赦しの福音に生きる
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 2章5節~13節
5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 2章5節~13節
「赦しの福音に生きる」
レビ記19:17-18 ヤコブの手紙2:5-13
I. 人を分け隔てしないで
このヤコブの手紙は、イエスの弟ヤコブが書いたもので、聖なる見えざる神が具体的に、人となられた、イエスとその生涯を共にした人物の手紙らしく、見えざる信仰の世界を、具体的、現実的に見える形で表現することを中心に書かれているのです。
そして、ver1からは、具体的に現れる信仰の一例として、教会内における貧富の差、そして、エコ贔屓や差別の問題について書いてきたのです。
今日はまずは、貧しい人々と富んでいる人々の対比です。イエスは、いつも、貧しい人々に、特別なメッセージを語ってきました。
ナザレの会堂での最初のメッセージは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)。
山上の説教の第一の祝福は、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)。という約束でした。
更にパウロも、コリントの人々に言うのです。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Iコリント1:27-29)。
神は選びの神です。神の選びは恵みの選びです。神はこの世の人々が、無価値と見做した人々をも福音をもって召し、神の御国の相続者としたのです(エフェソ1:4-7、2:8-10)。
ヤコブが生きた時代は、基本的に富んでいる人々が貧しい人々を迫害しました。
例えば、貸し主が、街中で、借り主に逢ったときには、負債者の首根っこを捕まえて、息の根を止めんがばかりに、文字通りに法廷に引き立てて行ったのです。それが富んでいる者の、貧しい者に対しての仕打ちでした。ですからヤコブは語るのです。
「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」(ver5)。この御言葉はヤコブが好んで使う御言葉ですが、本当に大切なことを彼が語るときに、この手紙の中で、度々使われています。これは現代でいうクリスチャンに語られている言葉です。
このような常套句を使って、ヤコブが語ったことは、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか」(ver5-6)。
このように言って、この手紙の読者を戒めたのです。そして、成熟したキリスト者とは、どのよ
うなものなのかを語っているのです。「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」(ver7)。
もし富んでいるクリスチャン達が、貧しい人々にこんなことをしていたら、もう論外です。「あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」(ver7)。
当時のクリスチャン達は、ローマ皇帝に属しているのではありません。イエスに所属しているのです。この御言葉には、彼らが、初代教会に於いて、クリスチャンと呼ばれることになった、その背景があるのです。
クリスチャンとは、その立ち振る舞いが、「キリストに似ている」という意味です。しかし、あなたがたのやっていることは、全くその逆ではないですか。 まるでローマ皇帝のようではないですか。あなたがたは、それでもクリスチャンですか?ヤコブは言っているのです。
あなたがたは、「あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」(ver7)。ヤコブは言っているのです。
愛の反対は、憎むではありません。愛の反対は無関心です。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(ver1)。
こう言って、ヤコブは、この手紙の2章を語りだして、金持ちと貧しい人が会堂に入ってきたときの、対比を語るのです。「人を分け隔てする」=これは「エコ贔屓」です。私達は、偏った愛が蔓延する時代を生きています。
人種、民族、変える事が出来ないその属性で、差別をする、差別をされ憎み、憎まれる時代を生きているのです。一致ではなくて、分断、共存ではなく、相手を完膚なきまで叩くような、
いや又叩かれる時代を生きています。SNSの発達がそれを増長させているのです。
私が20代の時、アメリカで、その肌の色だけ差別されました。ある時何かの拍子に白人とぶつかりました。彼は私を一瞥して、何も言わずにその場を立ち去りました。
しかし、私たち、クリスチャンまでが、聖書を片手に持っていながら、聖書の御言葉に聴きながら、このような差別に、加担をしてしまっていたら、それは決して主が喜ばれることではないのです。
「私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」(ver1新改訳2017)。
アメリカまでがアメリカの裏庭と称される国を武力で制圧し、その石油利権を我が物としようとする現代、~ファースト何ていうライトなキャッチコピーが罷り通るこの日本の社会で、この世界で、特に外国人に対する扱いについて、厳格化しようとしている今の日本にあって、私たちこそが、愛をもって受け入れあって、一致して歩んで行く、そのような歩みをしてまいりたいと思います。
II.赦しの福音に生きる
さて、この手紙は、初代教会のリーダーであった、イエスの弟ヤコブによって、故郷を離れて、各地に散らばって生活をしていた12部族、即ちディアスポラのクリスチャン達に対して書かれました。
異国の地で、少数派として生活をしていた彼らは、主流派から排除されて、理不尽な扱いを受けていました。そこで彼らは問われたのです。彼らは、異郷の地で、なぜ生きているのか、い
や、何故生かされているのか。彼らは、毎日、
何方の前を生きているのか、生かされているのかということを問われたのです。だから、ヤコブはそんな彼らを励ますために、この手紙を書いたのです。
しかし、彼らが離散してしまっていた、これもまた神の御手の中にあったことです。彼等が離散していたからこそ、世界に福音が伝えられていったのです。ここに神に摂理的な御業があります。
嘗てイスラエルの民が神によって選ばれて神の特権と祝福に生きた民であるように、今の時代は正に、見えない信仰を見えるようにして、私たちクリスチャンが真のイスラエルとなって、神の祝福と選びの特権に生きる者として、神の教会を建て上げて、交わりを為していくのです。
そして、福音を伝えていくのです。このディアスポラのクリスチャン達が異教社会の中にあって、少数派であったように、私たち日本人クリスチャンも正に少数派です。
しかし、神がこの日本に、私たちをクリスチャンとして立てて下さっていることに意味があります。そのことを信じて、前進して行きたいと思うのです。
その様な神を信じる人々が少数派である、この社会にあってもヤコブは、旧約聖書の中から、神の律法を語り、人々を愛することを求めました。
「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」(ver8)。
これは、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。という御言葉が基となっています。
これは、王の律法とか、最高の律法と呼ばれているものです。あなたがたは、恐らく、この最高の法を守っているでしょう。それはそれで素晴らしいことです。
何故、この律法が王の律法、最高の律法と呼ばれるのかと言えば、それは、神が制定されたものであると共に、何よりもイエスご自身がそのように生きられたからなのです。
イエスは、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(マルコ6:27-29)。
このようにお語りになられ、実際そのように生きられて、十字架の上では、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕(ルカ23:34)。
マルティンルターは、「愛は女王である」と言っていますが、神が定められ、救い主イエスが実際にそのように、生きられた、王の律法の実践こそが、人々に求められているものでした。
あの良きサマリア人の譬えを思い出して下さい。強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、祭司でも律法学者でもなく、ユダヤ人と敵対関係にあったような、サマリア人でした。
しかし、あなたは、この王の律法を、最高の律法を本当に守っていますか。ディアスポラのクリスチャン達よ世界中に散らされた、少数民族の中で、人を分け隔てしてはいませんか。
ユダヤ人がユダヤ人を愛することはできるでしょう。しかし、あなた達が散らされた、その国々の中で、あなた達を迫害するような者たちを本当に愛する事が出来ますか。分け隔てなく、愛する事が出来るでしょうかと、ヤコブは語るのです。しかし、まず前提として押さえていきたいと思います。律法は自由をもたらすものなのです。どのような競技においてもそうですが、基礎を徹底的に行ったものが、縦横無尽にその技を操ることができるのです。
それはバスケであれ、野球であれ、ピアノであれ皆一緒です。ですから、私たちも神の律法に生きるときに、実は、真の自由を体験していくことができるのです。
魚は、水の中を泳いでいるときには、自由なのです。列車は、線路の上を走っているときに、自由なのです。魚が水から出たら、列車が線路を外れたら、自由に動く事が出来ないのです。
ですから、私たちは、神の律法を知り、律法に生きるときに、それを全て守り切る事が出来ない、自分の弱さを知り、そのために死んでくださったイエスの十字架の愛の尊さを知るのです。
しかも、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです」(ver10-11)。
律法全体が神の御意思であるがゆえに、その一部を守らなかったら、結局は全てを守らなかったに等しいのです。あれは守る事が出来たけれども、これはダメでしたではだめなのです。
ですから、「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」(ver9)。
本当の愛は、対象に左右されないのです。ユダヤ人がユダヤ人を愛することはできるでしょう。
しかし、あなた達が散らされた、その国々の中で、あなた達を迫害するような者たちを本当に愛する事が出来ますか。分け隔てなく、愛する事が出来ますかと、ヤコブは語ります。
そして最後に律法の大変大切な局面としての律法の憐れみについてです。
「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ver12-13)。
「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」(マタイ5:7)。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:15-16)。
人を赦さなければ本当の意味で、苦しみを受けるのは、許さない相手ではなくて、自分なのです。しかし、人を赦すときに、許していく時に、私達は真の自由を体験する事が出来るのです。
主が私たちを赦して下さったように、私達も又、人々を赦していこうではありませんか。主から赦して頂いた私達は、その愛に応えて、今度は人を赦していく、そのような人生を送っていこうではありませんか。
私たちは人を赦すときに、真の自由が与えられるのですから、この神の最高の法に、王の律法に生きて行くものでありたいと思います。
