2025年10月12日「新しい革袋」

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断食についての問答

18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

「新しい革袋」

旧約聖書:イザヤ書58:6-8
新約聖書:マルコによる福音書2:18-22            

I.喜びの中へと生かされて行く道
 長男が小学校に入ったとき、家に帰ってきて言いました。「パパ、ママ聞いて!!学校で給食を食べる時、皆お祈りしないんだよ!!」。

幼い彼にとって、これは、今までとは全く違った、世界観へと足を踏み入れたその始まりでした。親である私たちは本当に思いました。
これから彼が逆の意味で、PK(Pasters kids)として、クリスチャンとして生きて行くのは、本当に大変だと思いました。

 クリスチャンになるということは、世界観が、本当に劇的に変化することを意味しています。この世の価値観とは、180度違う世界観の中を生きていくことになるのです。

 これまでとは全く違う世界での歩みが始まるのです。神を知らなかった私達が、唯お一人の神を見上げて歩むようになります。独りぼっちだと思っていた私達が、いつも共にいて下さる主を知り、ご一緒に人生を歩むようになるのです。
 不平不満で一杯だった人が、神の恵みを知り、神の恵みを仰いで生きる事が出来る様になります。希望がなく打ちひしがれていた人が、新しい人生の希望を見出す事が出来る様になります。何よりも、こんな私の為に十字架で裁きを受けて死んでくださったお方を知るようになるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(マルコ1:15)。
 
クリスチャンになるということは、この神に、ドラスティックに、根本的に向きを変えることなのです。人生の軸を180度変えて生きていくことなのです。

そして、今日の御言葉で、先ず出て来るのが断食問答です。ここでいう断食は、あくまでも宗教儀式的な断食です。

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る」(イザヤ書58:6-8)。

語られているように、食べ物を絶ってでも、神に祈り、神と交わるという、信仰の現れです。

しかし、それにはまた、政治的な現実も絡んでいました。当時のユダヤ社会は、大ローマ帝国に支配されていました。そこから遡れば、バビロン、ペルシャ、シリア、マケドニア、エジプトなど、近隣諸国の支配と軋轢は、当時のユダヤにとって、絶えることはありませんでした。

この様な長い歴史の中で、彼らはいい加減この苦しみから解放されたい。自由になりたいという思いが満ちていました。又そういう嘆きもあったのです。そして、そのような思いを形に表したのが断食でした。

この大変な時期に、神の直接的な御介入を人々は求めて、ローマの圧政から解放してくれ
る、メシアを人々は待望し、その嘆き祈りを、目に見ええる形で表したのが、断食だったのです。

そして、この嘆きが度を越していくと、排他主義的民族主に繋がっていき、他の国の人々を排除したり、更には、ローマの手先となって、税金を徴収していた、徴税人を攻撃したりして、食べ物を絶ってでも、神に祈り神と交わたいという、信仰の現れである断食が、完全に道を踏み外して、何故あなたは断食をしないのですかという、強制に繋がっていくのです。

そして、このような色眼鏡の中で、徴税人や、遊女、罪人と楽しく会食するイエスを見るならば、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(ver18)。この様な、意地の悪い質問をしてみたくもなったのです。

本来で、どちらでもよい断食です。それを、強制的に人々に強いていたファリサイ派の人々はともかくとして、イエスを人々に紹介するお務めがあった、ヨハネの弟子を引っ張り出してまで、イエスに断食問答をぶつけてくるのですから、如何に当時の人々(民衆)の鬱憤がたまっていたかが分かるのです。

そこでイエスは言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(ver19-20)。

 確かに結婚披露宴で、婚礼の客が断食をしていたら、それは異様な光景です。やっぱり二人を祝福して、喜び楽しまなければなりません。喜んでいる人に、冷や水を掛けるような行為になっていまいます。勿論イエスは、ここで断食そのものを否定しておられるのではありません。
ご自身も、四十日、四十夜断食をなさいました。それよりも、私が、イエスがこの地に来たことによって、既に神の御国の御支配は始まり、これまでとは全く違う世界での歩みが始まった。

神を知らなかった私達が、たったお一人の神を見上げて歩むようになった。独りぼっちだと思っていた私達が、いつも共にいて下さる主を知り、ご一緒に人生を歩むようになった。
 
不平不満で一杯だった人が、神の恵みを知り、神の恵みを仰いで生きる事が出来る様になった。希望がなく打ちひしがれていた人が、新しい人生の希望を見出す事が出来る様になっていく。

 何よりも、こんな私の為に十字架で裁きを受けて死んでくださったお方を知るようになった。

こんなに素晴らしいことがあなたの人生に起こっていくのに、どうして、断食をする必要があるのですか。これがイエスの問いかけなのです。

私たちは断食の本質を忘れてはなりません。悲しくもないのに、表面上断食を行っても意味がありません。形式的な断食には、何の意味もないとイエスは言っているのです。

しかし、断食して嘆き悲しむ日が来ることを忘れてはなりません。それは、花婿が奪い去られる日です。イエスが十字架に架かる日です。その日はまさに、人々は断食して嘆き悲しまなければならない。

イエスはその日がくれば、弟子達は周りの人々から強制されなくても、自分の師が、主イエスが、亡くなってしまったことを悲しみ、断食をせざるを得ないだろうと言うのです。
 私たちは、もう断食をする必要はないのです。何故でしょうか。それは、イエスが十字架で私たちの罪と呪いを引き受けて下さって、信じる私達に永遠の命を与えて下さったからなのです。

このイエスが今聖霊を通して、私達一人一人と共にいて下さるのです。だから、私たちは既に律法的に断食をする必要は一切ありません。嘆きや、悲しみに終止符を打って、イエスの十字架によって、齎される、永遠の命の恵みの中を、その喜びの中を歩んで行こうではありませんか。

II.福音、新しい革袋に生きる
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」(ver21)。

そして、イエスがお語りになったのは、織たての布切れを古衣服に継あてるという譬えです。

これは、自由に生きている命を、活力にあふれている命を、古くて死んだ、教えの中に、無理矢理に、閉じ込めようとする、愚かさを語っているのです。

 イエスは、律法を廃棄するために、来られたのではなく、律法を成就するために来られたのです。律法を完成するためにイエスは来られたのです。イエスは、世間から罪人だ、遊女だ、徴税人だとみなされていた人々と共に、喜んで食事の席に付かれました。

 更には弟子達ですらも断食をしていませんでした。マタイでは、それを、洗礼者のヨハネの弟子達から咎められているのです。
  しかし、これがイエスの生き方です。イエスの周囲には、古い観念や、伝統にとらわれることのない新しい生き方があったのです。
 この世界には、様々な、不平等があり、軋轢があり、不平不満があり、欲望があり、搾取があり、妬みがあり、恨みがあり、憎しみがあり、復讐がある。人々は、皆これらに捕らわれて生きている。

 しかし、私はこれから、十字架でこれらを全て、解決していくのだから、古い生き方を決して、新しい命の中に入れてはいけない。
 
命に溢れたイエスのもたらしてくれる、生き方を、ユダヤ教的な断食をするの、しないのと言った、古い戒律の中に入れていてはいけないのだと、イエスは言われたのです。

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(ver22)。

 新しいぶどう酒を、古い革袋に入れていたら、その発酵力に耐え切れずに、古い革袋は破れてしまうでしょう。

同じように、イエスにある新しい命を、180度変えられた、新しい人生を、神を知らなかった私達が、たったお一人の神を見上げて歩んでいく。独りぼっちだと思っていた私達が、いつも
共にいて下さる主を知り、ご一緒に人生を歩むようになる。
 
不平不満で一杯だった人が、神の恵みを知り、神の恵みを仰いで生きる事が出来る様になる。希望がなく打ちひしがれていた人が、新しい人生の希望を見出す事が出来る様になっていく。
 
この新しい人生を、折角神が齎して下さった、新しい生き方を、古い革袋に入れてはいけないのです。
そして、元々、大体この命は何処からもたらされたのでしょうか。それは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(1:15)。

イエスの神の御国の御支配を語る、福音宣教に始まったのであり、いやこの少し前に、イエスが、洗礼者のヨハネから、洗礼をお受けになられた時に、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(1:10)。

これは以前も申しました「スキゾー」という言葉です。布を引き裂くがごとくに、天を引き裂くように、聖霊が降りて来られて、イエスを公の生涯に、まるで強制するかのように、送り出されて、そして、この恵みの世界に神は、私たちを招かれていく。

イエスの十字架の受難を通してでも、私達一人一人をこの恵みに招き給う、神御愛の大きさを私たちは忘れてはならないのです。

しかし、イエスが齎して下さった、この新しい命を、この様な命を決して、古い宗教的な、仕来り、宗教的な伝統の中に入れようとするのは、何もファリサイ派の人々だけではありません。

それはまた、今日の私達も又もっているものなのです。礼拝しているから大丈夫、お祈りしているから大丈夫、献金しているから大丈夫。そして、伝道しているから大丈夫。何かをしているから大丈夫だという、嘗ての古い生き方に私たちは容易に、舞い戻ってしまうのです。

だから、パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)。この様にはっきりとくぎを刺したのでした。
 福音とは何でしょうか。それは、イエスを信じるときに、私たちは、罪許されて、永遠の御国に行く事が出来る。それ以上でも、それ以下でもないのです。それが全てであり、それが聖書のメッセージです。

 それが福音なのです。福音とはこれ以上でも、これ以下でもないのです。イエスを信じる信仰と断食ではないのです。これから、御言葉に聞いて参りますが、イエスを信じる信仰と、戒律的な安息日の厳守でもないのです。イエスを信じる信仰と+αではないのです。

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(ver22)。

この様な生き方は、古い革袋に生きる生き方に過ぎないのです。どうかイエスを信じて、新しい革袋に生かされる、生き方をして行くものでありたいと思います。

 イエスを信じて、180度変えられた新しい命の中を、歩んで行くものでありたいと思います。

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