真実な言葉を語る人生
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- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 3章1節~5節
舌を制御する
1わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。 2わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。 3馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。 4また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。 5同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 3章1節~5節
詩編39:2:ヤコブ3:1-5
「真実な言葉を語る人生」
I.御言葉に生きる
さて、この手紙の大きなテーマは、信仰の見える化です。即ちイエスを信じる信仰を具体的に表す行いです。
「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(2:26)。その事例として、語られているのが、私たちの口から発せられる言葉の問題です。
ヤコブにとっては、語る言葉も、行いの一つなのです。ヤコブは既に、「語るのに遅く」(1:19)と励ましてきました。
更には、「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」(1:26)。
とまで言っているのです。私たちの人生の祝福の秘訣、それは語る言葉の制御にある事は良くお分かりだと思います。
ヤコブにとっては、私たちが語る言葉も又、行いなのです。そして、その言葉を最も多く使う人々が、教師と呼ばれる、人の前に立って、教える人々です。そして、その語る言葉が人の徳を建てることもあるのですが、時として人に躓きを与えることにもなる訳です。
ユダヤ人の家庭では、子供をラビにすること
が一つの夢でした。若者達も又、ラビに伴う権威・権力に憧れていました。しかし、人の前に立つ。そこには必ず言葉が伴いますから、必ず失敗も多くなるのです。
ですからヤコブは語るのです。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ver1)。
「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイ23:8)。
この御言葉をそのままとって、牧師職を置かずに、牧師職にある人を兄弟と呼ぶ教派もあります。
また、この御言葉から牧師の「師」という字を、「仕」えるという字に置き換えている先生もおられます。
何れにしても、人の前に立って話すという事は、大変なことだと思います。
さて、パウロは、当時の三つの大切な働きの一つとして、使徒、預言者と共に、教師を挙げています。使徒、預言者と並んで、教師とは大切な働きでした。
そして、教師、教えるという働きには自然と権威が備わっていくのです。特にこの時代は、識字率が100%だった訳ではありません。ですから、特にクリスチャンにとっては、教えるという働きは、魅力的な物であったのです。
だからヤコブは言うのです。「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ver1)。
この場合の厳しい裁きというのは、終わりの時の神の御前での裁きではありません。そうではなくて、ヤコブは、教える立場にある人は、一言でいえば、自分を磨き続けなければならない。そうでなければ、より厳しい裁きを人々から招くことになるという意味なのです。
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:48)。言われている通りです。
パウロは言いました。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(使徒20:26-27)。
パウロは使徒としての自分の務めを完全に果たしました。しかし、逆にファリサイ人、律法学者達は、
「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12:40)。とイエスは、彼らを反面教師として語られました。
他の人々を信仰に導く者は、また人々の前で教える者は、その言葉に又自分自身が生きていなければなりません。
だから、ヤコブは言うのです。「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ver1)。
この御言葉を牧師に当てはめて、だから牧師になるのは大変だと言う人がいます。確かに牧師は大変です。しかし、厳密には、この御言葉は牧師にだけ言われている御言葉ではないのです。
人の前に立って教える人々、教師と呼ばれる人々、更には、「私の兄弟たち」と呼びかけられていますから、私たちクリスチャン一人一人に対して、語られている言葉なのです。
私たち一人一人に対して、あなたが語るその言葉に自分自身が生きていますかと問いかけてくるのです。
自分自身を磨き続けていくことは大切なことです。 「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:37)。
私たちは、本当にその語った言葉に自分自身も生きているのか。神の御言葉の見える化とずっと学んできましたが、私たち一人一人、唯御言葉を語るだけではなくて、その御言葉に生きているのか。
私たちの信仰を言葉という行いに於いて人々の見せているのか、改めて教えられたいと思います。
II.真実な言葉を語る人生
さて、人間とは、人と人との間に生きる人々ですが、現実的には、皆過ちを犯します。私たちは行いを通して、人々に信仰を示したいのですが、それでも、沢山過ちを犯すのです。
人を傷つけたり、人に傷つけられたり、完全な人など存在するはずがないのですから、私たちが人間である限り、過ちを犯して、大なり小なり、苦しむのです。
そして、その最たるものが、言葉の問題です。舌は小さな器官ですが、体全体を制御するより難しいと語り、その例として、馬と船が出て来るのです。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身
を制御できる完全な人です。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」(ver2-5)。
馬は口に付けたくつわで、騎手が馬の体全体をコントロールします。船は、小さな舵で、その船全体を操っていくのです。
私は馬を操ったことはありませんが、馬術などを見ると、くつわで実に巧みに、馬を操るのです。
それは船も同じです。どんなに大きな船でも、どんな大嵐の中であったとしても、小さな舵が船全体を操っていくのです。
しかし、残念ながら、どんなに優れた人であったとしても、決して舌をコントロールすることはできません。
もっとも誤りやすいものだと言えますし、次回詳しく御言葉に聴きますが、最初は小さな火が大きな森を燃やしてしまうように、何気ない人言葉が人間関係を破壊して行ってしまうのです。
「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」(ver5)。
恐らく、言葉で失敗したことがない方は、この中でお一人もおられないと思います。
ある教会で、一人の信徒の方が突然礼拝に来なくなったのです。皆がどうしたのかと心配しておりました。
そして一人の人が訪問したのです。そして来
なくなった理由を聞いたのです。そうしたら、その来なくなった人が次のように、言ったそうです。
ある時礼拝に行ったらある役員が、何で来たの?と言ったそうです。
勿論その役員は、優しい方ですから、本人の行き帰りを心配して、何の乗り物で来たのと聞いた訳でした。当然に訪問をした人も、あの役員さんは、そんなことを言う人ではないので、何の乗り物で来たのですかと言ったに違いないと説明したのですが、それでも、その来なくなった人は、自分などは、この教会に来ることが歓迎されていない、と傷ついてしまったと言って、聞かなかったそうです。
このケースなどは、もしかすると、現実の教会生活の中で、起こりうる事柄であると思います。
私自身、言葉による失敗は、幾つかあります。本当に若い時、そんなつもりで言った訳ではなかったのですが、それを、その姉妹たちは、私の言葉を曲解されて、二人とも教会を離れられてしまったのです。
もし、この中で、私の語る言葉で傷ついてしまった方がおられるならば、大変申し訳ないと思っています。
言葉による過ちは、本当に沢山あって、人を傷つけたり、傷つけられたり、その事に気が付いたり、気が付かなかったり。私たちは、言葉に於いて、過ちを犯す者なのです。
ヤコブは、この話題をかなりのスペースを割いて、続けていくのです。私たちは、本当に言葉の問題には気をつけて、もし気が付いたら、謝罪を したり、赦したりしていかなければならないと思います。
この先に御言葉に聞いて参りますが、言葉の
問題について、ヤコブが語る結論、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(ver17-18)。
ことばの問題については、結局上からの知恵に頼らざるを得ないのです。
「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」(ver5)。
言葉の力は肯定的に使えば、本当に偉大なものです。神が人間だけに与えられた、伝達の手段です。
しかし、その使い方を一歩間違えば、それは、一瞬にして、人間関係を破壊して行ってしまうのです。
私たちは度々、言葉において過ちを犯します。だからこそ、先ず私が赦していこうではありません。
先ず私が悔い改めて行こうではありませんか。先ず私からごめんなさいと謝って行こうではありませんか。
何よりもイエスご自身が平和の使者として、この地に来られて、呪われたら、呪い返し、罵られたら、罵り返す。どうしようもない、言葉の応酬に終止符を打って下さり、更にはまさに今際の際に、あの十字架で、「父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているか分からないのです」(ルカ23:34)。
と言われて、制御不能と不能と言われた唇を清め、賛美と呪いが同じ口から出る生き方に、終止符を打ってくださったのです。
どうか、真実な言葉を語る、そのような人生を送って行こうではありませんか。
そうでなければ、その人との人間関係が永遠に閉じられたままになってしまうのです。
私たちが、神の御前に、どのような言葉を使っているのか。相手の言葉をどのように聞いていくのか、心探られてまいりたいと思います。
