2025年11月23日「あなたがたは宝の民」

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15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 13章15節

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「あなたがたは宝の民」

旧約聖書:申命記14:22-29
新約聖書:ヨハネによる福音書13:15        
             
I.あなたがたは宝の民
今日は一年に一度の予算総会ですので、献金についてのメッセージをしたいと思います。
 今日の御言葉の申命記は、エジプトで400年もの間奴隷状態であった、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒れ野を40年もの間旅をして、約束の地カナンに入ったその後に書かれている書物です。
 
イスラエルの民は、荒れ野で40年もの間旅をしておりましたから、親から子へと代替わりをして、神がイスラエルの民に与えられた律法を知らない世代が増えてきてしまったのです。そこで、改めて約束の地に入ったイスラエルの民に、モーセの後継者である、ヨシュアが神の律法の大切さを語ったところです。そして、この律法の大前提としてあるのが、神に愛されているという、イスラエルの民の大前提です。
 
「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」(ver1-2)。

死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げたりするのは、彼らが入植したカナンの地
の異邦人達が行っていた、異教の習慣でした。神はそれをイスラエルの民にしてはならないというのです。それは当然です。真の神に従う者が、どうして、異教の習慣をする事が出来るでしょうか。

また何故神がそれを異教的な習慣をお止めになられるのか。それは、彼らが、イスラエルの民が、主の子らであること。また、主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされたということなのです。
神は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26)。聖書が語るように、人間は神に似せて創造された存在です。神のかたちに創造された存在なのです。
 
その中でも神は、イスラエルの民を選んで、主の子らと呼ばれ、ご自身の宝の民と言われているのです。
 これは彼らが何か良い所があったからではないのです。一方的な神の恵みなのです。神の一方的な恵みによって、養子のようにその一切の恵みを受け継ぐものとされ、更には、宝の民と呼ばれているのです。
 
神の恵みによって、選ばれ主の子らと呼ばれ、宝の民と呼ばれた、イスラエルの民には、神に従う責任と特権があったのです。
 そして、この恵み、主の子らであること、宝の民。これは、私たち一人一人のクリスチャンを指している言葉です。
 特に子供です。子供は、親との関係で見るならば、どれだけの事が出来るか。何ができるか。どれだけ役に立つか。そんなことは、何の問題にもならない筈です。子供は、その存在自体が尊いのです。
 宝も同じです。宝とは、それがあるだけで、素晴らしいから宝なのです。それがあるだけで尊いのです。 そして神の目から見たら、私たち 
一人一人が、神の子であり、宝の民なのです。神の目から見れば、私たち一人一人が、存在しているだけで尊いのです。
 「わたしの目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している(イザヤ43:4新改訳)。

私は愛されている。私は神の目から見て、尊い存在なんだ。そのことが分かる。そこから私たちの新しい人生は開け、始まり、進んで行くのです。そして、この自覚こそが、私たちの献金の根底にある思いなのです。

私は愛されている。私は赦されている。私のような者の為にもイエスは十字架に架かって下さった。神は一人子であるイエスを十字架に送って下さった。 
この一方的な恵みを理解することこそが、献金の根底にある思いなのです。この恵みが分からなければ、献金は単なる、強制です。ノルマです。信仰宗教のお布施と何ら変わらなくなってしまうのです。
私たちは、神の子であり、宝の民である。この自覚こそが、私の達の献金への思いをもっと、もっと豊かにしてくれるものなのです。
II.十分の一をわたしのところに
「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない」(ver22-23)。
 
何故イスラエルの民は、十分の一を神にお返ししたのかと言えば、それは基本的に愛の業だったのです。
人々が十分の一ずつ持ち寄った物が蓄えられて、在留異国人や寡、更には、心身に何らかの病を負った方々を助けるために、皆で神の御前に収穫の十分の一を持ち寄ったのです。
ですから、これは神が人々にお与えになった、助け合う知恵だという事が出来ます。では、収穫の十分の一を神の返しするこの愛の業が、新訳の時代に生きる私たちにとって、どのような意味があるのか。そのことを考えていきたいと思います。

私たちは、十分の一と言うと、献げる方ばかり
に目が行くのです。しかし、大切なことは、神は、十分の九をわたし他達の手許に残して下さっているという事です。

そういう意味で、神は私たちに豊かなものを置いておいて下さるのです。私たちはともすれば、出て行った額ばかりを追跡してしまうのですが、先ずは手許にある豊かさに目を留めていきたいと思います。
 そして、十分の一を神様にお返しする聖書的な根拠をいくつかあげたいと思います。
 先ず何よりも私たちの持てるものは全て、神から与えられているということです。私たちが生きているという事も。いいえ、私たちが生かされているということ。
 
この健康も、仕事も、家族も、信仰も全てが神から与えられているという事実です。何より神はイエスを私たちに与えて、永遠の命の恵みを与えて下さったのです。
 ですから、全てのよきものは、神から出ているのだ。神が与えて下さったのだ。だから、私たちは、十分の一を神にお返しするのです。

第二に献金は、神に対する感謝の思いです。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(詩編116:12)。
「主が私に良くしてくださったすべてに対し私は【主】に何と応えたらよいのでしょう」(116:12 新改訳)。

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:2)。
「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩編103:2 新改訳)。
主は私たちの人生に素晴らしいことをして下さいました。イイエ今もして下さっています。だから、主にお返ししていくのです。
 
第三に、献金は、私たちの愛の現れです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)。
 
献金とは私たちの神に対する、愛の現れです。私達が神を愛している。それを目に見える形で表したのが、献金なのです。
 そして最後に、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)。
 私たちは、十分の一献金をすることによって、神が生きておられることを、証しする事が出来るのです。
 神は、「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)。と語っているのです。
 神は立ち尽くす神ではないのです。神は鎮座ましましておられる神ではないのです。ましてや私達の方から語りかけてはじめて、しょうがないからと、どっこいしょと腰を挙げられるようなお方ではないのです。

私たちの祈りをそして、願いを、いつも生きて働かれて、聴いておられる神なのです。神は御自身の方から駆け寄って来て下さって、私たちを救い出して下さる、生きて働かれている神です。

 私たちは、十分の一献金と聞くと、それはまるで律法のように思ってしまいます。それを義務
のように思ってしまうのです。しかし、イエスを信じて歩んで行く、クリスチャンライフにおいて、 何も強制されるものはないのです。献金もそうです。私たち持てるものは全て、神から与えられているということ。第二に献金は、神に対する感謝の思いで、お返しすること。第三に、献金は、私たちの愛の現れであるということ。

そして神が今も生きて働かれているということ。それを証しするために献金をするのです。
 
ですから、そこに強制されるものは何もないのです。聖書は語ります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(第二コリント9:7)。

パウロはこの少し前の、IIコリント9:6で「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで」(IIコリント9:6)。この「惜しんで」というのは、「少しだけ」というギリシャ語ですが、献金というのは、その献げる額が問題なのではなくて、「惜しんで」という心の在り様が問題なのです。献金の額が問題なのではなく、それを惜しむ。心が問題なのだと聖書は語るのです。
 
反対に、「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(IIコリント9:6)。これも又、献金の額が多いという事ではなくて、物惜しみしないという心の在り様を述べているのです。

 「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う」(箴言11:24-25)。

 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:38)。イエスも言われました。

 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもな
く、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(IIコリント9:7)。
 
「不承不承」=「しぶしぶ」という言葉で、新改訳は、2017で、「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(IIコリント9:7)。と訳しています。

 これはお金を出すことを悲しむ心です。大切なことは、仕方がないから、しょうがないからという思いではなくて、何処までも、自発的な信仰なのです。

 そして、それは、「こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(IIコリント9:7)。で言われている通りです。

収入や支出を考えて、主を愛する心から、こうしようと予め決めておくのです。

私達人一人が、喜んで献げる事が出来る額を、心に決めたとおりにするべきなのです。私は、献金の学びをする時に、何時も私達改革派教会の信じている原則を語ります。

それは力に応じて、力以上にという事です。ああこれ位、献げたら今月はちょっときついなあと言う額を献げるのです。昨年も申しましたが、ちょっと、イテっと思うような献金をするのです。それが力に応じて、力以上にという事なのです。

そして、それが、十分の一献金を喜んですることができるその額ならば喜んでそれをすればよいのです。

私も、先生、献金の基準となる額はあるので
すかと。学びでよく聞かれます。勿論それは、夫々の収入によって違うと思います。しかし、基準があるとすれば、それは、収入の十分の一です。と答えます。

それは、税抜きの十分の一ですか? それとも、税込みの十分の一ですかと聞かれたこともありましたが、何れにして、あなたが喜んで、十分の一を献金できるなら、それをすればよい訳ですし、勿論十分の一献金は新約の時代においては、律法ではありませんから、力に応じて、力以上に献金をすればよいのです。

私たちが今生きている、新約聖書の時代にもし、献金の基準があるとするならば、それは、心に決めたとおりにすること。そして、喜んでそれをするという事なのです。
 旧約の時代には、マラキ3:10で言われている通り共同体の助け合いの精神としての十分の一献金という基準がありました。
 しかし、新約の時代の献金、それは、献金の額ではなくて数量ではなくて、動機や目的、そして喜んでささげる。その霊的な動機が、何時も、そして、何処までも、神の御前に問われてくるのです。神は喜んで献げる人を愛して下さるのです。
しかし、最後に献金のもう一つの、非常にチャレンジングな面を申し上げて終わりたいと思います。

十分の一献金だけは、聖書の中で、唯一私を試してみよと言われている事です。神を試してはいけないというのは、聖書の一貫したメッセージです。しかし、献金についてだけは、私を試してみよと、聖書は語るのです。

献金は失うことではなく、寧ろ先程御言葉に聴いたように、種まきです。寧ろ神のチャレンジにお応えしていく行為ですから、神はきっと、喜んで献げる人を愛して、何倍にもして、祝福して下さるお方です。

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