2025年11月02日「手を伸ばしなさい」

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手の萎えた人をいやす

1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

「手を伸ばしなさい」

旧約聖書:創世記2:1-3
新約聖書:マルコによる福音書3:1-6

I.真ん中に立ちなさい

イエスの初期伝道は、ガリラヤの春と言われるほど、順調な滑り出しを見せていました。

洗礼者のヨハネからイエスは洗礼をお受けになられ、聖霊が鳩のようにおくだりになられ、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。という声が天から聞こえ、イエスは、神の御国の訪れを見せる為に、教えを宣べ、様々な癒しを行われました。

ですから、今日まで読んでまいりました所が、このマルコの福音書の第一部という事が出来ます。そして、いよいよ第二部に入っていくのですが、その大きな転換点となるのが、安息日の癒しの出来事です。

そして、これがきっかけとなって、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(ver6)。

ヘロデ派というのは、時のガリラヤ地方の領主であった、ヘロデを信奉する人々です。非常に政治的な人々です。一方、ファリサイ人、律法学者達は、ある意味純粋に信仰的な人々です。

ですから、その両極端で、本来ならば、手を結ばないような人々が、手を結んで、イエスを十字架へと追い込んで行こうとしていたのです。目的の為ならば、手段を選ばずです。こうしてイエスはいよいよ十字架への道を歩み始められていくのです。

ですから、今日も御言葉に聞いて参ります安息日の出来事、これは、イエスのこれからの御生涯を決定づける、大きな出来事となります。

さて、安息日とは、読んで字のごとく、安息する日です。ほっと一息ついて、心休める日です。聖書的に言えば、何方の前に、ほっと一息つくのかということです。それは言わずと知れた神の御前に、ほっと一息つくのです。

そして神に感謝して、一週間の旅を始めて行くのです。これによって、私たちは、この世界の大変厳しい現実の中にあっても、力を頂いて、歩み始めていくことができるのです。

そしてイエスは、私について来なさいと(1:17,2:14)この安息へと私たちを招いて下さるのです。

しかし、律法学者達にとっては、安息日も、単に安息をするだけに留まりませんでした。余りにも信仰的であるがゆえに、安息日は、安息日律法となります。

そして、律法である以上は、何が何でも守らなければならない様々な付帯事項が付いてくるのです。例えば火を使うことは労働に当たりました。ですから、安息日には火を使うことができません。食事を作ることも労働ですから食事は前日に作り置きをしておかなければなりませんでした。

歩く距離も決まっていました。もっとひどくなると、牛が沼に落ちても、それが安息日ならば、引き上げることは赦されませんでした。更には、灯りは灯しても良いけど、消してはいけない、結び目を結んでは良いけど、解いてはいけない‥等

人々は、安息日律法を守ることに四苦八苦して、安息日に心身を休めるどころの騒ぎではありませんでした。

しかもそのような中で、先週イエスは、人の子は、安息日の主であると言われました。

安息日律法のプロと自認してやまない、律法学者達に、イエスは、人の子は、安息日の主であると言い放ったのです。これは、彼らの心をかき乱すのには十分でした。あの預言

者ダニエルが救い主を告知するために、使った、「人の子」という言葉。更には、礼拝するべきお方、礼拝の対象者を指し示す、「主」という言葉を用いて、イエスは御自身を現され、自分たちの権威に挑戦してくるのです。

しかも、そのイエスに多くの人々がついて行っている訳ですから、彼らからしたら、プライドはズタズタです。更にイエスは、安息日を語られただけではなくて、安息日に癒しの御業を行われました。

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(ver1-2)。

私たちは何のために会堂に行くのでしょうか。教会に行くのでしょうか。それは、恵み深い神を礼拝して、安息を得るためです。

他の人をやり込めるために会堂に行くのではないのです。所がそれをしようとしていた人がいました。ファリサイ人、律法学者達です。形式上は礼拝という形を取っているのですが、その内情は全く違う物があるのです。

安息日に労働をしてはならないという、条項をイエスが何処まで守るのか、見極めようとする輩がいる訳です。これは見極めるというよりも、完全な罠です。イエスを陥れるための罠が張られていました。

会堂という非常に閉鎖的な、逃げる事が出来ない場所、正に現行犯でイエスをやり込めてやろうという魂胆がそこに在るのです。

以前イエスの弟子達は、安息日に麦畑の穂を摘んでいました(2:23-24)。ですから今回もきっとイエスは何かをしでかすに違いないと、罠を張って待っていたのです。

今度は会堂という逃げられぬ場所で、イエスを完膚なきまでにやり込めてやろうという魂胆です。そのための道具として使われたのが、片手の萎えた人でした。彼らからしてみれば、片手の萎えた人は、イエスをやり込めるための道具でしかありません。ファリサイ人、律法学者達からしてみれば、イエスを陥れるための餌でしかないのです。イエスを罠にかける為に、恐らくは、その見えるところに、目につくところにこの片手の萎えた人はワザと座らされていたのです。


この片手の萎えた人。誰だって、そんな人目に晒されるような場所に座らされたくありません。萎えた手に痛む心、更にはそんな体を人目に晒さなければならない悲しい思い。

それまでも恐らくこの人は、差別や貧困、様々な苦汁を味わってきたと思います。しかし、これは、それ以上の惨めさ、切なさです。

しかもそれを礼拝の場で、それをもう一度、味合わされているのです。良く知って下さい。一体、この人の人格は何処にあるのでしょうか。安らぎは完全に消えうせていきました。これが、聖書が語る安息日なのでしょうか。

ファリサイ人、律法学者達の言い分はこうです。安息日は、休む日だ。労働をしてはいけない日だ。大体元を辿れば、天地創造の神が、六日間働かれて、七日目に休まれた、創世記、いや天地創造にまで遡る事が出来る、それが起源なのだ。


しかも目の前にいる人は片手が萎えていると言っても、直ぐに命がどうなるものでもない、小さな病でしかない。ならば尚更、別の日に癒したって問題はないでしょう。明日癒したって、一日の差位、どうなるもんでもないでしょう。

いやそれこそ、あと少し後数時間、日没まで待てばよいことだ。そして規定を厳密に守って、このローマに支配されている社会に、このガリラヤに神の直接的な御介入を待ち望んでも良いではないかという事なのです。

その根柢にあるのは、選びの民、ユダヤ人を牛耳っていた、異邦人、ローマに対する苦々しい思いです。そして、自分達の自尊心を、プライドを傷つけられたイエスに対する、敵対的な思いがあったのです

そこでイエスは、この手の萎えた人に言いました。「真ん中に立ちなさい」(ver3)。これは一

見、酷な言葉に聞こえます。大体が目立ちたいはずがありません。


いやそれ以前に十分に人々の目につくところに座らされているのですから。ならば、公衆の面前で完全なる癒しを行われることによって、人々の目の前で、この人の人格を守って差し上げる。そのことが大切なことだとイエスは思ったのでした。


そのうえで、イエスは、ファリサイ人、律法学者達に尋ねるのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた」(ver4)。


正解は、分かり切っています。善を行うことであり、命を救うことです。しかし、このイエスの問いかけは、安息日の労働問題でイエスをつるし上げようとしていた、ファリサイ人、律法学者達からするならば、意表をつかれる言葉でしかなかったのです。


勿論答えは分かり切っています。しかし、彼らはそれに答えてしまったら、イエスの正当性を認めてしまうことになってしまうのです。ですから、答えは、沈黙しかありませんでした。


彼らが問題にしたかったのは、安息日に癒しを行う正当性は存在しないという事だったのです。しかし、イエスからしてみれば、問題なのは、晒し者になっている、この人の人格だったのです。ましてや安息日を奪い取られている片手の萎えた人に、真の安息を回復して上げることの方が、よほど大切なことである。イエスは考えたのでした。

だからイエスは敢えて、真ん中に立ちなさい。一見この片手の萎えた人には、酷に思えるような、言葉を発せられたのでした。 ここに二つの相反する点を見る事が出来るのです。それは、律法を守っていると言いながら、この片手の萎えた人を晒し者にした、ファリサイ人、律法学者達の本質です。律法の第一の掟はこれです。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』


第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(マルコ12:29-33)。


律法とは、神を愛し、人を愛することで全うされて行くのです。しかし、片手の萎えた人をイエスを陥れるための道具に使おうとした時点で、しかもそれを、安息日に、しかも神聖な会堂で行った時点で彼らは、ファリサイ人、律法学者達は、本当の意味で、神も隣人も愛していないという事を、証ししてしまっていることに気が付かなかったのです。


一見、律法を守っているようで、実はその第一歩から守ることができていない、彼らの心です。ファリサイ人、律法学者達の心の在り様です。


しかし、もう一つ、「真ん中に立ちなさい」一見酷なことを言っているようで、実は、公衆の面前でこの片手の萎えた人を癒して行かれる。


いやこれから癒していかれるのですが、それ以上に、この人の安息日を、この人の人格を、そして、全生涯を根底から目に見える形で、人々の目ではっきりとわかる形で、この片手の萎えた人の上にも、神の御国が訪れたのだ。この人を全人格的に救い上げようとされたイエスの愛の心があるのです。


これこそが、私たちが信じているイエスの心なのです。私たちはどうでしょうか。


ファリサイ人、律法学者達のように、人の痛みが分からない、項が怖い民と言いますが、頑なな心があるのではないでしょうか。


II.手を伸ばしなさい

さて、イエスは怒られました。彼らの心を悲しまれました。それはそうです。人の痛みが分からないのです。人の苦しみが分からないのです。片手の萎えた人の人生すらも、イエスを陥れる為に使う、道具でしかないのです。


この場面の最重要課題は、この人が晒し者になっているという事でした。ですから、イエスは、この人の人生を何とか根底から回復して行かれる必要があったのです。


「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(ver5)。


この片手の萎えた人から、安息を奪い取っていたのは誰でしょうか。ファリサイ人、律法学者達なのです。安息日を語って止まない彼らが、実は、この片手の萎えた人の安息日を奪い取っていたのです。


イエスは頑なな、ファリサイ人、律法学者達の心を怒り、嘆き悲しまれながら、「手を伸ばしなさい」と言われて、この片手の萎えた人を癒されて行ったのです。


こうしてイエスは、この片手の萎えた人の人格を大切に扱われ、この人の安息を、この人の安息日を回復して行かれたのです。

人々の興味の目に晒された、ファリサイ人、律法学者達のイエスを陥れるための道具に使

われた、この人の人生に、真の安息日が回復して行ったのです。


ここで、イエスは、「彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(ver5)。


イエスは、ここで、ファリサイ人、律法学者達の問題点を明確にされて行かれました。しかし、それは、彼らとて、裁き落とすためではありません。彼らも何とか悔い改めて、真の安息を手にして欲しかったのです。嘆き悲しみながらとは、正にその心です。


しかし、彼らはイエスのそんな親心が分かりませんでした。彼らの心は何処までも、何処までも頑なでした。


「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。


結局彼らは、人生を方向転換させることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。自分の罪が示された時に、自分の欠点が教えられた時に、悔い改めなければならない点が示された時に、私たちは、イエスに向けて人生を方向転換しようとしているでしょうか。


イエスは私たち一人一人に、真の安息を回復して下さる為に、真の安息日を与える為に、「手を伸ばしなさい」と語って下さるお方です。そして、私たち一人一人の人生を回復して下さるお方です。「手を伸ばしなさい」と語って下さるイエスと共に歩んでまいりたいと思います

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