「あなたを照らす光キリスト」
旧約聖書:イザヤ書55:11
新約聖書:ヨハネによる福音書1:1-13
I.初めに言葉があった
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)。と、ございますように、この書を読む私達が、イエスこそキリスト、救い主である事を信じて、永遠の命を得るために、この書は書かれたのです。
今日は、この地に来られたイエスを信じることによって、齎される新しい人生について考えたいと思います。
さて、この福音書の著者はヨハネです。 「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である」(21:20)。
あの最後の晩餐の席上で、イエスの胸元に寄りかかっていたゼベダイの子ヨハネです。彼は正にイエスの胸元により掛った。そして、イエスのご愛を傍らで、心の底から味わい尽くしたのです。
ですから、彼はボアネルゲス雷の子と呼ばれていましたが、このイエスの愛に触れたときに、愛の使徒と変えられました。
この福音書は、大体AD100年頃書かれました。彼が、イエスの弟子として歩んだのは、20歳から30歳位ですから、彼は大体70、80年位前の事を、「ああそう言えば、イエスはあの時にこのように仰ったな、あんなことをなさったな、あんなことをそう言えば仰ったな」と、彼は丸で今もまた、イエスの懐に抱かれているかのように、感激、賛美、瞑想をもって振り返って書き綴っていたのが、この、福音書なのです。
同じように私達もまた、イエスの懐に、その御胸に寄り掛りながら、イエスのご愛を味わうときに、人生は変わります。
もうなくなられましたが、神学校の校長を二度やられた吉岡繁先生が、説教の御本の中で、「その人の説教は結局その人の実存に大きく関わっている。その人がどのように、イエスに出会ったのか、それに大きく影響されるのだ」というような事を言っておられますが、本当にその通りだと思います。
信仰の話をしていると、何か、靴の裏から足を掻いているような感じの人もいます。
実存的に本当にこの人イエスに出会っているのかなと、思ってしまう事があります。勿論私達は、選びの神学の中を生きていますから、私達が教会に来て、イエスを信じて、洗礼を受けていること自体が、私達が選ばれている徴です。
ですから、この議論と救いは無関係です。
それでも、実存的に本当にイエスに出会っているならば、やっぱり伝道するでしょう。
牧師になって数十年色々な人に出会ってきました。ある人は言われました。もう少し聖書を勉強して、もっと聖書を理解してから洗礼受けます。もっと、知的にイエスの事が分かってから、洗礼を受けます。色々と仰る方がおられました。
確かに勉強しなければ学ばなければ、筋の通った信仰生活はありません。実際私も、神学校で聖書と神学を必死になって学びました。
ですから、学びなくして、本当の意味で、キリスト教を理解することは出来ません。しかし、私達は、もし、イエスの懐に、その御胸に寄り掛りながら、イエスのご愛を味わう事が出来たら、難しい事は分らなくても、一も二もなく、私は、イエスに従っていきたいそのように思うようになるのです。
この福音書の著者ヨハネは、本当に、イエスの懐により掛った人、イエスに実存的に出会った人であるという事ができるのです
そして彼はイエスを、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ver1)。と言いました。これは、ドイツの文豪ゲーテの「ファウスト」にも出て参ります、有名な言葉です。ヨハネが、この福音書を書いた時代、当時はもう、
キリストの教会がスタートをして、40年、50年経ち、教会はギリシャ、ローマと言った異邦人世界、今でいうヨーロッパ世界にキリスト教は、広がっていました。
ですから、当時ヨハネの周りにいた人々は、ユダヤ人ではなくて、異邦人、ギリシャ人、ローマ人といった人々が殆どでした。そんな人々に、イキナリ、イエスは「油注がれた者」、「救い主」だといっても、話は通りません。そこで、ヨハネは、悩みに悩んで、考えに考えて、救い主イエスを、「ことば」、「ロゴス」といった、哲学的な表現で紹介したのです。
さて、「ことば」は聖書の中で非常に重要な地位を占めています。ヘブル的に言うならば、言葉は記号や情報伝達の手段だけではありません。言葉は、神が人間だけにお与えになった、賜物であり、人間を人間足らしめる要因でもあります。言葉、それは、神が人間だけに与えられたコミュニケーションの手段です。
しかし、その言葉で今日、どれだけの人が傷ついているでしょうか。今日ほどこの言葉が考えられずに用いられている時代はありません。
しかし、本来言葉は創造性に満ちています。「光あれと言われて、こうして光があった」(創世記1:3)と聖書は言っています。
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与
えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。と聖書は言っています。
神の御言葉は、決して空しく帰ってくることは無い。必ず良い影響を与えます。無から有を作り出します。
必ず人生を新しく作り変えることができるのです。受肉、人となられた「神の言葉」であるイエスは、私達に命を与えることのできるお方、正に神の言葉は、力なのです。聖書が教える神の言葉は、神のご意思、神のみ力、神の御業そのものなのです。
そして、「初めにことばがあった」と言われた、このことばこそが、救い主、イエスなのです。このお方こそ、永遠の初めから存在される、神の言葉、神の子、イエスご自身なのです。そして、このお方の内に命が溢れているのです。いやこのお方に出会うならば、あなたの人生も又新しくなるのです。
II.肉を取られた人の子
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ver1)。
この御言葉が語らいた時代は、万物流転が信じられていました。
世界は、混沌としていました。しかし、その混沌とした世界に、「ことば(ロゴス)」があったのです。「あった」というのは、時間の何処かで出てきたと言うのではなくて、造られたというのでもありません。永遠の初めから存在した、あったというギリシャ語です。僅か短いver1-2の間に、4回も続く動詞です。
この後に、洗礼者ヨハネの記事が出てきます。彼の事を聖書は、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(ver6)。と言っています。そして、この、「いた」という動詞は、歴史上のある一点にいた、という言葉なのです。
ヨハネは、歴史上のある一点にいたのだけれども、イエスは、永遠の初めから、「神と共にあった」、この混沌とした世界を支配する、全ての源なる真の神であったのです。そして、永遠の初めから神として存在しておられた、「ことば」、「ロ
ゴス」、キリストが、人となって下さったと、聖書は言っています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ver14)。
受肉、肉を取られた神、神が人となられた、これは、奇跡です。何と永遠に変わることのないお方が、成長し、病んで、老いて、死ななければならない、肉体をお取りになられたのです。全智全能、無限のお方が、私達と同じ、限られた肉体を負って下さったのです。
十返舎一九という人が、「東海道中膝栗毛」という本の中で、「揺り籠から墓場までのちんぷんかんぷん」、人生うまれては見たけれど、人生とは一体なんだろうなあと言いました。正に人生において、悩み、傷つき、悲しみ、苦しむ事は避けられません。
ところが世界の創造主なるイエスが、ことばであったイエスが、私たちと同じ肉体を取って、「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛み」(イザヤ53:4)。と言われておりますように、私たちが人生において、受ける悩み、苦しみ痛みを、ご自分の物として体験して下さり、人生の全ての労苦に意味を与えて下さったのです。そして、イエスに信頼する者を、全て合い働きて益として下さったのです(ローマ8:28)。
瞬きの詩人と言われた星野富広さんは、「苦しみにあったことは私にとって幸福でした」(詩編119:71)と告白して、「私は傷をもっている。しかし、その傷のところから、あなたの優しさが染みてくる」と言いました。
永遠の神が人となって下さった。これが、クリスマスメッセージです。そして、私達が人生において受ける、悩み、苦しみ、痛みを、自分の物として理解して下さるのです。私達は決して一人ではありません。
私達の人生結局何方とご一緒するかと言う事です。あなたは、一回限りの人生を、どなたとご一緒しているでしょうか。受肉された、私達の傷みを負って下さるイエスとご一緒しているでしょうか。
III.世を照らすまことの光
ところが、この世界の人々は、このイエスを受け入れないのです。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しを
するために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ver6-8)。
多くの人は、イエスをヨハネと同じ預言者だと思っていました。しかし、「イエス」と「ヨハネ」の決定的な違いは、ヨハネは光を証しする者でしかなかったのに、イエスは「光」その者のお方でした(ver9)。ところが、その光であるイエスを、人々は受け入れませんでした。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ver4-5)。と聖書は言っています。
闇は光を理解できないのです。闇は光を全く分からないのです。また、闇は光に勝たなかったとも訳せます。実際協会訳や新改訳はそのように訳しています。闇は光を理解しないのです(ver5)。闇は光を認めないのです(ver10)。
闇は光を受け入れないのです(ver11)。それでも、光は決して消えることはない、「光は暗闇の中で輝いている」(ver5)。のです。
イエスが宣教される前、洗礼者ヨハネが現われて、イエスへの道備えをしていた時に彼は、ヘロデによって斬首の刑によって殺されてしまいました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの
道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた」(マタイ4:15-17)。イエスの宣教の開始です。暗闇に光が差し込みました。しかし、
「世はその光を認めなかったのです」(ver9-11)。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ver11)。「自分の民」これは、マイホームという言葉です。イエスはこの世界をお創りになられた、主人です。しかし、この世界の人々は、ここでは特に、選びの民、「ユダヤの民」ですが、彼等はイエスを受け入れ様とはしなかったのです。そして彼らは、イエスは何と十字架の上で無残にも殺されてしまいました。
そのとき、日は暗くなり、3時間にも及ぶ闇が全地を覆いました。しかし、その暗闇の中から、イエスは確かに、死に打ち勝たれて、三日目に甦られて、今正に、光として輝いておられるのです。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ver5)。闇は決して光に打ち勝つ事はないのです。
これから、日本はそして世界は何処へ行こうとしているのでしょうか。
株価が5万円を超えたと言われても、凄まじい物価高、そして円安で、その恩恵を全く感じないのです。
いやそれどころか、国民の生活は、苦しくなるばかりです。国のリーダーは、明確な解決策を持っていません。
誰でもよかった。実に短絡的な理由で、人が殺されているのです。戦争も終わりません。もう
何年続いているのでしょうか。和解という言葉が本当に空しく響いています。
今の日本、そして世界、分断が進み、愛が冷え、正に闇が覆っています。私達の人生でも、いろんな困難があり、闇を通らされる事もあります。しかし、その暗闇の中に、光は輝いているのです。
イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。
イエスこそ、真の光です。このお方を見上げて、今週も歩んでいこうではありませんか。
ある二人の人が、砂漠を旅しておりました。二人は少し前を進んでいった、砂漠の隊商の足跡を少しづつ辿っていました。所がです。途中で大嵐が二人を襲いました。1m先も見えない、砂嵐です。暫く洞穴に非難しました。嵐が止み、外に出てみると、砂丘という砂丘は全部移動して、勿論辿っていた足跡も全部消えてしまいました。一人が言いました。「ああ、もう駄目だ。完全に道に迷ってしまった。もう絶望だ・・・」、暫くして夜になりました。夜空を見上げて、もう一人の人が言いました。「絶望する必要はない!!ほら、星が輝いているではないか!!」、二人の行く方向に星がキラキラと光り輝いていました。イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。イエスこそ、真の光です。このお方を見上げて、今週も歩んでいこうではありませんか。