2025年12月14日「私たちが見て、触れた神イエス」

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私たちが見て、触れた神イエス

日付
説教
小堀 尚美 信徒説教者
聖書
ヨハネの手紙一 1章1節~4節

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命の言

1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 2この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― 3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。 4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの手紙一 1章1節~4節

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 「私たちが見て、触れた神イエス」

新約聖書 ヨハネの手紙一1:1-4
    2025年12月14日


< 新約聖書 ヨハネの手紙一 1:1-4 >
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

おはようございます。待降節、アドベント第三主日を迎えました。教会もクリスマスの準備の為に、喜ばしくも、忙しい季節を迎えています。

今日は立ち止まって、クリスマスとは、私達にとって、何なのだろうか。ということを、もう一度、聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。

1. 現れた永遠の命イエス
今日の聖書箇所・ヨハネの手紙一の特徴の一
つは、冒頭で、著者が挨拶も自己紹介もしていない事です。
例えば、「ヤコブの手紙」の冒頭は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。」(ヤコブ1:1)で始まります。
これは、ヤコブの手紙に限らず、他のどの手紙の書き出しにも見られるものです。

ところが、ヨハネの手紙一は、次のように始まっています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく 見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1:1)

自己紹介も挨拶も無し、ある意味で、型破りなのです。筆が走っていると言うのでしょうか、心が急いていると言うのでしょうか。
「これを伝えますよ!これが大事だから、必ず受け取って下さい!」と言わんばかりに、手紙の中心点が、冒頭で、直球で、私達に投げかけられているのです。

私共家族は、この秋の休暇で沖縄を訪れ、中部の宜野湾市にある「佐喜眞美術館」に行きました。青い空、美しい海とは裏腹に、沖縄が戦争の傷跡を持っていることは、皆さんもご存知の通りです。その美術館は、佐喜眞さんという方が、御自分の先祖の土地に、約50年前、戦後の混迷の時代に、「今、沖縄にどうしても必要なもの」、「静かに、もの想う場」として、建てたものでした。  

戦後、辛すぎて、長らく沈黙を続けていた、地元のおじい、おばあが、自分の言葉、島の言葉で沖縄戦の記憶を語り、それを画家が絵画にして表した、そういう作品が展示されていたのです。 
広い壁一面の大きな絵、その中に、特に心に残る物が二枚ありました。どちらも「ガマ」と呼ばれる洞窟の絵で、戦時中、防空壕のような避難場所として使われていたのですが、この二枚のガマの絵は、まるで様子が違ったのです。

一枚は、ガマの中で、殺し合いが行われている絵、もう一枚は、静けさの広がる空っぽのガマの絵でした。同じ集落にある、たった1キロしか離れていないこの二つのガマに分かれて避難した人達の、生と死が、分けられたのです。

絵の側に添えられていた説明に、目を奪われました。アメリカ軍に残虐な殺され方をするから、その前に自害しなさいと、日本兵から教え込まれていたため、米軍の上陸により、どちらのガマにも、パニックが起きました。ここまでは同じです。  

ところが、一方のガマの避難民の中に、実際に、アメリカ合衆国のハワイ州に移住して生活をしたことのある体験者が2名いたのです。彼らは、「降参したら、殺されることは決してないから、自害してはいけない」と、慄く同胞を、根気強く説得して、降参に導き、ガマに居た約1000人もの命が助かったのです。

美術館のテーマである「生と死」、「苦悩と救済」が、この二枚の対照的な絵から、溢れていました。

帰りの飛行機の中で、この事を思い巡らしながら、私の心に思い出されたのが、今日の御言葉です。
ヨハネは、開口一番、こう切り出します。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、良く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(1:1)

「私達は『体験者』」です。」…とヨハネは言っているのです。私達が、実際にこの目で見て、この耳で聞いて、この手で触れた、イエス・キリストを、あなたがたの「生と死」を分ける、永遠の命であるイエスの言葉を、私達は今、体験者として、あなたがたに伝えます。…と。

ヨハネにとって、挨拶や自己紹介は、ある意味で、どうでも良かったのかもしれません。大切なのは、私達がイエスに出会ったこと、私達が、イエスの為さる業を見て、イエスの口から神の国を聞き、イエスの生き方に触れ…、そして、イエスが十字架で、私達の為に血を流して死なれたのを見た。遺体を布に巻かれて墓に葬られたのに、三日目によみがえられた、その姿に私達は驚き、戸惑いながら、じっと見た。復活されたイエスに触れ、その声を聞き、「ああ、本当に、正真正銘イエスだ!」と、確かめたから、復活のイエスと40日も共に歩んだから、だから、この神の御子イエスを、永遠の命であるイエスの言葉を、あなたがたに伝えるのです!と。

沖縄のガマで、2人の体験者が、必死になって自分達の体験を語り、1000人もの人々を死から命へと導き出した、あの絵を思い出しながら、 ヨハネの気持ちが分ったような気がしたのです。

ヨハネは、自分の見た事、聞いた事、触れた事、真の神イエスをあなたがたに伝えます、私達は体験者ですから、と、真直ぐに私達に語ってくれているのだなあ、と。
あなたはイエスを、イエスによる救いを受け取りなさい。…と、ヨハネを通して、熱心に私達に語りかけ、私達を永遠の命に招いておられる、神様の心が、私に届いたのです。

キリスト教の神髄は、人間の思想や哲学や、人間がこう在ってほしいと願い、思い描いた神ではなくて、神様の方から、実際に、私達にお与え下さったイエス・キリストに在るのです。
天地万物と、時間さえも創造された御方が、なんと、時間と空間の支配の下に遜り、この歴史の中に、「ナザレ地方の人イエス」として現れた。生身で生きる痛みや悲しみや、疲れや溜息を、我が事として理解して下さる人となって、お生まれ下さったのです。
初めからおられた永遠なる御方が、歴史の中に、人としてお生まれになった。この驚くべき事実こそが、キリスト教の神髄であり、神の御計画の中心、クリスマスなのです。

ヨハネや弟子達は、この事実の体験者であり、イエスも御自身ついて、弟子達にこう語っておられます。
「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちはあなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ13:16-17)

旧約の時代から、救い主を見たい、彼の語る神の国を聞きたいと、どれだけ多くの者が、待ち焦がれたことか。その約束の救い主が、今、あなたがたの目の前にいる私なのだよ。神の約束が、長い歴史を貫いて実現したのが、私、イエスなのだ、と言われたのです。

たった4節の中に、「命」が3回も出てきますが、それは、私達の空想や願望ではない、現れた永遠の命、イエスなのです。
それは又、2節を見ますと、「御父と共にあった」永遠の命です。つまり、父なる神様と共にあった命です。同じ立場で、上も下も無い、等しい交わりを持ち、かつ、人格の区別がある御方、初めから父なる神様と共におられる御方、それが、私達の主イエス・キリストなのです。

「御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(1:2)
イエスを見たからこそ、証しができるのです。そして、イエスに命じられたからこそ、ヨハネは私達に伝えているのです。

復活されたイエスは、天に帰られる前に、弟子達に言われました。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)
イエスの命令によって、ヨハネは私達に、主イエス・キリストを伝えているのです。

では、ヨハネは何の為に、イエスを伝えているのでしょうか。それは、3節にあるように、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。」(3)

イエスを伝える目的は、交わりを持つようになる為なのです。
「交わり」という言葉は、巷ではあまり聞かれません。けれども教会では、この「交わり」はとても大切で、私達が毎週告白している使徒信条にも、「聖徒の交わり」として出てきます。
「聖徒」とは、「学校の生徒さん」ではなくて、聖書の「聖」という字が使われています。これは、「神様によって取り分けられた人達」、という意味です。
ですから、自分の趣味で、好きな者同士が集まったサークルのようなものではなくて、神様によって呼び集められた者、出発点が神様にある交わりなのです。 だからこそ、教会には様々な人がいるのです。
周りを見回してみて下さい。私達は、年齢も性別も、出身も、生い立ちも異なりますのに、毎週こうして集まって、神様を礼拝しています。神様が私達一人一人を呼び集められたからです。

ヨハネも、この点を明らかにしています。3節に、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」とあります。
父なる神様と御子イエス・キリストとの交わり、この土台、あるいは、この中心線があってこその教会の交わりなのです。

永遠の初めからおられ、この歴史の中に現れたイエスを、見て、触れた私達が証しし、あなたがたに伝えるのは、御父と御子イエス・キリストとの交わりをあなたがたも持つようになる為、あなたがたも、私達と同じように、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに招かれているのですよ。とヨハネは言うのです。

そして、更に4節を見ますと、
「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」とあります。

イエスを伝える究極的な目的は、「喜び」に在ります。私達が、父なる神様と御子イエス・キリストとの交わりに入れられ、私達の喜びが満ち溢れるようになる為なのです。
父なる神と御子イエスの交わりには、一点の陰りもありません。疑いという影も、裏切りという傷もない。完全に満たされ、充足した交わり、完全な愛と喜びと自由に満ちた、永遠に変わることのない交わりです。この交わりに入れられた私達も又、喜びに満たされる、喜びが満ち溢れるのだ、とヨハネは言うのです。

今、私達が教会で持つ交わりは、神様を中心にしながらも、尚、不十分で、喜びが足りないと感じることもあるかも知れません。
ただ神様によって呼び集められた私達であるが故に、あまりにも生きて来た時代が違い、賜物も、好みも違い、理解し合うのに難しさを感じることもあるかもしれません。
けれども、ヨハネはここで、私達に用意されている永遠の御国での交わりまでも、視野に入れて語っているのです。今だけを見て、諦めてしまいそうになる近視眼的な私達に、「ほら、信仰の目を上げて、見てごらん」と、私達の目を、御国での完全な交わりにまで向けさせてくれるのです。

礼拝の最後の祝祷で、聖書の御言葉によって、私はいつもこう祈ります。
「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しい交わりが、私達一同と共に、今も 後も 世々限りなく、豊かにありますように。」 
「今も後も、世々限りなく」在る交わりなのです。

天地創造の初めからおられ、私達に現れた御子イエス・キリストを信じるなら、私達は、父なる神様と御子イエスの、完全な愛と喜びと自由に満ちた交わりに入れて頂ける。イエスを信じる者は、決して、その交わりから漏れることはない。今既に始まっている、主に在る私達の交わりは、この地上に生かされている間だけでなく、永遠であり、天の御国において完成し、私達の喜びは満ち溢れるようになるのだ、と。だから期待して、勇気を出して歩みなさいと。
クリスマス、私達の為に現われて下さった主イエス・キリストの永遠の命の交わりの内を、共に歩んでまいりたいと思います。

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