ただ神の憐れみによって
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 3章13節~19節
十二人を選ぶ
13イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 15悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 16こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 17ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 18アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 19それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章13節~19節
「ただ神の憐れみによって」
旧約聖書:出エジプト記24:1-8
新約聖書:マルコによる福音書3:13-19
I.ただ神の憐れみによって
さて、今日の御言葉は、イエスが12弟子を御自分の下に招かれる箇所です。12弟子、ギリシャ語で、「アッポッスル」と言いますが、使徒という意味です。12使徒です。
では何故、まず12人なのでしょうか。それは旧約聖書に端を発します。イスラエルの12部族です。しかもその場所は、「イエスが山に登って」(ver13)と言われた、山なのです。では、何故山なのでしょうか。
イエスは、シナイ山で、モーセが十戒を神から授けられた、もっと広く考えれば、イスラエル12部族からなるイスラエルの民が、神と契約を結ばれた、その出来事に、今日の御言葉で倣っておられるのです。
イスラエルの民は、エジプトで400年もの間、奴隷状態でした。宰相であったユダヤ人ヨセフの働き等とうの昔に忘れ去られて、彼らは、奴隷に成り下がっていました。
しかし、彼らは、ただ神の一方的な憐みによってエジプトから救い出されたのです。
そして、約束の地、乳と蜜の流れる地、ファレスティナに向かって荒れ野の旅を始めました。
その途中、彼らは単なる解放された奴隷としての集団ではなく、憐み深い主なる神の御心に従う、一つの群れ、その民となるために、神が、イスラエルの民と契約を結ばれたのです。
その時に授けられたのが、十戒で、それを授かったのが山だったのです(出24:4)。
イエスは本当にこの出来事を心に留められて、ご自身の下に招かれた一人一人を単なる群衆とは区別して、ご自身が招かれる、神の御国の福音に生きていく、明確な一つの民となることを、望んで、一人一人の弟子たちを招かれたのです。
ではなぜ、この12人をイエスは選ばれたのでしょうか。聖書は語ります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」(ver13)。
「さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た」(ver13 新改訳2017)。
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた」(ver13 口語訳)。
この三つの聖書は、12弟子を「これと思う者」(新共同訳)、「自分が望む者達」(ver13 新改訳2017)、「御心に適った者達」(ver13 口語訳)。と語ります。
この三つの聖書は、夫々に独特の訳し方をしていますが、なぜイエスが御自分の弟子として、12人をお選びになられたのかといえば、それは、要は、この12人をイエスが「これと」思われたからなのです。
この12人は、イエスにとって、「御自分が望む者たち」であった。「主の御心に適う者達」であったということなのです。
この12人を他の人達が見て、何と思おうが、人々が、どう思おうが、誰がどう思おうが、イエスがこれと思った、イエスが望む者達であり、イエスの御心に適う者達であったという事なのです。
その内訳は次のポイントで見ていきますが、これは、又私達一人一人が救いの恵みの中に入れられたという事をも又表しているのです。
何故私達なのでしょうか。何故私達が救われ
たのでしょうか。何故他の人々ではなかったのでしょうか。そこには神の深い御意志がある
のです。神のお考えがあるのです。今日の御言葉でいえば、12弟子を「これと思う者」(新共同訳)、「自分が望む者達」(ver13 新改訳2017)、「御心に適った者達」(ver13 口語訳)。と語りますが、神の目から見れば、私達も又、「これと思う者」(新共同訳)、「自分が望む者達」(ver13 新改訳2017)、「御心に適った者達」(ver13 口語訳)。であったのです。
だから救いの中に選ばれたのです。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1:4-5)。
12使徒、「アポッスル」という言葉は、特別なニュアンスを持っています。しかし、そこに在るのは、実力主義ではありません。努力によって勝ち取った救いという事もありません。実力主義が罷り通ってしまったら、福音が、福音ではなくなるのです。
彼らが唯々イエスの一方的な憐みによって、
12弟子に選ばれたように、私達も又、神の一方的な恵みと憐みによって、救いに選ばれたのだ、私達のよきところでもない、賜物でもない、力でもない、努力でも、実力でもない、唯一方的な憐みによって救いの中に入れられたのだ
という事を覚えて歩んでまいりたいと思います。
II.イエスの深い観察眼
さて、イエスについて行くという事は、神の恵みに生きる、一つの民となるという事です。
神の恵みに生きる。この世界は、全てが実力主義ですから、クリスチャンの恵みに生きる、生き方というものは、ある意味、この世界の人々の生き方とは、真逆を行くものなのです。
先ずは、12弟子のラインナップを見てみましょう。「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボア
ネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」(ver16-19)。
このラインナップを見て、思うことは、取り立てて特徴がないという事です。
ある意味、平凡な人々の集まりであると行くことなのです。大金持ちはいません。
当時尊敬された職業についていた人もいません。高い学式があった訳でもありません。
秀でた人格者がいたという訳でもありません。皆本当に普通の人々です。
しかも皆片田舎のガリラヤの出身ですから、時の権力の中枢にある人々、ファリサイ人、律法学者達からすれば、これが、イスラエルの民の代表だろうか、神の御国の代表だろうかと疑ってしまう人、いや見下されてしまう人々ばかりだったのです。
これが、本当に、イエスが「これと思う者」(新共同訳)であり、イエスの「御心に適った者達」(ver13 口語訳)。であり、「自分が望む者達」(ver13 新改訳2017)なのでしょうか。
しかし、ここにはイエスの確かなるメッセージがあります。観察眼があるのです。
神の御国の民になるには、何か特別な力、特別な能力や地位は必要ないのです。
何を持っていなくても、何をする事が出来なくても、唯神の憐れみと、イエスの恵み、憐みに応えて、イエスに従いゆくとき、どんな人でもイエスは、神の御国へと招いていて下さいます。
寧ろ、ここで際立っているのは、イエスの人を見る目、観察眼です。例えば、マタイ、彼は言わずと知れた取税人です。ユダヤの民から税金を取り上げて、多くとった分は、自分のポケットに入れて、異邦人であるローマ帝国に仕える。所謂売国奴です。
また熱心党シモンもいます。当時のユダヤの
社会で熱心党というのは、政治の上で熱心という事です。
ユダヤ社会を何とか、ローマの支配から解放しようとする人々です。その熱心党のシモンとローマの手先、マタイが一緒に12弟子に数えられているのです。
彼らが本当に、イエスに出会って整えられて、悔い改めていなければ、彼らは、この12弟子のグループの中で、明らかにぶつかって、もしかすると、分裂をもたらしていた。明らかに、水と油のような両極にいるような存在です。
この二人敢えて選ばれたところに、イエスがこれと思ったところに、イエスの深いお考えがあるのです。
そして、そこにはまたイスカリオテのユダがいます。彼が選ばれたその意味は、もう少し後にお話ししますが、「イス」=「男」という意味です。
イスカリオテというのは、短刀を持った男という意味なのです。いつも、短刀を懐に忍ばせているのですから、恐らくは暴力的な人であったと思います。
正義感であったとしても、何か自分と意見を異にする人がいれば、もしかすると、すぐ、ぶすっと刺してしまう、そういう怖さを持った人です。ユダとマタイがもしイエスに出会う前にすれ違っていたら、それこそ、刃物で切った、張ったになってしまうかもしれません。しかし、この二人をうまく一つの使徒団の中で、生活をさせるのですからイエスの卓越したリーダシップがあります。
またイエスは、綽名をつけています。シモンにはペトロです。これは岩とも訳せますから、ある意味固い意志を持った人という意味です。
しかし、ペトロというのは、そのまま訳せば、砂利とも訳せます。人々に踏まれて行く、あの砂利です。
ですから、12弟子のトップからしていきなり砂利のペトロですから、この集団は一体何なんだという事にもなります。
しかし、これこそ、イエスの愛の心です。人々から踏まれるような砂利の様な人もイエスは心から歓迎して下さるという事なのです。
ゼベダイの子、ヤコブとヨハネをボアゲルネスと呼びます。これは雷の子という意味です。
兄弟が揃いも揃って、雷の子ですから、どれだけ、この二人は気性が荒いのでしょうか。喧嘩早いのでしょうか。それでも神の恵みを分かち合うのに相応しい者へと変えられていくのですから、福音の豊かさを私達は思うのです。
しかし、イエスが綽名をつけた、この三人。この三人こそ後に、初代教会に於いて、要となる人々です。
ペトロは最初の説教者です。聖霊が注がれた後、五千人に喃々とする人々に、多くの群衆の前で使徒達の中で最初の説教をしています。
ヤコブは、12使徒の中の最初の殉教者です。ヨハネは最後の聖典であるヨハネの福音書をかき、島流しに遭いながらも、世の終わりを預言した、ヨハネの黙示録を書きました。
そして最後に、「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」(ver19)。
イエスを当局者に、銀貨三十枚で売り渡したのは、ユダでした。それでイエスは名ばかりの裁判を受けて、十字架に架からなければならなくなってしまいました。
しかし、この事も当然イエスは分かっておられて、敢えて、ユダを御自分の弟子に加えられ、3年もの間、訓練して行かれたのでした。
ユダはイエスを売り渡しました。ペトロは、鶏が二度鳴く前に三度イエスを知らないとイエスを否定します。
他の弟子達は、イエスの十字架を目の当たりにして、ちりじりバラバラ逃げて行ってしまいました。
しかし、イエスはこうなることを御承知の上で、彼らを選び、彼らと歩み、彼らと食事をされ、彼らを教えられ、彼らと笑って過ごされました。
ご自分を裏切る、捨て去り逃げる、否定する。
そのことが分かっていながら、笑う。これはすごいことだと思うのです。
こうしてイエスは、ご自分の命を十字架でお捨てなられることによって、彼らの弱さと罪を背負って、彼らを赦し、彼らを永遠の命へと、救いへと、神の恵みへと招いて行かれたのです。
「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(ver14-15)。
イエスはこんな彼らを、3年もの間、ご自分の傍において、訓練されるのみならず、権威を与えて、何よりも愛して行かれました。
いいえ彼らの為にも十字架に架かられたのですから、イエスは12弟子を愛し抜いて行かれました。
傍に置く。本来であれば、傍に何ておいてもらえるはずがない人々です。
遠くに追いやられても文句を言えない人々です。しかし、イエスは敢えて、この12人を選ばれて、ご自分の傍において、訓練して行かれま
した。
「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(ver14-15)。
悪霊は、イエスを神の子=王とは知っていますが(3:11)、知っているだけで、神の恵みの支配から人々を引き離そうとする霊であり、闇の力です。
それは現在流行りのオカルトと言われるような、低レベルなものなのではなくて、聖書は、この世界のありとあらゆる領域において、神の御支配があるように、神の御手が及んでいるように、神の御手の中で、この世界の文化、社会構造、国際情勢、そして、政治の世界に至るまで、あらゆるところに潜み、何とか民を、人々を神から引き離そうとする勢力なのです。この力を制圧する権能をイエスは弟子達にお与えになられたのです。
その弟子たちは、当時の社会でいえば、申し上げましたように、取り立てて特徴がない、平凡な人々。大金持ちはいませんし、当時尊敬された職業についていた人もいません。高い学識があった訳でも、秀でた人格者がいたという訳でもない。皆本当に普通の人々です。
しかも皆片田舎のガリラヤの出身ですから、時の権力の中枢にある人々、ファリサイ人、律法学者達からすれば、これが、イスラエルの民の代表だろうか、神の御国の代表だろうかと疑ってしまう人、いや見下されてしまう人々ばかりだったのです。
このような人々にイエスは、権能を与えになったのです。ここにあるのはイエスの確かなるメッセージです。
神の御国の民になるには、何か特別な力、特別な能力や地位は必要はない。何を持っていなくても、何をする事が出来なくても、唯神の憐れみと、イエスの恵み、憐みに応えて、イエスに従いゆくとき、どんな人でもイエスは、神の御国へと招いていて下さるのだということです。
ペトロは後に岩とも言われ、彼の信仰の上にイエスは私の教会を建てるとも言われました。しかし、彼はイエスを否定しました。ユダは裏切りました。他の弟子達は、逃げていきました。しかし、そんな彼らの為にイエスは十字架で死に甦って下さいました。
そしてこの愛は、私達一人一人の上にも注がれていることを覚えて参りたいと思います。
私のような者にも注がれる神の愛に感謝して歩んで行きたいと思います。
