2025年09月28日「イエス様は御在宅です」

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聖句のアイコン聖書の言葉

中風の人をいやす

1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3四人の男が中風の人を運んで来た。 4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

「イエス様は御在宅です」

旧約聖書:列王記上18:36-39
新約聖書:マルコによる福音書2:1-12            

I.イエスの懐に飛び込む
 さて、カファルナウムで、以前会堂で教え、悪霊に憑かれている人々から、イエスは悪霊を追い出されました。更には、シモンとアンデレの家に行かれて、シモンのしゅうとめの熱を癒されました(1:21~)。そして、

「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(1:32-34)。と、聖書は言っています。
 
その後、更にイエスは、ガリラヤに行かれて、諸会堂を巡回されながら、宣教され、悪霊を追い出され、重い皮膚病の人々を癒されたのでした(1:35~)。そして、人々は四方からイエスのもとに集まって来るようになっていたのです(1:45)。
 その数日後のことです。
「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(ver1-2)。
これは、誰の家に居られたのかということは、具体的には書かれておりません。そして、この御言葉は、「ご在宅であることが知れ渡り」という
御言葉です。つまり、カファルナウムには、
イエスがご自分の家と定めておられた家があったということなのです。
恐らくは、シモンペトロのしゅうとめを癒された、そのペトロの家であったのではないかと想像されているのです。イエスはその家に今日も、ご在宅であった。そして、そこで何をしておられたのかと言えば、イエスは御言葉を語っておられたのです(ver2)。多くの人々は、イエスの語る御言葉を聞きに、この家に押し寄せ、戸口の辺りまで隙間のないほどになったのでした。
この、御言葉と訳されましたギリシャ語は、「あの言葉」、「あの話し」という意味です。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(1:14-15)。
イエスは何も新しい話をしてはおられないのです。今日もまた福音を語っておられた、そして、その御言葉を聞きに、多くの人々がイエスのもとに押しかけていたのです。
私達も福音を語ります。福音を伝えます。場所が違えば、時代が変われば、語る方法も、伝える伝え方も変わります。しかし、どんな場所でも、どんな時代でも、私達が語る福音は変わらないのです。私達が、語る福音はひとつなのです。いいえ、ガラテヤ人への手紙では、もう一つの福音と言われておりますが、福音は決して
変わってはいけないのです。
さて、そこに、「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(ver3-4)。
イエスが御言葉を語っておられるときに、4人の男の人が、中風の人を運んで来たのです。「中風」と言いますのは、「片方が麻痺している」という言葉です。体の何処かが痺れてしまって、自分の力ではイエスのもとに行く事ができない人が、4人の友達によって運ばれてきたのです。
しかし、彼らは、やっとの思いでイエスのもとに連れて来たら、戸口まで隙間もないほど人々が押しかけていたのです。「入れて下さい」と言ったところでどうしようもない。そこで彼らは、恐らくは外階段を上って、二階、二階にも人が溢れている、三階へ行こう、三階も駄目だ。とうとう、屋根に辿り着いたのです。そして、あのへんか、このへんか、もう一回下に行って、イエスの位置を確認して、大体のイエスの位置、イエスの話しておられる位置を、割り出して、思い切って屋根に穴をあけて、恐らくは、ポロポロと屋根の木くずなどがイエスの前に落ちたでしょう。しかし、彼らは、周りの人々のことなど気にはしておられない。皆で協力して、一心不乱にイエスの前に、この病人を吊下ろしたのです。そしてイエスは、 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた」(ver5)。と、聖書は言っています。 その人たちの信仰を見て、と、イエスは言われました。
これは、まず第一に、何処かが痺れてしまって、体が動く事ができない訳ですから、今までイエスに出会ったことはない、でも、今まで人々から聞き及んでいた事柄から、イエスに出会えば、イエスならば、何とかして下さる、このように考えた、中風の男の人の信仰であることには間違いないのです。
 そして、もう一つ、この中風の人を運んで来た4人の人々の信仰なのです。自分たちのことはさておいて、ともかくも、この中風の男の人を癒してほしい、そのように考えた、4人の男の人たちの信仰なのです。
 イエスはここで、御言葉を語っておられた。そしてそれは、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(1:14-15)。福音そのものだったのです。今ここに神の国のご支配がはじまると、イエス・キリストは語って言われたのです。そして、正に彼らは、このイエスの語る御言葉を信じて、その御言葉の御力を信じて、
イエスの前に、この中風の男の人を置いた、彼らは、イエスの御言葉に飛び込んでしまったのです。そして、その信仰をイエスは称賛されたのです。
 これが信仰です。どんなに難解な、神学議論を構築できたとしても、信仰について語ったとしても、傍観していたら、意味はないとまでは言いませんが、恵みを受け取る事ができないのです。黙っていてでもいいのです。難しいことは今わからなくても、後から分かれば良いのです。イエスが語る、その御言葉の中に、今、飛び込んでしまう。その信仰が大事なのです。その信仰を見たときにイエスは、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた」(ver5)。と言われました。信仰とは、傍観することではありません。
イエスの御言葉を信じて、イエスの懐に飛び込んでしまう、そういうことなのです。
エリヤがカルメル山で、バアルという50人もの偽預言者として戦ったときことです。イスラエルの民は、真の神につくのか、偽預言者たちが信じていた、バアルの神につくのか、どっちつかずに迷っていたのです。その時にエリヤは言うのです。
 「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった」(列王記上18:21)。カルメル山で、民は、イスラエルの神につこうかな、バアルの神につこうかなと、どっちつかずに迷っていました。しかし、エリヤは、迷わなかった、450人のバアルの預言者たちを相手に、生贄に火を下らして焼き尽くすという戦いにで、彼は、信仰をもって神につき、正に御言葉の中に飛び込んで、
「献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答 
えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った」(列王記上18:36-39)。
どっちつかずのイスラエルの民とは対照的に、神の懐に飛び込んで、彼は勝利を得たのです。
傍観していたら、恵みを受け取る事ができないのです。難しいことは今わからなくても、後から分かれば良いのです。イエス・キリストが語る、その御言葉の中に、今、飛び込んでしまう、その時に恵みを受ける事ができるのです。

II.知性理性を超えた世界
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた」(ver5-6)。
 さて、イエスはここで、信仰に関心をされた訳ですが、しかし、あなたの病は癒されたと癒しの宣言はなさいませんでした。それよりも、イエスは、罪に赦しを宣言されたのです。
「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(ver6-7)。
 この律法学者と呼ばれる人々は、地方の律法学者というよりも、イエスの御言葉や行いをジャッジする、そのような権威をもった、70人議会、サンヘドリン、当時の最高議会から派遣された人々でした。罪を許す権威は、本来神にしか与えられていません。もし、イエスが神でなかったとしたら、明らかなる神への冒とく罪です。確かに彼らの考えていることは正しかったのです。律法学者たちの抱いた気持ちは一見正しいのです。
しかし、問題は、その冷たい態度です。 ですからイエスは、この律法学者たちが考えていることを見抜かれ、こう言われるのです。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(ver8-9)。
彼らにも当然、中風の人がイエスのもとに吊下ろされてきた、それを目の当たりに見たでありましょう。しかし、この律法学者たちは、この男に対する愛の心も憐みの心の一かけらもありませんでした。寧ろ目の前にいる、中風で苦しんでいる男の人ですらも、イエスを訴える口実に使おうとしているのです。いや寧ろ、何とかしてイエスを殺そうとしていたのです。愛も憐みも何もないのです。
ましてや、正論ばかりを押し通し、イエスが救い主であることを少しも考えようとはしない。自分の狭い見解の中に閉じこもって、その本質を見誤ってしまった、彼らの根本的な問題があるのです。
では何故イエスは、ここで、あなたの病は癒されたとは言わずに、あなたの罪は許されると言われたのでしょうか。罪を許す、それは神にしかできないことだからなのです。そして、その神にしかできないことが、今ここで起こっているのだから、私を通して、何故ここに、神が生きて働かれていることが分からないのですか。イエスは言われたのです。もっと突き詰めて、ここで、イエスは、私は神であると言われたのです。私は神なのですよ。あなた方は、そのことが分からないのですか。イエスは、ここで言われたのです。
結局律法学者たちは、今目の前で、ここに神が働いておられることを、認める事ができなかったのです。神を信じる事ができなかった。真の神ならば、罪を赦し、病をも癒す事ができる、そのことを信じる事ができなかったのです。彼らは神を全く信頼する事ができなかったのです。
時として、私たちも、例えば屋根を引っぺがして、イエスの前に病人を吊下ろす、人の罪が   
許される、人間的に見たら、非常識だと思えるような事柄は頭から否定して、自分の知性理性で理解できる事柄は信じるけれども、それ以外の事は全く否定して、結局は、自分の頭で信じることができることしか信じない、そして、もしかすると、私たちの知性、理性を超えて、不思議なことをなされるかもしれない、神への信頼を失ってしまっていることはないでしょうか。
しかそれはまた、常識的で、健全で、論理的に、合理的に見える事柄ばかりを信じて、実は、イエスに絶対的な信頼を置いていない、ということになりかねず、その結果、信仰的な命と力を失ってしまう、その様な事があるのと思うのです。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(ver8-9)。
私たちもまた、常識にとらわれて、今目の前で働いている神の御力に気が付かない、その様な事があるのではないでしょうか。
III.イエスはご在宅です
 こうしてイエスは、地上でご自身が罪を許す権威が与えられていることを示すために、つまりご自身が真の神であることを表すために(ver10)、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(ver11)。と言われました。すると、その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した」(ver12)。この奇跡は、多くの人々の面前で行われた奇跡でした。多くの人々が目撃者となったのです。これによって、実際にこの男の人は癒されました。それだけではなくて、公衆の面前で確かに、その罪が許されたのです。この男の人は、この罪の故に中風にかかっていたのではないのです。イエスはここで病気と罪の問題を関連付けられている訳ではないのです。あくまでも、イエスがここで問題にしたのは、神に背を向けて生きているという、
全ての人が抱えている、その根源的な罪の事を言っておられるのです。
病の癒しだけならば、イエスは簡単におできになられたでしょう。しかし、どんなに病が癒されたとしても、最後に人は必ず、何らかの病の故に死ななければならない。しかし、しかしです。その根源的な罪が許されるならば、その人はもし病で死んだとしても永遠に生きる事ができる。だからイエスは、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(ver9)。
と律法学者たちに言われたのです。
多くの人々が以前カファルナウムで行われた、悪霊に憑かれている人々から悪霊を追い出さ田事実を見て、更には、シモンとアンデレの家に行かれて、シモンのしゅうとめの熱を癒されたことを聞いて、更には、ガリラヤで、諸会堂を巡回されながら、宣教され、悪霊を追い出され、重い皮膚病の人々を癒された事実を知って、この家に押しかけてきました。しかし、その中には、御言葉を聞きに来た人々も大勢いました。そして、イエスは、悪霊の追い出しよりも、病の癒しよりも、重い皮膚病の癒しよりも、もっと大切なことがあることを示すために、この中風の男の人の病を唯癒されるだけではなくて、
「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(ver9-11)。
 まず何よりも、「罪の許しを」宣言されたのです。私達もまた、罪の許しを得るためにイエスのもとに来るときに、イエスはご在宅です。いつでも御言葉を通して語りかけて下さり、私達の罪を許して下さり、永遠の命を与えて下さるのです。
イエスこそ、私達の罪を許す真の神です。イエスを信じて罪許されて、永遠の命の恵みの中を生きて行こうではありませんか。

 

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