2026年01月11日「神の時を手繰り寄せないで」

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神の時を手繰り寄せないで

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
使徒言行録 1章6節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

イエス、天に上げられる

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

マティアの選出

12使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 13彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 14彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章6節~14節

原稿のアイコンメッセージ

「神の時を手繰り寄せないで」

ヨエル書3:1 使徒言行録1:6-14

I.神の時を手許に手繰り寄せないで
 さて、旧約聖書のギリシャ語訳を、70人訳聖書と言いますが、ギリシャ語には、時を表す言葉が二つあります。
その一つは、「クロノス」と言う言葉。これは、「クロック」と言う言葉にも派生しますので、所謂、「時」、「秒針」で刻んでいく、「時間」を表す言葉です。
もう一つは、「カイロス」です。これは、特別な瞬間、あるチャンス、それは質的なもっと奥行きのある本質的な時を表す言葉なのです。

 私達の思いを遥かに超えた、神の御業が、私達の人生のある時に、表されていく。しかも、神はその全ての時を支配しておられるのだと聖書は言っているのです。
 何故ならが神は時間をも創造されたからなのです。皆さんイメージしたことがありますか。時間のない世界。ちょっとわからないですよね。時間がないということはどういうことなのだろう。

しかし、永遠の初めから存在され、時間を作られた神だけが、時間を超えて存在できるのです。また、この大宇宙が存在できる。私達が存在できる。空間すらも神が創造して下さいました。
 時間が無ければ、あらゆるものが存在できないでしょう。空間を創造された神だけが、何処にでもいることができる。私達の思い、限界を遥か 
に超えたお方が、この聖書が語る神なのです。あなたは、この神を知っておいでになられますか。
 
神ご自身であるイエスは、「カイロス」、この決定的な時にこの地上に来て下さいました。それが、クリスマスです。何と、時を創造された、永遠の神が、人となってこの地上に来て下さいました。そして、人と共に、時を歩む者へとなって下さいました。それが、救い主イエスです。 
そして、救い主イエスは、この地上を歩まれ私達の身代わりの裁きをお受けになられ十字架で死なれ、三日目に甦り、天に昇られました。そして、再びこの地上に帰って来られると約束をして下さいました。

この様な時の流れの中で、今日の御言葉には、三つの事柄が語られています。それは、まず、時の問題です(ver6-7)。今日の首題となるべきテーマです。そして、第二が、主の証人となることと、イエスの昇天です(ver8-11)。そして第三が、イエスが天に帰られた後の、弟子達の祈りの生活です(ver12-14)。
弟子達は、イエスに、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた」(ver6)。
「国」という言葉の取り違いです。イエスが語られた、「国」とは明らかに、「神の国」ですが、弟子達は、何処までも選民意識から抜出る事が出来ずに、イスラエル国家の復興を夢見ていたのです。

この考え方は、神の民として選ばれていたイスラエルの民が、ローマ帝国の支配から解放されて、イスラエル国家を再建するという、当時のユダヤ人としては一般的な考え方でした。
彼らはどうしても、この地上の、「国」という概念から抜け出す事が出来なかったのです。これに対するイエスのお答えは、次のようなものでした。

「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(ver7)。

ここでは、イエスが図らずも語られたのは、「時」の問題です。私たちは、どうしても、時を手繰り寄せたいのです。自分の願うときに、自分の願う方法で、自分の願うことが、実現してほしいのです。
自分の願う時に、神の御心の時を、手許に手繰り寄せてきたいのです。全ての時を知りたいのです。

この問題は、いつ解決するのですが、このトンネルはいつ抜けるのですか、この苦しみから私はいつ解放されるのですか。これは誰しもが思うことでありましょう。私達は、神の時を知りたいのです。

しかし、全ての時は神様の御手の中にある事を忘れてはなりません。ですから、私達は、その時が来るまで、神の御前に待ち続けるのです。 この待つという時こそが、私達一人一人にとって、尊いのです。ですから、私達は、いたずらに神の時を手許に手繰り寄せようとするのではなくて、最善の時に、最善のことを為される神に、全てを委ねて歩んで行くことが、大切なことなのです。
II.主の証人となる
 さてイエスは、弟子達のあまりにもの、この世的な世界観に対して、何も言われず、論評をせずに、弟子達に対して、ご自身の宣教の御計画を教えて、彼らの進む、新しい道を示されたのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(ver8)。


 この御言葉には三つの側面があります。それは第一に、私達が、主の証人となることです。

 証人とは、事実を証言する人です。そして、この事実という物程、確かなものはありません。事実程、説得力を持つものはないのです。
事実とは、間違いなく。イエスの十字架、復活、そして、昇天です。
 
そして弟子達は、この歴史的な出来事の証人なのです。ですから、弟子達の第一の務めは、このイエスの御業の事実を証言することにあり、それによって、自分の人生がどのように変えられたのか。それを証しすることでした。

 あのシロアムの池で、目を開けてもらった生まれつきの盲人のお話があります。彼は、イエスによって、目を開けてもらった後に、イエスを敵対する人々に囲まれたのです。そして彼らは言うのです。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」(ヨハネ9:24)。

 しかし、癒された盲人は言うのです。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)。
 この盲人は、彼の身に起こった出来事をそのまま証しました。この様に証人となるという事は、イエスの十字架と復活、昇天が、ただ事実であると語るだけではなくて、それによって、私自身がどのように変えられたのか。そのことを語ることなのです。 
 第二に、宣教の範囲です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わた
しの証人となる。」(ver8)。この、「使徒言行録」は、文字通り、エルサレムにおける宣教の拡大を(2章~7章)。ユダヤとサマリアの全土(8-9章)。そして、地の果てに至るまでの宣教の広がりを語っているのです(10-28章)。
 
「エルサレムを離れず」(ver4)と命じられた弟子達は、「エルサレム」から離れませんでした。エルサレムは、ある意味弟子達のお膝元ですから、余り以後事の良い地ではなかったと思います。

 躓きや失敗も沢山した地であったと思います。そうした彼らの失態を知っている人も沢山いたと思います。しかし、主はそういう場でこそ、敢えて弟子達に宣教をするようにとお命じになられるのです。

 肯定的には、エルサレムは、彼らの居住地ですから、多くの知人や家族も彼らの近くにいたと思います。しかし、そうした身近な人々から、伝道は始められていくのです。

 そして、第三に宣教の原動力です。証人としての務めを果たさせて下さるのは、聖霊のお働きです。証人とは、ギリシャ語で、「殉教」という意味がありますが、確かに証人となることは、又「殉教」が求められることでもあります。だからこそ、証人となるために「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:48-49)。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)。
 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル書3:1)。聖霊のお働きは、旧約聖書の時代にあるように、ある特別な預言者にのみ与えられるようなものではなくて、全ての人に注がれ、留まり続け、又私達の上に働き続けて下さる神の御力なのです。
 しかし、聖霊が与えられるためにはどうしても必要な事がありました。それはイエスが挙げられるという事です。イエスが天に帰られるということなのです。

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(ver9)。イエスの昇天こそが、聖霊降臨のお約束を実現させる、最後のピースだったのです。
そして、私達は、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Iコリント12:3)。言われておりますように、聖霊に導かれて、聖霊に満たされて、主の証人となって、イエスが再びこの地においでになることを待ち続けるのです(ver11)。

宣教の動力は、私達の力ではなくて、与えられるまで、待てと言われた、御聖霊ご自身なのです。
III.心を合わせて熱心に祈っていた
「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(ver9)。イエスの昇天、これこそが、聖霊の降臨の全ての根拠です。イエスの昇天なくして、御聖霊が来られる事はなかったのです。

しかし、天国は別に空の上にある訳ではありません。ですから、イエスは厳密にいえば、天に引き上げられる必要はなかったのです。よく言われるように、すっと、弟子達の前から姿を消しても問題はなかったのです。しかし、そうするならば、弟子達はイエスの復活を何だ、幻だったのかと疑ったことでしょう。

ですから、イエスは天国を指し示す実物教育として、弟子達の前で天に引き上げられたのです。そして、約束の御聖霊が降臨されてくるのです。
その時、彼等は一つの事に集中して御聖霊が来られるのを待ち望んでいました。それは、祈りです。弟子達は、まずイエスの命令に従って、信仰を持って、エルサレムに戻ってくるのです(ver12)。

そして、「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。~心を合わせて熱心に祈っていた」(ver13~14)。と聖書は言っています。

熱心に祈っていた、これは祈りに忙しくしていたと言うギリシャ語です。何に忙しくすると言っても、祈りに忙しくする。これは、本当に素晴らしいことです。

小堀先生本当にお忙しいですねと言われます。毎日の主の為の働きが、忙しい。確かに、素晴しいことです。しかし、何よりも素晴らしいことは、祈りに忙しいことです。この祈りのグループの中には、「婦人たち」もおりました。「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」(ver14)、イエスの肉親達もいました。

最初はイエスを信じる事が出来なかった、「ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモン等の」肉親達であった、イエスを連れ戻しに来た、彼等も十字架と復活を信じて、この祈りに加わったのです。

そして、勿論そこには、11人の弟子達もいました。そこには一月半ほど前3回もイエスを否定するという大失敗をしたペトロもいました。イエスの復活を疑ったトマスもいました。他の弟子達も少し前までお互いの足を引っ張り合っていたような人々でした。そうした、気まずい過去を引きずりながらも、こうした種々雑多の人々が、心を合わせて熱心に祈っていたのでした。彼等は祈りの中で、イエスの行いと教えを改めて思い起こしたのではないでしょうか。
十字架と復活、そして、昇天は自分達にとって、何を意味していたのか、その本当に大切な  
問いを彼らは改めて、問い直し、そして御言葉を読んでいたのではないでしょうか。またお互いの罪を告白し合っていたのではないでしょうか(ヤコブ5:16)。

こうして彼らは、祈りによって真の一致を見出したのです。真の一致は、正しい福音理解。正しい聖書理解。そして、それに基づく真実な悔い改めに基づいた、心を合わせた祈り。それによって始めて一致はもたらされて来るのです。

そしてその様な群れに聖霊が注がれて行ったのでした。そして彼等は主の証人となっていたのです。私達が主の証人となるために大切な事は何でしょうか。それは祈ることです。祈って祈りすぎることはないのです。

祈りこそが神の御手を動かす唯一の方法です。祈りによって、主の御力を頂いて、主の証人となっていこうではありませんか。

バプテスト派のクリスチャンである理学博士のジェームス・アーウィン大佐は、空軍テストパイロットを経て宇宙飛行士になりました。
 1971年米国の宇宙船アポロ15号で、スコット船長と共に月面に降り立った彼は、祈りました。そして、月面で66時間54分の滞在をはたしました。
あのソ連のガガリーンは、同じようにロケットに乗って、ジェームス・アーウィン大佐の10年ほど前に、宇宙に行きました。しかし、ガガリーンは言いました。「周りを見回したが、神は何処にもいなかった。」
しかし、ジェームス・アーウィン大佐は、月での印象を次のように、語りました。「月に降り立ったとき、私は神の存在を感じました。神は目に見えませんでしたが、確かにそこにいました」「アポロ15号で月へいってきたおかげで、今までよりいっそう明確に、神のご臨在を感じました」
アーウィンはその翌年、神学校に行き後に伝道者となったのでした。

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