2025年12月28日「聖書がそう言っているから」

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聖書がそう言っているから

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
使徒言行録 1章15節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。 16「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 17ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 18ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 19このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 20詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ、
そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
21-22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 23そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、 24次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。 25ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 26二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章15節~26節

原稿のアイコンメッセージ

「聖書がそう言っているから」

旧約聖書:箴言16:33
新約聖書:使徒言行録1:15-26       
             
I.聖書がそう言っているから

 さて今日は、今年2026年最後のメッセージです。今年私達は、主の御前にどのように生きてきたでしょうか。
牧師の部屋にも書きましたが、大切なことはやはり、神から、上からの知恵を頂いて生きていくことです。
そして、この聖書は、神からの知恵の宝庫です。私たちは、いつも、この聖書に帰りながら、新しい年も歩んで参りたいと思います。
さて、使徒言行録は、初代教会の宣教の記録ですが、世界宣教への開始の準備として第一に、「父の約束聖霊の降臨の約束」の確認をしてきました。そして、第二に、「心を合わせて祈ってきました」。この二つをもって、世界宣教への準備をしてきました。
 そして、今日の御言葉は、第三の準備です。それは、「イスカリオテのユダ」の裏切りによって欠けてしまった、12使徒の補充です。こうして、教会は、宣教をスムーズに進める事が出来るように、体制を固めて参りました。
イスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブから始まります。そしてヤコブの12人の子供達が、夫々12部族と呼ばれ、イスラエルの民の基となりました。イエスは、それに準えて、新しい霊的なイスラエルの基となるべき、12使徒を選ばれて、ご自身の宣教を助けるようにと、訓練して行ったのです。
さて、ここで、使徒として選ばれたのは、「マティア」でした。彼が12使徒に加えられましたことには、疑義を唱える、聖書学者もいます。それは、何故なのかと言えば、何よりもまず、この人は、使徒達の中で、イエスから直接声をかけられたのではない、「くじを引く」(ver26)という実に異教的なやり方で選ばれているからなのです。
 第二に、この人の名前は、この後、全然出て来ません。使徒として、活躍した形跡がないのです。
そして、第三に、天国の土台の記事には、十ニ使徒として、彼の名前が出て来ないからなのです(黙示録2:14)。
 しかし、「マティア」がそうであるように、後に活躍した形跡がない事には、疑り深いトマスもそうですし、それはマタイにも言えることです。
 しかし、「マティア」は、それでも主の導きの中で、十一人の使徒の仲間に加えられることとなったのです(1:26)。
 そして、裏切り者のユダに代わって、新しい使徒が加えられなければならないということは、聖霊がダビデの口を通して、預言している聖書の言葉だというのです(ver16-)。これこそが、確かなる証拠です。
 しかし、それでも、一つの疑問が残ります。それは、イエスはどうして、後に、ご自分を裏切るユダを弟子として加えられたのかということです。それは、誰にも分からないことなのです。 人の知性、理性には限界があります。ユダがどうであれ、イエスは、明確な目的をもって、12弟子を選ばれたのです。もっといえば、イエスは彼が、ユダが御自分を裏切ることを御存じの上で、ユダを選ばれたのです。神のなさることは、何時も最善です。私たちはいつも神の最善の前に、膝を屈めなければならないのです。
 更にペトロは、ダメを押すように、聖書の御言葉を引用します。 「詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(ver20)。ペトロは、旧約聖書詩編の御言葉を引用したのです。
 そして、これこそが、ユダに代わって、使徒が任命されなければならない、最も大きな理由です。何故、ユダに代わって新しい使徒が任命されなければならないのか、それは、聖書がそう言っているからなのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
 突き詰めると、何故裏切ったユダに代わって、次の使徒を任命するべきであったのか。それは聖書がそう言っているから、これが全てです。
この原則は、聖書の時代から、今日に至るまで、変わりません。クリスチャンにとって、全ての事柄の決定の原理は、聖書です。これはいつの時代の信仰者にとって、変わることがない、真理です。聖書がそう言っているから。これこそが、全てのクリスチャンの行動原理なのです。
II.使徒の職務
 「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(ver21-22)。

 例えば、カトリック教会やギリシャ正教会では、使徒団が今でも継承されていると考えて、それが教皇になったり、主教になったりしています。 そして教会の政治的な権能も彼らにあり、それは正当的に受け継がれて行くのだと考える人々もいます。

 プロテスタントの中にも、フラー神学校の世界宣教学部の教授であった、ピーターワグナー氏が提唱していますが、極端なカリスマ派などには、この使徒と呼ばれる人が今も存在すると考えるのです。所謂新使徒運動です。それだけに、この使徒職の資格や条件あり方は、慎重に吟味されなければなりません。
 
使徒とは本来、「遣わされた者」という意味です。誰から遣わされるのでしょうか。それは神です。ですから彼らは、基本的に、神からの権能
を委ねられていると考えられていました。それは、イエスが成し遂げて下さった、御業を正しく理解して、そのメッセージを世界大に伝えて、イエスの御業を継承するという、重大な務めを帯びている人々なのです。

「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(ver21-22)。
 
ユダは、残念ながら、イエスを裏切って脱落していきました。ですからどうしてもその内の一人を、補充する必要があったのです。そして、その使徒の条件は二つです。

一つは、「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人」(ver22)。ということです。何時も他の弟子達と一緒に行動していた人ということです。
 
そして、もう一つが、復活の主の証人となることです。使徒となるとは言わないで、復活の主の証人となると言っています。これは大切な御言葉です。

 それは地位に就くことが重要なのではないということです。その勤めを果たすことが重要だということなのです。大切なことは、地位につくことではなくて、その責任を果たすことです。
 
牧師に置き換えれば、牧師になるということが重要なのではなくて、牧師としての務めを果たすことが重要なのです。
 
そして、この勤めの条件に適っている人が、バルサバと呼ばれ、ユストともいう「ヨセフ」と、「マティア」でした(ver23)。そして、使徒は、12に人制限されています(ver25-26)。それはイエスが、イスラエル民族の基を為した、イスラエル12部族に準え、新しい霊のイスラエルを志したからでした。

ですから、一旦この使徒が12人と定められてしまえば、例えば、使徒ヤコブが殺されても、教会はもう使徒補充選挙をしませんでした(12:2)。
 
またこの使徒という条件に適う人は、ペトロの周囲に、実に120もの人々がいても、「ヨセフ」と「マティア」の二人しかいなかったのです。
 
ですから、今のカトリック教会やギリシャ正教のように使徒と呼ばれる人が沢山いるはずがないのです。

又極端なカリスマ派が言うように、現代社会にもし、使徒がいたら聖書の権威が失墜してしまうのです。

 使徒は、一世紀後半のキリスト教会初期の、
初代教会時代の土台を据えた特定の人々であって、今は一人もいません。今ではキリスト教会は、使徒達の肉声の代わりに、新旧約聖書を土台として、文章化された聖書の御言葉を土台として、立っているのです。
 
宗教改革者達が、教皇の権威に対抗して、聖書のみという原則に立ったのは、このような意味があるのであって、もし現代にも、このような使徒がいたら、それこそが聖書の権威が失われて行ってしまうのです。ですから、大切なことは、どこまでも聖書を土台として歩んで行くことです。
 
この聖書の御言葉こそが、初代教会時代の使徒達に代わって、主の御心を証していることを覚えたいと思います。

III.主の御心を求める祈り
 さて何とここで、12人目の使徒選びは、くじに委ねられることになるのです(ver21-26)。
 
ここで、お選びになったと言われておりますが(ver24)、これは、お選びになった使徒達(ver2)。と同じ御言葉です。11人の使徒達を選んだ、ユダを入れて、12人の使徒達を選んだ
イエスが、ここでも、主権をもって、ユダの代わりの使徒を選ぼうとされているのです。

 そこで問題となるのは、どうやって主の御心を知るのかということです。例えばイエスが地上におられる間は、間違いなく、イエスご自身の口から神の御心を知る事が出来ました。
 
しかし、この時期は、未だ助け主なる、弁護者なる聖霊も降られておらず、イエスの昇天と聖霊の降臨の丁度谷間の時期なのです。主の御心を知るには、唯一つ、旧約聖書の時代から、主の御心を知る為に行われてきた、くじを引くことしかなかったのです。

 しかし、キリスト教会において、くじが行われたのは、この時だけだったということです。しかし、これは、このクジ引きという使徒選出方法が、危ういものであったということではありません。

復活の主の導きの中にあったことですし、主に祈って為されたことであったのです。この時神は、くじを引くという手段を通して、ご自身の御心を示されたのです。

ですから、この時以外で、教会の中でクジ引きが行われて、主の御心を求めたとしても、それは、主のみ旨に適ったことではないということなのです。

この方法を受け継いで、例えば、モラヴィア兄弟団の人々は、入会希望者の決断を下した
り、役員を選出する、宣教師を派遣する、果ては、結婚相手を決めるときに、くじを引いたそうです。これは明らかな間違いです。

ここで、大切なことは、どこまでも、主の御心を求める心です。御心を知りたいという心です。

そして、その立てられた人を良く吟味するということです。実際に、ペトロ達の周りには、120人以上の弟子達がいました。

その中には恐らくはもっと優れた人。この人なら使徒にピッタリではないかと思う人もいたと思います。人間的に考えれば、優れた人は沢山いたと思います。

実際、ユストは、「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」(ver21)。と言われていますから、バルサバとは、安息日の子という意味なのです。彼は非常に熱心に欠かすことなく、礼拝を守っていたと思います。

また誓いの子とも言えますから、一度神の御前に誓ったことは決して、変えることがない、信仰深い人であったと思います。

更にユストとは、正直者という意味ですから、非の打ち所はなかったと思います。人物考査をするならば、間違いなく、トップ、第一候補に来る人でした。

ですから、主の御心を求めたいという心、そして、人物考査、良くその人を見るということ。そして、それに勝って、何よりも大切なことは、祈ることです。祈らずして、祈らないで、主の御心に行き着くことはありえないのです。
 「次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」(ver24-25)。大変厳しい言葉ですが、祈らない信徒は半人前、祈らない牧師は、失格者と言われますが、祈ることを忘れた、教会は決して栄えることはありません。

  こうして最後に、祈ってくじをひいたときに、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」(ver26)。

ですから、私達も又、何をするにも、特に本気で教会を建てようとするならば、全ての事を知っておられる主の御前に祈ることです。導きを求めることです。それこそが、信仰生活において、本当に大切なことなのです。

 私は若い時に、神学校で、神学と信仰を祈りにおいて、統一すると学びました。私達が本当に、神の御前に生きたい、神の御心を知りたいと願うならば、結局は、祈るしか道はいのです。

 全ての事を知っておられる主の御前に祈ることをもって、歩んで行く。祈りながらの御心を求めていく、そのような歩みをしていく者でありたいと思います。
 私達は、何故祈るのでしょうか。それは聖書がそう言っているからなのです。

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