安息から安息へ
- 日付
- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 2章23節~28節
安息日に麦の穂を摘む
23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章23節~28節
「安息から安息へ」
旧約聖書:サムエル記上21:1-7
新約聖書:マルコによる福音書2:23-28
I.死せる正統主義
今日から二週間にわたって、安息日についてのお話が続いていきます。日本においても、週休二日が定着し、ともかくも休む。休日を取るという事が推奨されています。
十戒も、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20:8)。第四戒で語ります。神と私達との関係を表す一戒から三戒と、人間同士の横の関係を表す、五戒から十戒の橋渡しをしている箇所、それが安息日律法の第四戒です。
これは、安息日を持つことが、全ての人間関係の倫理的な根底を為すことを表しているからです。神は、私達が正しい人間関係を持つにあたり、まずは、安息日を正しく守ることを教えられるのです。神との縦関係は、必ず人との横の関係にも表れてくるからです。
逆に言えば、クリスチャンは安息日を正しく守らないで、正しい人間関係を築いて行くことはできないのです。
日本は休まないで働く、そこに一種の美徳が少なくとも、私が牧師になりたての頃は、まだありました。そのころのCMには24時間戦えますか?というキャッチコピーが躍っていました。
人間本来の在り方からすれば、真逆のCMです。今日は安息日の意義について、御言葉に聞いて参ります。日本は、明治以前、休日という概念が存在しませんでした。休みと言えば、年に二回、正に盆と正月ぐらいです。私たち日本人は、休むことが苦手です。
日本の有給休暇取得率は、50%を下回っています。先日長男に有給休暇の消化率を聞いてみましたが、殆ど使えていない状況なので、それが切れる前に、義務的に消化しているような有様でした。更に悪いことには、申しましたように、日本には、休まずに働くことは美徳であるという考え方が昔からあるのです。
しかし、もし、私たちが本当に建設的な一週間を過ごそうとするならば、休息が大切なことはいうまでもありません。私は以前、休まずに働いて、33歳の若さで、身体を壊しました。そのときは、働きの重圧から休むどころではなかったのですが、休まなければ見えてこない世界があることにも又気付きませんでした。
私たちは、確かに、この世界に遣わされていくのです。しかし、仕事が、子育てが、永遠なる神が与えて下さる、真の喜び、つまり、神に愛
され、神を愛する喜びにとって代わることはできないのです。働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見るではありませんが、私達が神を抜きにして働いたとしても、人生の空しさを乗り越えることができないのです。
やはり安息日に神を見上げることは、大切なことです。イエスは、私達一人一人に、私について来なさいと言われました(1:17,2:14)。
イエスは私達一人一人を招いて下さっています。イエスは、私達一人一人を安息へと招いて下さっているのです。
イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。と言われました。神の恵みの御支配が私達一人一人を真の安息へと導いて行って下さるのです。
恵み深い神の御前に安らぎ、憩いを得る。私について来なさいと言われた、イエスについて行くという事は、この安息を得るという事に他なりません。
イエスは私について来なさいと、お語りになられ、四人の弟子達を招かれて行くのです。
そして、安息日にカファルナウムの会堂で、その界隈で、シモンの姑を癒され、更には神の御前に山で静まり、重い皮膚病に侵された人を癒され、中風の人の癒し、徴税人レビ(マタイ)の召し、断食論争と六つの働き、ミニストリーを為され、更にこの後に今日と来週御言葉に聴きます、二つの安息日論争をなさるのです。
そして、更なる弟子を選ばれて行くという、次のステップへと上がっていくのです。ですから、イエスの公の御生涯の最初のお働きは、安息日を強調する、正に安息から安息へと続いていくお働きでした。イエスのミニストリーは私たちを安息へと導いて行って下さるのです。
正に安息日から安息日へと、続いていくのです。イエスは、安息日をただ休まれる日として、捉えられていただけではなくて、何方の前で私達は休むのか。
何方の前で私達は憩うのか。いやそもそも安息日とはただ休む日というだけではなくて、神の恵みを頂く日ではないのかという。安息日の本質を問われたのです。
「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った」(ver23-24)。
これは、安息日に手で摘むという刈り入れ労働と揉んで食べるという脱穀労働の、二重違反になったのです。
勝手に人の畑に入って、鎌をもって借ることまでは禁じられていたとしても、手でそれを摘んで食べることは赦されていました。これはイスラエル共同体の恵みの規定です。旅人が行倒れになってしまわないように、ある程度の所までは、許容することは、寧ろ、地主としての美徳と考えられていたのでした。ちょうどあのルツ記の落穂拾い、畑の隅は、刈り取らないで、社会的弱者の為に、置いておく。それと一緒です。
勿論鎌で狩ってしまったら、それは窃盗に当たりましたが、福祉的な観点から、摘むぐらいのことまでは赦されていたのです。
問題は、これをイエスの弟子達が、安息日に行なったということです。しかし、これはまさに杓子定規な解釈です。これは他人の畑で、麦の
穂を盗んだということはありません。彼らが問題にしたのは、それを安息日にしたという事なのです。
アンパンマンの理念は、目の前のお腹を空かした人に、パンを挙げること。これこそが、逆転しない正義という事ですが、ファリサイ人、律法学者達は、目の前におなかのすいて倒れそうな人がいても、その日がもし安息日であるならば、穂を刈ってはいけないという事なのです。
彼らは、安息日の本質を唯々労働をしてはいけないという事に集中して、いかなる労働も、安息日にはしないというポリシーのもと、その規定を正に杓子定規に解釈して、その実行に余念がありませんでした。
彼らがそこまで律法に熱心だったのは、律法を徹底的に守ることによって、神の直接介入を促し、それによって、ローマの圧政から解放されたいとの考えからでした。
大体イエスご一行を安息日に見張ること自体が、それも又労働に当たる訳ですから、その自己矛盾には気が付いていないのです。本当に、これは甚だしい自己矛盾です。
彼らは安息日の本来の意味を考えようともせずに、それを守ること。しかも形式的に守ることに熱心で、自分達の信条を絶対化して、イエスと弟子たちを裁いていたのです。
私たちは安息日の本質を考える必要があると思います。安息日とは、神の御前にすべての労働を休んで、静まって、神からの御力を頂いて、新しい一週間の歩みへと踏み出す日です。
イエスは、安息日をただ休まれる日として、捉えられていただけではなくて、何方の前で私達は休むのか。何方の前で私達は憩うのか。いやそもそも安息日とはただ休む日というだけではなくて、神の恵みを頂く日ではないのかという。安息日の本質を問われたのです。
しかし、彼らの目は、心は、労働をしてはいけない。そこにばかり、集中して、正に行倒れになりそうな人の為に設けられた規定も、その本質も無視して、杓子定規な解釈に終始したのです。
これはまさに、言っていることは正しいのだけれども、命が通っていない、死せる正統主義以外の何ものでもないと思います。
私たちはどうでしょうか。私達の信仰には、私達の宗教には、血が通っているでしょうか。私達の信仰には、命が溢れているでしょうか。
II.律法の精神
「イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(ver25-26)。
これはサムエル記上21章にあるエピソードです。イエスは、旧約聖書の律法を用いて、自分達を正当化しようとする、彼らに対して、旧約聖書のエピソードを語られて行くのです。
ダビデ一行が逃避行の真っただ中で、身を寄せたのが、祭司のアビアタルの所だったのです。しかし、そこにあったのは、礼拝に用いられるためのパンがあったにすぎませんでした。しかもそれは、礼拝が終われば、祭司のために用いられる食べ物なのです。
しかし、祭司アビアタルは、心優しくそれをダビデに与えているのです。そもそも、安息日というのは、人の為に神が設けて下さった日なのです。それが、人間が、安息日の制度に、隷属する事等考えられないことだったのです。
安息日は、本来人間が人間らしく、人が人らしく生きるために設けられた日なのであって、神との交わり、神を礼拝するために、設けられた日なのです。
律法を、その文字を拘泥的に、正に杓子定規に守ることが必要なのではありません。律法を文字通りに拘泥的に守って、目の前の飢えた人を放っておくという事が、律法の精神なのでしょうか。
目の前に飢えた人がいたら、たとえそれが、祭司用に備えられた食べ物であったとしても、
目の前の飢えている人の為に、用いるのは当たり前ではないかということなのです。
しかし、これこそが、律法の精神なのです。律法が目指すところはここなのです。これがなくなったら、律法が存在する意味がなくなってしまうのです。
「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)。
私たちが本当に神を愛していたとするならば、いいえ愛しているとするならば、たとえそれが、安息日であったとしても、神の愛の精神によって、どうして、隣人の必要に答えなくても良いことがあるでしょうか。
III.安息日の主
さて、安息日とは安らぎをもって、神を礼拝する日です。「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(ver27-28)。
これは挑戦的なイエスの御言葉です。イエスの目の前にいたのは、ファリサイ人、律法学者と言った、律法の専門家だと信じて疑う事がない人々です。
彼らを目の前にして、彼らを目の前にして、
イエスは御自身のことを、安息日の律法、規定、その解釈を超えるお方として、ご自身を提示されたのです。しかも、イエスは御自身を主と言われました。これは旧約聖書の時代から、神を表す御言葉である、ヤハウエを彷彿とさせる御言葉です。
更には人の子という言葉です。これは預言者ダニエルが語った、終末のメシアを、表す言葉ですから、イエスはここで、ご自身を、安息日を規定する存在だと言われ、更には神であり、終
末の救い主だと公言された訳ですから、聞いた方が、茫然自失、愕然とするようなイエスの言葉だったのです。
そして、これがそのまま、ファリサイ人、律法学者達の怒りに代わって行くのです。
大体が安息日律法の規定は、出エジプト記20章のモーセの十戒に起因します。六日目に人間を創造された後に、創造の御業のクライマックスとして神は、すべての創造の御業を終えて、七日目に休まれたのです。そしてその日を祝福して、安息日として定められたのです。つまり、創造の御業は、安息日で完成したと言っても過言ではありません。
人間の働きは、神が与えて下さった、この安息の働きの中から、始まっていくのです。
人間の一週間の歩みは、安息からスタートをしていくのです。しかし、人間はこの意義を完全に見失いました。お金持ちになるために、出世するために、偉くなるために、休みなく働き、いや、自分が働くだけならまだしも、他の人までそのために働かせるのです。これは古代から、現在に至るまで、この精神構造は変わっていないと思います。ですから建てられた、安息日律法なのです。
そして、イエスは、ご自身を主と言われ、安息日を制定された神だと言われ、更にはひとの子という言葉で、預言者ダニエルが預言した救い主こそ自分であることを宣言されて、安息日の意義を取り戻されたのです。
「だから、人の子は安息日の主でもある。」(ver28)。イエスは人々に真の安息を取り戻させるために、敢えてこの言葉を使われました。
しかし、この言葉が引き金となって、ファリサイ人、律法学者達の怒りを買い、イエスはいよいよ十字架への道を歩み始められるのです。
しかし、イエスは、そのように、ご自身を十字架へと追いやって行く人々の為にも死んで甦って下さったのです。
イエスが十字架で死んで終わってしまったら、安息も何もない訳ですが、イエスは死に打ち勝
って、甦られて、永遠の命があることを実証されました。
ですから、イエスが招いて下さる安息は本当真実です。そこには命があり、そこには喜びがあり、死にすらも打ち勝つ事が出来るという事実が証されていくのです。
イエスが語られた、「人の子」これに与えられた統治権をもって、
「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」(ダニエル7:14)。
滅びることがない、神の御支配が、イエスにおいて、安息日の訪れによって、実現したという事なのです。
ここに創造の御業を完成させる、神の安息が全き力形で回復して、人々が終わりの日に向かって、安息の世界を生きていく事に他らなないのです。
ですから、安息日を守る、復活の主の日を守るという事は、律法ではないのです。真の安息を与えて下さる、神に対する信仰を、告白し、やがて、本当に神が御支配下さる、真の安息の世界を神が必ず実現して下さるのだ。
私たちが安息日を守ることによって、そのことを信仰的に告白していくのです。
イエスは、この安息に私たちを招くために、十字架で命を捨て、甦って下さったのです。
神が与えて下さる、安息から安息へのサイクル。この恵みを覚えて、私達一人一人、主の日を守って行くものでありたいと思います。
