「あなたと共にクリスマス」
旧約聖書:エレミヤ書31:16-17
新約聖書:ルカによる福音2:1-21
I.わたしが共にいるから大丈夫
このルカによる福音書は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」(ver1-3)。
当時のユダヤは、ローマの統治下でした。ローマ皇帝は、支配下にある国々から、税金を取り立てる為に、人口調査をしたのです。
「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」(ver3)。人々は皆、自分の生まれ故郷に戻って、登録をしなければなりませんでした。
ヨセフも身重のマリアと共に生まれ故郷のベツレヘムに戻りました。身重のマリアを抱えて、ロバに乗って120km程の道のりを行かなければなりません。かなりの高低差もあります。
所が、ベツレヘムに行くと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ver7)。
もしかすると、お金をもっと出せば、泊めてくれる宿があったかもしれません。しかし、住民登録でごった返すベツレヘムに知り合いもいません。
皆自分の事だけで精一杯です。彼らが安心
して過すことができる場所は、ベツレヘムにはありません。そして、やっと落ち着いた場所が、家畜小屋でした。こうして、イエスは、飼い葉桶にお生まれになりました。これが世界で最初のクリスマスでした。
もう一人、このルカの福音書には、居場所のない人が出てきます。それは、羊飼い達でした。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ver8)。
彼らは自分の羊を飼っていたのではないのです。金持ちから、羊を預かって、飼うのが仕事でした。
夜通し焚火で暖を取りながら、オオカミや、野犬から羊を守る仕事です。焚火の煙、羊の匂い、このようなもののしみ込んだ。ボロボロの衣服を彼らは着ていました。
しかも、皆が人口調査に行っているときに、そこにも入れてもらえないのですから、社会の歯車としても回らない人々でした。
世界で最初のクリスマス。そこには、居場所がない二組の人々がいたのです。
ある人の言葉です。独りでいることはあまり寂しいことではない。しかし、周りに沢山の人がいて、皆が楽しそうにしているときに、自分には居場所がない。自分は本当に、ここでは独りなんだ。その思いは耐え難いと。
クリスマス、そこには、光があります。しかし、その一方で、影もあります。光り輝く年末のイルミネーションの傍に、人間の影があるのです。
イエスご自身、居場所のない人々の所に生まれて下さいました。ですから、イエスご自身誰よりも、居場所のない人々の心を分って下さるお方です。
インマヌエル-神が共におられる。神は居場所のない人々の傍に共にいて下さるお方です。私が共にいるから大丈夫と言って下さる。それがクリスマスなのです。
II.飼い葉桶の奇跡
さて、羊飼いたちは、野宿しながら、夜通し群れの番をしていました。ですから、彼らは、神
殿礼拝すら行くことができません。これは、当時のユダヤの社会では致命的なことです。彼らは、人々から相手にされていなかったのです。
しかし、御使いは、そんな彼らに現れて、喜びの知らせを告げます(ver8-10)。
更に聖書は語ります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ver11-12)。
ここで、彼らの心の中に残った言葉、それは、「飼い葉桶」(ver12)。という言葉でした。
もし天使が、今日救い主が、あの宮殿にお生まれなりました。あの五つ星ホテルにお生まれました。と言われたら、彼らは、出かけることができなかったでしょう。
何故ならば、そこは、彼らが入っていくには、余りにも不釣り合いな場所であり、ボロボロの服を着ている彼らは、一目見て、人々から追い出されてしまったでしょう。
しかし、イエスがお生まれになられたのは、家畜小屋の飼い葉桶です。そこならいつもと同じ自分達の生活の匂いのする場所です。
しかも、洋服を着替える必要すらありません。ありのままの彼らでそこは入っていくことができる場所でした。
「これがあなたがたへのしるしである。」(ver12)。しるしというギリシャ語は、目印とも、合図とも訳せますが、「奇跡」とも訳することができる言葉です。
正に、「救い主が飼い葉桶」にお生まれになったという言葉が、彼らの心に奇跡を起こしたのです。
今迄礼拝何て興味がなかった彼らに、神なんて全く興味がなかった彼らの心に、大いなる奇跡を起こりました。「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見よ
うではないか」と話し合った」(ver15)。こうして彼らは、救い主を探しに出かけて行ったのです。
「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(ver16-17)。
「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(ver16)。と聖書は語ります。
実は、飼い葉桶は当時、珍しいものではなく、どんな家にもありました。
ですから彼らは、あっちの家から、こっちの家と時間と労力をかけて、探し回ったのです。もしかすると、余計な家に入ってしまって、追い出されて、這う這うの体で出て来ることもあったかもしれません。
天使が連れてきてくれたら、話は早いのに、神は敢えて、羊飼いたちを救い主を探しに出かけさせたのです。
神を求めるとき、人は必ず迷います。人は必ず悩みます。これで本当に良いのか、このお方を本当に信じてよいのかと人々は悩むのです。
右肩上がりに一直線に、神を信じる事が出来る人は少ないでしょう。しかし、神はこの探す時間を敢えて大切にされるお方なのです。そして、彼らは、とうとう探し当てたのです。こうして彼らは救い主に出会ったのです。
そして、彼らが出会った救い主。それは、赤ちゃんでした。神が人となられた。それだけでも驚きなのに、何と神が、赤ちゃんとして、この地にお生まれになられたのです。
時間を創造された神があえて時間の中に入ってこられて、赤ちゃんとなって下さった。人間の知性理性ではかり知る事が出来ない事柄です。
赤ちゃんは無力です。赤ちゃんは自分では何もできません。赤ちゃんは小さな存在です。もし、救い主が立派な大人として、この地上に来られたとしたら、羊飼いたちは、救い主に会うことを怯んでしまったと思います。
しかし、赤ちゃんならば、いつでも、何処でも近づくことができます。でもこれが救い主の特色なのです。救い主は、何か立派な人しか近づくことができないようなお方ではありません。
地位のある人しか近づくことができないお方でもないのです。子供でも、大人でも、若い人でも、お年寄りでも、地位のある人も、ない人も、どんな人でも近づくことができる。それを表すために、イエスは敢えて、赤ちゃんとしてお生まれになられたのです。
クリスマス。それは、どんな人でも、救い主にお会いすることができる日なのです。地位があろうがなかろうが、なかろうか。お金持ちであろうが、たとえそうでなかったとしても、どんな国の人でも、例え肌の色が、それぞれに違っていたとしても、どんな人でも出会うことができる。
それが、神が赤ちゃんとなられた、救い主、イエスなのです。
あなたが救い主を探し求めるときに、そこには、赤ちゃんとなったイエスが、本当に無防備にあなたの腕に抱かれて下さる、救い主がそこにいて下さるのです。
ですから、あなたが、救い主を探し求めるならば、あなたは、背伸びする必要はありません。本来の自分とは違う自分を演じる必要もありません。救い主、イエス・イエスは今日も、飼い葉桶であなたを待っていて下さるお方です。
III.あなたを見ていて下さる神
羊飼いたちは、とうとう飼い葉桶に眠っておられる、イエスを探し当てました。そこは、とても人が住める場所ではありません。そこは家畜を飼う、家畜小屋でした。
イエスが眠っておられる飼い葉桶は、羊飼いたちが、着ていた粗末な衣服とそこに染み付いた匂いと同じ匂いがしたことでしょう。
ここから、私達は二つの事を知ることができるのです。それは、飼い葉桶にお生まれになられ
たイエスこそ、この世界のどんなに小さな人でも、近づくことができる。どんなに貧しい人でも、近づくことができる、どんなに低い境遇に置かれた人でも近づくことできる救い主なのです。
そして、もう一つ。イエスがお生まれになられた、飼い葉桶は、私達の心の中を表しているのです。
私達は、もし私達の心の中が、人々の前で、モニターとして映し出されたら、私達は、人の前に立つことができるでしょうか。私達は、誰にも見せることができない、「心の飼い葉桶」を私達は、持っているのです。
決して人に見せることができない。決して人に語ることができない、そんな心の飼い葉桶を、私達は持っているのではないでしょうか。
しかし、イエスは、そんなあなたの、心の飼い葉桶に降りて来て下さったのです。
本来であれば、100%純粋に霊的な存在で、罪と有限から全く自由であられた、イエスが赤ちゃんとなって、飼い葉桶に生まれて下さった、これは勿論イエスは、罪を1mmも犯すことはありませんでしたが、あなたの心の中の罪を、あなたの弱さを自分の事柄として、受け止める為に、イエスは、この地上に来て下さった。飼い葉桶に生まれて下さったのです。
クリスマスそれはネオンの煌めきの中で、イエスに出会う日ではないのです。
あなたの心の飼い葉桶に来て下さった、イエスに、あなたの罪の真っただ中で、あなたの弱さの真っただ中で出会って下さる日なのです。
そして、それこそが、クリスマスなのです。
そして、丁度、雨戸を締め切った部屋で、少しでも雨戸を空けると、そこから一筋の光が差し込んでくるように、あなたの心の飼い葉桶に、光が差し込んでくるのです。
あなたの罪を赦すという光が、あなたの弱さを担うという光が、あなたの心の飼い葉桶に、差し込んでくるのです。
自分でも意識的に、心を閉ざしていた、あなたが意識的に見ないようにしていた、心の飼い葉桶に光が差し込んでくるのです。
やがて、イエスは、あなたの為に十字架にかかります。しかも本来であれば、着るはずもないような、ボロボロの衣服を身にまとわされて、まるで羊飼いのような衣服を身にまとわされて、十字架で死なれるのです。そして、その十字架の事実によって、あなたの心の飼い葉桶は、きれいになった。あなたの罪は許されたのです。
そして、三日目に甦られることによって、死に打ち勝たれ、信じる私達に永遠の命への道を開いて下さり、今も、インマヌエル、私達と共にいて下さるのです。
私達の人生には確かに、一人ぼっちだ、私はどうしてこんな境遇に生まれたんだろう。私その心の中には、拭いようがない、弱さがある、痛みがある。悲しみがある。そして、決して人に見せることができない罪がある。
確かに私達の人生には、そのような影があるのです。しかし、クリスマス。それは、その影を光で覆う日なのです。あなたの心の飼い葉桶に、神が光を与えて下さる。それがクリスマスなのです。
「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」(エレミヤ31:17)。
これは、バビロン捕囚で、イスラエルが荒廃した真っただ中で、預言者エレミヤが語った言葉です。
目の前に見えるのは、荒れ果てた、エルサレムだけれども、必ず主は回復をさせて下さる。
あなたの未来には希望がある。息子たちか帰ってくると、荒廃した街の中で、エレミヤが語ったのです。
人生には、色々なことがあります。しかし、ど
んなことがあっても、神は決してあなたを見捨てず、あなたを見放したりはなさいません。
あなたを見ていて下さるのです。あなたと共にいて下さるお方です。このクリスマスにあなたも、飼い葉桶にお生まれになられたイエスの愛を、イエスの温もりを受け取って頂きたいと思います。
私はクリスマスになると思い出す一つのお話があります。それは、「星を動かす少女」というお話です。
ある教会のクリスマスのページェントで、上級生達は、マリヤとヨセフや3人の博士や羊飼い達と言った、夫々人目に付く役を割り当てられました。
しかし、一人の少女は、誰も見ていない舞台の背後に隠れて、星を動かす役が当たりました。「お母さん私今夜、星を動かすの。見ていて頂だいね。」少女は、嬉しそうに話しました。
その夜会堂に満ちた会衆は、ベツレヘムのその星を動かしたのが誰か知りませんでした。しかし、彼女のお母さんだけは知っていました。そこに、この少女の喜びがありました。神は私達一人一人の人生に目を留めて下さるのです。このクリスマスにあなたも、飼い葉桶にお生まれになられたイエスの愛を、イエスの温もりを受け取って頂きたいと思います。