2025年10月05日「私に従いなさい」

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レビを弟子にする

13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 15イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 16ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章13節~17節

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「私に従いなさい」

旧約聖書:申命記33:8-11
新約聖書:マルコによる福音書2:13-17

I.イエスの深い慈しみの心
 この福音書は、「福音の初め」(ver1)。と書き出されていきます。そこにあるのは、喜びと慰めです。イエスは、公のお働きを洗礼者のヨハネから、洗礼をお受けになられることによって始められました。
これは、イエスの宣教の始まりの洗礼であると共に、又勿論イエスには罪は全くないのですが、悔い改める人々、即ち罪人共に歩むことを、イエスが罪人と共に歩むことを決心されたとその現れでした(ver4-11)。
 そしてそれを目に見合える形で表されて行かれるかのように、「重い皮膚病の人」を癒され、「悪霊に憑かれた人」の悪霊を追い出され、「ペトロの姑」を癒され、次から次へと運び込まれてくる、「悪霊に憑かれた人」や、「病人」を癒され、「中風の人」をもまた癒して行かれたのでした(1:21-2:12)。
そして、イエスは、ご自身の愛と慰めに満ちたお姿を現していかれました。イエスは御自身の愛と慰め、そして、神の御国の訪れを目に見える形で表していかれました。正にイエスは福音そのものでした。
そして、イエスは、この福音をご自分の周りにいる人々に対してだけではなくて、群衆にもお語りになります(ver13)。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」(ver13)。
この集まってきた、教えられたというのは、未完了形ですから次々と集まっては去っていく、
群衆にイエスは、根気強く教えられ続けたということを意味しています。このようにイエスの周りには喜びがあり、慰めがありました。そして、イエスは、徴税人であったアルファイの子レビ、マタイを弟子とされるのです。
当時徴税人には、二種類あり、前者は、所得税を取り立てる徴税人、後者は、通行税を取り立てる徴税人です。
アルファイの子レビ マタイは、通行税を取り立てる、徴税人で、何れにしてもユダヤの人々から嫌われていたのです。
大体徴税人のバックにいるのはローマ帝国です。彼らは自分達で、税金を取るのが面倒だったので、ユダヤ人を、貧しいユダヤ人たちを雇って、税金を徴収させていたのです。

しかも、ローマ帝国は税金を沢山持ってきてもらわねば困りますから、多くとった分は、君のボーナスだという甘い言葉で、更には一方では暴力に訴えて、正に飴と鞭で下請けユダヤ人達を雇っていたのでした。

しかし、この世界、貧乏から抜け出そうと思って、ローマの手先に成り下がって、一度徴税人の世界に入ってしまったら、人々から売国奴と言われようが、何と言われようが、そう簡単に抜け出せるようなものではありません。現在の闇バイトと同じです。

しかもその税金はユダヤ社会には、殆ど還元されません。当時、ガリラヤには形ばかりの自治はありました。しかし、税金はガリラヤの為に使われるのではなくて、ローマ帝国の都市整備や、戦争に、軍事予算にとふんだんに使われていたのです。
 更にはその地を治めていたヘロデも、ローマで教育を受けたユダヤ人でしたから、同じようにユダヤ人に多額な税金を治めさせていたのです。何れにしても、信仰持っているユダヤ人が、そうではないローマの為に税金を納めるのですから、その仕事は、多くのユダヤ人から、嫌われていました。しかし、イエスは違いました。「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(ver14)。

実に短いやり取りですがそこにこそイエスの愛が、慈しみと恵み、そして愛が溢れているのです。そしてこの慈しみに触れて、アルファイの子レビが立ち上がったとき、彼の人生は変わりました。

実際にイエスは、この直前に多くの群衆に教えを施しています。いやそれ以前に、イエスが為さった、様々な御業は全国隅々にまで届いていました。ですから、当然、その噂はアルファイの子レビの耳にも届いていたでしょう。

そして正に、その、「時の人」、イエスが今目の前にいるのです。今迄もアルファイの子レビ、マタイは人々から言葉を掛けられたことはあったと思います。

しかし、大体が徴税人、取税人を良く思う人なんていません。しかも税を徴収される方からするならば、気持ちが良い訳がありませんから、それは罵声であったかもしれません。様々な不快な言葉を投げかけられたでありましょう。

私も一年に一度は、税務署に行きます。東村山税務署に確定申告に行きます。かなり長い間待たされて、煩雑な資料を山ほど書かされて、分からなければ、係の人に聞く訳です。

しかし、基本は、税金というのは、此方の意に反してお金を強制的に取られるのですから、大体此方も気持は決してよくはありません。「いくら取られるんですか。」、「こんなに払うんですか。」、「こんなに取られるんですか」ついつい語調が強くなります。
 しかし、イエスは違いました。正に時の人、
イエスからレビは信じられない言葉を貰うのです。「わたしに従いなさい」と言われた。彼は
立ち上がってイエスに従った」(ver14)。この短いやり取りの中に、イエスの言葉に慈しみが溢れていたのです。だから彼は立ち上がったのです。

しかも、嫌々ではないのです。喜んで従ったのです。一度立ち上がってしまったら、彼の席は直ぐに誰かが来て埋めてしまいます。
ですから、彼は二度とこの席に戻ってくることができないことを承知で立ち上がったのです。 
更には、私に従いなさいというのは、現在命令形ですから、これからずっとイエスに従いなさいという主の御言葉です。それでも彼は立ち上がったのです。
そこには、人々から、除け者にされていた、軽蔑され、嫌われていた自分を招いて下さった。イエスはこの少し後で仰いますが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(ver14)。

この御言葉にあるように、自分の心の中に罪があるのは、自分でも、薄々分っている。だからこそ、アルファイの子レビ、マタイはイエスに従う事が出来たのです。
そして、彼が喜んでイエスに従っていったことは、後に自分と同じような境遇の人々を招いて、パーティーを開いていたことにも表れているのです。アルファイの子レビ、マタイは、自分がイエスから戴いた慰めを又、自分と同じような境遇にある友達に分かち合っていたのです。
 彼は、先程読んで頂いた、レビ族の末裔です。レビ族は、変えられる前は、決して、12部族としてふさわしい者ではありませんでした。
 しかし、神の憐れみによって変えられて、12部族に加えられました。「アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(ver14)。
アルファイの子レビも又、イエスの12弟子に
加えられるのには、相応しい者ではありませんでした。
しかし、イエスの慈しみと一方的な憐みによって、主の弟子として加えられたのです。彼は立ち上がってイエスに従う事が出来たのです。

聖書は語ります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:4-5)。

私達も又、救いに相応しい者でなかったとしても、イエスの一方的な憐みによって、救いの恵みに入れられたのだ。そのことは自分の身を顧みれば本当に思います。

II.立ち上がってイエスに従う人生
 さて、彼が喜んでイエスに従っていったことは、後に自分と同じような境遇の人々を招いて、パーティーを開いていたことにも表れています。アルファイの子レビはアルファイの子レビ、マタイは、自分が、イエスから戴いた慰めを又、自分と同じような境遇にある友達に分かち合っていたのです(ver15)。

しかし、どの世界でも、良い事とは分かっていても必ず難癖をつけようとする人々はいるものです。イエスに直接言えばいい訳ですが、わざわざ遠回しに弟子たちに言うのです。

「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った」(ver16)。

イエスのアルファイの子レビに対する招きは、ペトロアンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の弟子を招かれた、その招きの繰り返しだと言う人もいます(1:16-20)。しかし、ペトロやアンデレは基本的には漁師です。しかし、アルファヨの子レビ、マタイは、当時の一般常識からしても罪人です。ファリサイ派というのは、ファラッシュ=分離する という言葉から来ており、彼らは、汚れていると考えられている者には決して触れないようにしていました。

そしてその中には、徴税人たちや罪人も含まれており、それが律法を守ることだと彼らは考えていたのです。因みに罪人というのは、当時、徴税人のみならず、異邦人や、遊女などが一般的に罪人と言われていたのです。

しかし、イエスは敢えて、このような罪人と分類される人々の中からご自分の弟子を選ばれていったのです。

イエスには人間を外見や身分職業によって判断するのではない、その内面によって、お量りになられる、深い知恵があるのです。

更にイエスは、彼らと食事までされるのです(ver16)。食事をするということは、その人と一緒に生きて行こうとすることを表す行為です。

「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)。

イエスは罪人だと差別されている人々の中に、真実を見て、反対に自らを義人だと誇っている人々の差別的な生き方の中に罪を認められたのです。

この様に人の内面を鋭く見抜いておられた
イエスは、自らを義とする、偽善者の義を見破り、外見で、社会的な立場で人を差別する者たちに真っ向から挑戦されたのです。

彼らはイエスの真意に気が付かなかったばかりか、その反対の自分達の心の中にある、霊的な暗さにも又、気が付いていなかったのです。ですからイエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(ver17)。

 ファリサイ派の人々は熱心な人々でした。神のことについては本当に熱心な人々でした。律法についても類を見ないほど熱心に守る人々でした。

 ですから反対に神に対して、律法に対して、熱心でない人々を自分達と区別することによって、自分とその正しさを確保したのです。彼らはいつも、自分たちは、丈夫な人である。正しい人であると思い、そして言って憚らなかったのです。

 彼らはイエスによって、罪許される必要を、
イエスによって癒される必要を感じなったのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(ver17)。

これはイエスの恵みの福音の宣言です。イエスにとって、自称義人は、罪人です。しかし、自分の罪を認める、罪人はイエスの目から見れば義人なのです。そしてこの言葉は、アルファイの子レビを解放しました。

主の憐れみは尽きません。創造的でさえすらもあります。私達の人生に、新しいことをして下さるお方です。

どうせ、僕なんかだめだと思って座り込んでいる罪人を立ち上がらせ、主に従う者に変えていくのです。
徴税人レビはイエスからの招きを受けて、立
ち上がって従ったときに、その憐れみに触れ、新しい世界を体験しました。イエスの招きが今迄アルファヨの子レビが思いもしなかった所に彼を立たせる事になったのです。

私に従いなさい、この招きは誰にでも与えられているのです。生きる目的も意味も分からない人にも、疲れ果てている人にも、倒れそうになってしまっている人にも、そして、今座り込んでいる人にも、イエスは私に従いなさいと招いておられます。

その時に自分の心の罪を認めて、イエスに近づくときに、イエスは私達一人一人を受け入れてくださるお方です。

更には、レビが経験したような、罪人が招かれて、イエスの懐に抱かれるという今まで経験したことがなかったような、恵みの世界に触れていくことができるのです。

私達はどうでしょうか。ファリサイ人達のように、自分自身を義人だと思って、座り込んでしまっていることはないでしょうか

それとも、霊的には、自分は病人である。罪びとであると認めて、立ち上がってイエスに従おうとしているでしょうか。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(ver17)。

これは、わたしのことだと、認めて、願わくは、立ち上がってイエスに従っていく。そのような人生を送って行こうではありませんか。

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