2026年01月25日「深みに漕ぎ出して」

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深みに漕ぎ出して

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章1節~11節

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漁師を弟子にする

1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 5章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

「深みに漕ぎ出して」
イザヤ書6:5-8 ルカ5:1-11

I. いつでも、どこでも、どんな状況の中でも
さて、今日は、年間指標聖句から御言葉に聴いて参りたいと思います。
今日の御言葉の中心人物はペトロです。今日の御言葉は正に、彼の召命の原点となった御言葉です。

彼はユダヤ人ですから、頭では、神を信じていました。しかし、少なくともこの出来事以前の彼は、神を信じているとは言っても、何となく神を信じていたのです。天地創造の神とは言っても、漠然とした神でしかありませんでした。

しかし、今日の出来事を通して、彼は明確に神に出会い、イエスこそ人となられた真の神、天地創造の神、イエスこそ救い主であると、彼はハッキリと分ったのです。

これは私達にもよくあることではないでしょうか。私は、クリスチャンホームに生まれながら、その恵みも神の恵みも分らないまま、生まれてすぐに幼児洗礼を受けていたので、16歳の時に信仰告白をしました。

そして、当時流行っておりました、「何となくクリスタル」という言葉に準えて、僕何となくクリスチャンなんだなどと平気で言っていました。


私達も又、神を頭では分かっていても、心にストンと落ちないと言いましょうか。分かるようで分からない時があるのです。しかし、神は、イエスは、今日の御言葉の、ペトロのように、あなたの人生にも、新しい光を与えて下さるのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ver10)。あなたを新しい人生に導いてくださるだけではなくて、人間を取る漁師、即ちあなたの人生に使命を与えて下さるのです。

今日の御言葉は、お昼近くの出来事です。漁は大体が明け方から朝までするものですから、一仕事終えて、彼らが網を洗っておりました。その時に、イエスの周りには、余りにも多くの人々が押し寄せてきたために、
イエスは、ペトロの船に乗って御言葉を語られたのです(ver1-3)。

 ここに見えるのは、第一に、イエスの宣教への熱い心です。宣教への熱心です。イエスは福音を宣べ伝えるのに、状況を、環境を選んでおられないのです。ある時は野原で教えられました。ある時は山で教えられました。ある時は会堂で教えられるのです。そして今日は船の上から教えられるのです。

正に福音の為ならば何でもする、それがイエスの姿勢でした。私達は、ともすれば、状況が整ったら、もう少し環境が良くなったら、更にはあのような良い場所ならば、これが与えられたら、福音を伝えますと、色々考えてしまいます。しかし、大切なことは、いつでも、どこでも、どんな状況の中でも福音を伝えるという事なのです。

私達は、このイエスの模範に倣っていく時に、豊かな祝福を受けるのです。時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさいと聖書は語ります。


時が良くなるまでと手を拱いていても何も始まらないのです。ためらわないで、主に頼りながら、できるところまでやってみる。真直ぐに、神だけを信じ、主だけを見上げて、主にだけ期待して、進んでいくのです。その時に、主は不思議と豊かな実を観させて下さるのです。
 
II.深みに漕ぎ出して
ペトロはびっくりしたことでありましょう。ペトロは漁師でした。ガリラヤ湖の事ならば、隅から隅まで分かっている人でした。彼は、漁のこと 
ならば、あらゆることを知り尽くしている、漁のプロなのです。その彼が、夜通し働いてけれども、一匹の魚を捕ることもできなかったのです。

しかし、イエスは、「話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた(ver4)。

いくらイエス様あなたが仰ったところで、主よあなたは、少なくとも漁のことは何もお分かりではないじゃないですか。

だから、ペトロは言うのです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた」(ver5)。

これは私達も同じではないでしょうか。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(ver5)。

これはまさに私達の心です。主よ私達は、これをしたけれども、何も取れませんでした。主よ私達は、あれをやってみたけれども、ダメでした。
これをしたけれども、収穫はありませんでした。神の御前に様々な言い訳を並べてしまうことがあると思います。


でも、ここに素晴らしい接続詞があるのです。それは、「しかし」、という接続詞です。

主よ私達は、あれをやってみたけれども、ダメでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ver5)。これをしたけれども、収穫はありませんでした。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ver5)。あの方法を試してみたけれどもだめでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ver5)。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ver5)。私達は、私達の人生に、この、「しかし」という接続詞を忘れずに歩んで行くのです。目の前の事柄が、どんなに、困難に見えたとしても、「しかし」主のお言葉ですからとやってみる。これは、素晴らしいことです。

「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(ver6-7)。
 
聖書が語るように、豊かな、あなたの人生ならではの収穫を主はお与えになって下さるお方です。

イエスは語られます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ver4)。これは、沖とは、「バスロウ」というギリシャ語で、第一義的には、「深み」と訳される御言葉なのです。

ニューインターナショナルバージョンでも、「Deep Water」と訳しています。新しい年、イエスは、あなたの人生の深みに漕ぎ出しなさいと語って下さるのです。

 あなたの仕事の深みに漕ぎ出しなさい。あなたの学びの深みに漕ぎ出しなさい。あなたの家庭生活の深みに漕ぎ出しなさい。あなたのクリスチャンライフの深みに漕ぎ出しなさい。そして、教会形成の深みに漕ぎ出しなさい。主はチャレンジをお与え下さるお方なのです。

そして、そのような主からのチャレンジが与えられたら、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ver5)。とお応えしていくのです。そうするならば、主は、あなたに、夥しい魚、船が沈みそうになるほどの人生の収穫を与えて下さるのです。

深みに漕ぎ出しなさいと語って下さる主に、「しかし」お言葉ですからとやってみる。そのような人生を送っていこうではありませんか。
 
しかし、実は、私たちは、ネガティブな面に於いても、もう一つ深みに漕ぎ出さなければならないときがあるのです。
 
主が私たちを訓練するために、様々な試みを与えて、お与えになられて、どうして、こんなことが起こるのですか。そのような所を通らされることによって、そのような出来事を体験することによって、私たちは、悶え苦しむように、解決を求めて、祈りの深みへと導かれて行くときがあるのです。

 人生は、本当に色々なことが起こります。様々な事柄に振り回されることもあるのです。
 ああもうだめかもしれないなんて言うような所を通らされることもありますが、しかし、それを通して、強制的に祈りの深みに漕ぎ出していく、人生の深みに漕ぎ出していくことがあるのです。
 
深みに漕ぎ出しなさい。それがたとえ、肯定的なことであったとしても、否定的なことであったとしても、主の御言葉に従って行く者でありたいと思います。
III.人間を捕る漁師になる
「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである」(ver8-9)。

ここで平伏したペトロの行為、これは礼拝行為です。「主よ」という言葉、これは又、「神よ」という言葉です。ペトロは、主の御言葉に従ったときに、自分の思いを遥かに超えた、奇跡を体験することになったのです。

漁のプロと自認していた、ペトロとその仲間たちが、夜通し働いても魚が取れなかったにも拘らず、何とイエスの御言葉に従って、網を降ろしてみるならば、網が破れそうになるほどに、更には船が沈みそうになるほどの魚が取れたのです。

この体験を通して、ペトロは間違いなく、霊的な世界のみならず、世界をも支配しておられる、神ご自身であるイエスに出会ったのです。

正にイエスは、人々との魂だけではなくて、この世界の全てを、自然界をも支配されている神であることを、彼はここで、如実に体験したのです。

そして、イエスこそが絶対的な神であることを体験したのです。イザヤは神ご自身に触れたときに、イザヤ書1章で、私から離れて下さい。 

私は唇の汚れたものです。と告白をせざるを得なかったのですが、ペトロも又、神であるイエスに触れたときに、「イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ver8)と言わざるをえなったのです。

しかし、又だからこその、救い主なのです。だからこその、神との仲保者であるイエスなのです。人間は本質的に罪深い存在です。私達が神に出会うならば、この時のペトロのように、私から離れて下さいと告白せざるを得ないような者でしかないのです。しかし、又イエスが共にいて下さるからこそ、私達は、神に近づく事が出来るのです。神と供の歩む事が出来るのです。

生涯に渡って、あなたを離れず、あなたを捨てないと言われたイエスが共にいて下さるからこそ、私達はまた神と共に歩む事が出来るのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ver10)。

そして、このお約束は、ペトロだけではないのです。全ての人に語られているものなのです。私たちは、土の器です(IIコリント4:7)。欠けだらけの者でしかありません。少なくとも、自分自身を顧みれば、とても、主のお役に立てるような者ではありません。

しかし、イエスは、ペトロのこれからに期待して下さって、彼と共に生活する中で、ペトロを形作って下さって、彼を豊かな器へと成長させて下さったのです。そして、同じように、私達~一人一人を変え続けて下さるのです。ご自身のお用いになりやすいように、私たちを変え続けて下さるのです。

ペトロとは、実は砂利とも訳せる言葉です。人々に踏みつけられるあの砂利です。しかし、ペトロは、イエスによって変えられ続けて、岩と呼ばれるようになり、マタイの16章では、この岩の上に私の教会を建てると言われて、彼のあなたこそ生ける神の子キリストです。
この信仰告白の上にご自身の教会を建てると迄言われたのです。イエスはペトロを生涯に渡って、変え続けて行かれたのです。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ver11)。

どうか、私達一人一人、深みに漕ぎ出しなさいと言われたイエスと共に、あなたの仕事において、あなたの学びにおいて、あなたの家庭生活において、あなたのクリスチャンライフの深みに、そして、教会形成の深みに漕ぎ出しながら、今年も主にお従いして行く者でありたいと思います

3・11で被災したある方のお証です。彼は、福島のある教会に通いながら、パン屋さんを営んでおりました。そしてあの大震災に遭って、暫くはまさに流浪の民でしたが、教会員の方々と離れて、一人奥さんの待つ、縁も所縁もない群馬に降り立ちました。
「故郷も仕事も教会も失いまるで戦争だ・・・」この方は、思ったそうです。
 しかし、この方は、茫然自失の中で、散歩をしておりました時に、ある公園で明治の小説家、田山花袋の言葉が刻まれた石碑に遭うのです。そこにはこう刻まれてありました。

「絶望と悲哀と寂寞(せきばく)(もの寂しく静まっている事)堪え得られるような、真なる生活を送り、運命に従う者を勇者という」、そこは小説、「田舎教師」の舞台の近くだったのです。
 そこから彼は立ち上がり、転職のパン作りに励み、地元の教会に通い、聖書の配布活動にも力を注がれました。

主のチャレンジにお応えして、深みに漕ぎ出していく、そのような歩みをして行こうではありませんか。


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