当てにならないかをイエスは、予告しておられましたが、ペトロは、三度、イエスに問い掛けられたときに、自分の愛の至らなさにハッキリと気がついたのです。
ペトロは答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ver17)。そしてイエスは言われました。「わたしの羊を飼いなさい」(ver17)。
イエスは、この様にして、ペトロの指導的な立場を、他の弟子達の前で、もう一度、回復して行かれました。三回の否定の罪を赦すだけではなくて、御自身の教会の世話を彼に委ねられたのです。
実は、彼が失敗したからこそ、イエスは彼を用いる事がお出来になられたのです。
実際ペトロは、「私は大丈夫だ」と思っていたときには、十字架を予告したイエスをいさめて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と厳しく叱責を受けました。
しかし、ペトロは、変えられました。砕かれました。実際に、ペトロが答えた、「私が、あなたを愛していることは・・・」と言う御言葉は、ギリシャ語では、「私は」という主語は、「愛する」という動詞形の一部になっており、「私は」という主語は明記されていないのです。
その代わり、「あなたは、何もかもご存知です」(ver17)の、「あなた」は、非常に強調されて
います。ペトロは、嘗ては、「私が、私が」と、昔は、俺がイエスを愛しているんだと言いながら、実は、その自分を誇っていたのでした。しかし、今は全く違う。
「あなた」と生涯をかけてイエスを指し示す人に新しく変えられたのです。彼は、失敗を通して、自分の愛が如何に頼りなく、もろい物であるかを知り、しかし、それとは180度違う、イエスの豊かな愛を知る事が出来たのです。
イエスは、私たちの失敗を通しても働いて下さって、あなたを形づくって下さって、あなたを、用いやすいように整えて下さり、あなたを通して御自身の愛を明らかにされて行くのです。


III.わたしに従いなさい

さてイエスはペトロに、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ver18)。と言われました。
人は、弱さを知らされ、支配される事を恐れ、自分で自分の道を開いたり、人に影響力を与える事を願います。
しかし、イエスの強さは、その反対でした。イエスの強さは、御自身の身を罪人にお任せになる所にあったのです。何と十字架の死に至るまで従われながらも、そこから、世界の人々の救いという、大いなる大逆転を行っていかれたのです。
「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(ver18)。と解説されておりますよ
うに、それは、ローマの役人に手を縛られて、ローマの刑場に引かれて行く事を意味しました。こうしてペトロもまた、殉教の死を遂げて行くのです。
イエスは、その上で、「ペトロに、「わたしに従いなさい」(ver19)と言われました。これは、従い続けなさいと言う、現在命令形です。それは、何処で何をするかと言うよりも、何処に置かれたとしても、そこでイエスに習う生き方をする事です。
確かにペトロは、過去に於いてはイエスに忠実に従う事ができませんでした。しかし、ここから彼は忠実にイエスに従い続けました。
イエスの愛が分かるときに、どんな状況の中でも、例えそれが、自分の思うに任せないような状況であったとしても、イエスに従う事ができるのです。
ですから、私たちがどのような状況の中にあったとしても、イエスに従う事が出来るのは、それは唯一つなのです。
イエスを愛する心、それが全て、愛こそが全てなのです。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver16)。

関連する説教を探す関連する説教を探す