「クールなイエス様」
旧約聖書:エレミヤ書31:16-17
新約聖書:マルコによる福音書1:35-45
I.忙しい福音書
このマルコによる福音書は、ある意味大変忙しい福音書です。イエスの降誕物語がなく、いきなり、イエスの公の生涯から始まります。
まずは、洗礼者のヨハネが登場です。そしてその洗礼者のヨハネから、イエスが洗礼をお受けになられ、聖霊が鳩のように下られ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(ver1-11)。
その後が、荒れ野の誘惑です(ver12-13)。そして、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスのガリラヤ伝道です(ver14-15)。更には4人の漁師たちを御自分の弟子達を御自分の弟子として召されて行くのです(ver16-20)。
そして、カファルナウムの会堂で教えられて。悪霊を追い出されて(ver21-26)。イエスの評判はガリラヤ地方一帯に広まり(ver27)、アンデレの家へ行き、ペトロの姑を癒されて(ver29-31)、更には多くの病人や悪霊付きを癒していかれました(ver32-34)。
皆さん読んでお分かりのように、イエスの降誕物語がなく、いきなりイエスの公の御生涯全開です。しかも 「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(ver28)。
このアクティブさは、マルコがよく使う、副詞(エウテュス)、「すぐに」とか、「たちまち」という意味ですが、この御言葉が1章だけで、11回も使
われているのです。イエスが公の生涯へとデビューされてから、のアクティブ感、センセーショナル感が半端ない感じです。そして、このアクティブな物語の始まりは、イエスが洗礼者のヨハネから洗礼をお受けになられて、聖霊がおくだりになられてからなのです(ver10)。
ここで「天が裂ける」(ver10)という言葉が使われています。これはマルコだけです。これは、以前も申しました、「スキゾー」という言葉ですが、文字通り聖霊が天をビリビリビリと引き裂いて降りてこられたという印象です。
神が天を引き裂かれて、聖霊を下されて、イエスを一気に公の生涯の表舞台へと引っ張り出していかれるのです。
しかし、このようなドラマティックな展開とは裏腹に、イエスご自身は至ってクールです。寧ろこのようなセンセーショナルな空気から敢えて身を置いておられるようなご様子なのです。
どんなにもてはやされても、人々が集まってきても、イエスは早朝からお一人祈っておられます(ver35)。そして人々が御自分を探していることを知ると、今度は、他の町や村に移動されます(ver36-39)。イエスのことを知っていた悪霊どもにものを言わせなかったのも同じです(ver34)。
イエスは、ご自身のお考えと全く違う雰囲気で、全く違う意図でご自身のことが言い立てられていくことに、耐えられなかったのです。
ではイエスが危惧しておられた問題とは何だったのでしょうか。当時のこの地域は、地中海全域がそうであるように、大ローマ帝国の支配のもとにありました。
当時のイスラエルは、横にエジプトを抱え、更にはバビロン、アッシリヤなど、大国に翻弄されて、今度はローマ帝国と、もういい加減にしてくれと言った状態でした。ローマはユダヤに総督府を立てて、圧力をかけてきました。しかし、 このような状況の中でも、辛うじて自治権を有していたのが、ヘロデアンティパスが支配するこの地域、即ちガリラヤでした。ですから、この地
域は、革命を試みる者が後を絶たず、メシア運動の真のリーダーを人々は夢見ていました。しかし、それは、武力革命ですから、イエスのそれとは全く違うものでした。その中で、イエスが神の国は近づいたと登場してきました。この方こそ武力でローマ支配を打ち破ってくれる救い主かと人々は期待したのです。
ですから、イエスは、今迄も、そして、これからも、様々な御業を行いながらも、しかし、クールに人々とは敢えて、距離を置いて行かれたのです。
しかし一つの点では決してイエスはクールではありませんでした。
「イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(ver38)。そして悪霊を追い出されて行く。イエスの目はいつも外へ外へと向いていたのでした。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(ver38)。実際に、この外へ外への伝道が広がって、等々ガリラヤの片田舎から、エルサレムへと宣教は続いて行ったのです。
そして、これこそが教会の姿です。教会は内向きになったら、必ず衰退します。その目が外に向いていなかったら、教会は減少してしまいます。
しかし、イエスについて行くときに、近くの他の村や町といった宣教のフィールドが広がっていくのです。イエスがクールであられたのは、この宣教の為だったのです。
宣教という観点に於いては、イエスは決してクールなお方ではないのです。イエスは、この神の国の福音を伝える為に、一本筋が通っておられました。
武力革命ではないのです。神の国の福音を伝える為にイエスは敢えてクールに振舞われました。
しかし、その心は、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(ver38-39)。外に向かって福音を伝えていくものでありたいと思います。
II.よろしい清くなれ
さて、次に登場してくるのは、重い皮膚病を患っている人の癒しです(ver40-42)。
天が裂けて聖霊がお降りになられ、直ぐに様々な御業が行われて行くのですが、最後に登場するのは、重い皮膚病の人の癒しです。
原典では、重い皮膚病というのは、「ツァラト」という言葉で、現代の医学では何に当たるのかということが、よく言われることです。しかし、この病を現大医学の観点から考えるのには、無理があります。
ようは、当時の医学知識の範囲内で、理解を超えた病を十把一絡げにして、名付けた、それが「ツァラト」、「重い皮膚病」と訳された言葉でした。しかし、何れにしても、完全に当時の医学的な知識を越えていた病でした。
ですから、人々から恐れられ、社会から除け者にされ、気味悪がられていたのも当然と言えば、当然です。
しかし、またこの病気は、人に罹患する、うつると考えられていたがゆえに、社会から隔離されていた病でした。
しかし、衛生上の問題で隔離をされていたとしても、それが、社会的な差別につながって知ってしまうのが、人間の罪であり、弱さなのです。
彼は社会から除け者にされ、差別され、完治するまでは当たり前ですが、社会には戻れません。当然ですが、神に対する汚れと考えられていますから、彼は神殿礼拝にもいくことができませんでした。
一刻も早く癒されたい訳ですが、しかし、差別されていますから、医療行為も受けられないのです。そうなると仕事もありません。生活が困窮します。経済的にも追い詰められていきます。
そして、その苦しみは家族にも及びます。癒される見込みがなければ、そのような人々の集まる、強制収容所で生活するしかなく、一般の人々は決して近づくことがなく、そこは呪われた場所と見做されるのです。
これだけのものを負った人がイエスの前を訪れるのです。「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った」(ver40)。
ひざまずいて願い、という言葉に、彼の今迄の労苦が滲み出ているのです。何とか助けて欲しいという思いが溢れている言葉です。
もうここまでくれば、イエスにしかすがる事が出来ない。思いが満ち溢れているのです。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った」(ver40)。
これは、彼の敬虔な心であると共に、遠慮の思いから出てきているのです。律法からすれば、重い皮膚病の人は決して触れてはいけない人でした。
ですから、この男の人も、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った」(ver40)。とだけ言っているのです。
多くの人から蔑ろにされてきた、その多くの痛みから、最後に絞り出されてきた、彼の告白です。そしてイエスは、その彼の心を見て取って言われました。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われる
と、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(ver42)。
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた」(ver42 新改訳2017)。
「すると、たちまち」、マルコがよく使う、副詞(エウテュス)、が使われておりますが、たちまちのうちに、彼の病は消えて行ったのです。
本来律法通りであれば、決して触れてはいけない、重い皮膚病の人に、イエスは、直接に触れられた。これが、律法を凌駕されたイエスの心なのです。
人々から差別されて、社会からものけ者にされて、屈辱と絶望、そして絶望感の中を生きてきた、彼にとって、どれだけ、深い慰めが与えられたでしょうか。
ここで、一コマ一コマ進んで行く映画のように、イエスが「深く憐れみ」、「手を差し伸べ」、「さわり」そして、「いわれた」と、マルコは、その決定的な瞬間を切り取るように、イエスの愛を描き出しているのです。
もしかするとイエスにだって病がうつるかもしれない。しかし、手を伸ばして触れることによって、その病をもご自身の身に引き受けようとするイエスのお姿が、雄弁に描かれているのです。
そして、それは、後に十字架で私たちの罪をも背負って下さる、イエスの愛に繋がっていくのです。更に、イエスは言われます。「イエスはす
ぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、 「人々に証明しなさい。」(ver43-44)。
誰にも話さないようにしなさいと言ったのは、これはイエスが誤ったメシア像が人々の中に広がっていくのを警戒されていたという一面があります。
しかし、それ以上に、ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(ver43-44)。この言葉の中に、イエスの大きなまた深い愛を見て取る事が出来るのです。
当時の重い皮膚病は、単なる病だけではなくて、神の御前での霊的な汚れと考えられていたのです。
ですから、彼が、祭司に所に行って本当に自分の体をみせて、祭司から、この人は確かに癒されたというお墨付きを頂かなければ、本当の意味で、社会に復帰することはできないのです。
ですから、イエスはここで、彼の体を癒されただけではなくて、この重い皮膚病の人の人生を根底から、回復して行かれたのです。その証拠に、この重い皮膚病が癒された男の人は、今迄隠れるようにして、今迄人目を避けるようにして生きていたにもかかわらず、
「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(ver45)。
黙っていろと言われても、覆い隠す事が出来ない、喜びを、人生が根底から回復していったという喜びを、自由に、社会に出ることができるようになった。働けるようになった。人々に受け
入れてもらえるようになったという、いや今迄締め出されていた神殿にだって、礼拝に行くことができるようになったという、彼の喜びがここに表されているのです。
こうしてイエスは、神の御国の御支配がここにも現わされているのだと、重い皮膚病の人の癒しを通して、証されて、行ったのでした。
病の癒しを売り物にする宗教なら沢山あるでしょう。いやキリスト教の中でさえも、同じような奇跡を強調する教会もあるでしょうか。
しかし、イエスのそれは、それらと一線を画すものであり、そこには神御支配の現れを証しするものであると共に、
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(ver42)。
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた」(ver42 新改訳2017)。
「よろしい清くなれ」。「私の心だ清くなれ」と言って、御手を伸ばされて、律法を越えて触れられていく、イエスの愛のお姿がここにあるのです。
私達の愛するイエスは、このようなお方です。宜しい清くなれ、私の心だ清くなれと、私達一人一人の人生を根底から回復させて下さるお方なのです。