2025年09月14日「三重の恵みと祝福」

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聖句のアイコン聖書の言葉

汚れた霊に取りつかれた男をいやす

21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
多くの病人をいやす
29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章21節~34節

原稿のアイコンメッセージ

「三重の恵みと祝福」

旧約聖書:エレミヤ31:16-17
新約聖書:マルコによる福音書1:21-34

I.イエスの権威ある教え
さて、このマルコによる福音書は、イエスの誕生物語がありません。
では、前回御言葉に聴きました、ver20迄の間に何が書かれてあったのでしょうか。まず、洗礼者のヨハネの登場です。イエスはこの洗礼者のヨハネから洗礼をお受けになられて、聖霊が鳩のように、おくだりになられました。そして、荒れ野で40日、40夜誘惑をお受けになられ勝利をされました。

更には、ガリラヤ湖で、シモンとシモンの兄弟アンデレ、セベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ弟子として召されます(ver16-20)。

しかも人間を取る漁師にしようと言われた(ver17)。正に神の宣教の御業に係るようにと、彼らを弟子として召されたのです。そして、一行はカファルナウムのとある会堂に着く訳です。

今日の御言葉で、まず鍵となるのは、「驚く」という言葉です。「非常に驚いた」(ver22)。そして、それは、「驚いて」(ver27)。という言葉
でver27に繰り返されています。アリストテレスは、哲学は、「驚く」事から始まると言いました。その事象に驚くことによって、真理とは何か、追い求めていくこと。それが、哲学の始まりです。
夏目漱石は、虞美人草の中で、「人は驚く事を忘れたら、生ける屍である」と言いました。確
かに何を見ても無反応、無関心では、人生行き詰ってしまう事があるのです。

驚くとは、元々ギリシャ語で「エクプレソー」という一つの言葉です。しかし、ここでは、「非常に驚いた」と訳さざるを得ない、事柄があったのです。それは、何かと言えば、イエスの権威ある教えでした。

「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(ver22)。

これは何となく読み見過ごしてしまうような、言葉ですが、学者にとっては権威が全てです。例えば大学教授は、大学教授という権威を着て、語る訳です。

そうすると、学生たちも、あの大学の先生が言っているから、専門家の言っていることだから、あの学者の言っていることだからと、私たちもまた権威というものを無批判に受け入れてしまうのです。
例えば、テレビに出ている評論家とか、大学の先生が聖書について語っている方が、もしかすると、自分の教会の牧師が聖書を語るよりも権威があると思ってしまう。そういうこともあるかもしれません。

会堂に人が集まってきたときに、律法学者達は、律法学者としての権威を傘に語りました。自分達こそが、聖書について、最高の知識を持っているものであり、自分達は聖書の権威者だ。自分達に聞いていれば間違いがないと、彼らは正に、律法学者達の権威を傘に語ったのです。権威がなければ、学者は成り立ちません。

しかし、イエスはさらにその上を行くのです。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(ver22)。律法学者は、様々なラ
ビの言葉を引用して、自分の学説に権威付けして語りました。しかし、イエスは、何も、誰の言葉も引用することなく、権威をもって語ったのです。

これは、律法学者達にとっては、面目丸つぶれです。そしてこれは、この後もずっと続いて、最後には怒りに変わり、自己保身の為にイエスを十字架に付けて殺してしまいます。

特に、この律法学者の中心は、ファリサイ人達でしたが、彼らは、このような出来事を契機に、イエスを殺す計画をたてていくのです(3:6)。

ではイエスが権威をもってお語りになられた、その教えの中心は、何処にあったのでしょうか。それは、それは律法ではありません。それは神の御国の福音です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(ver15)。

神の御国が、私の到来によって始まった。神の御支配が、この世界に始まったのだ。だから、あなたがたは、心の向きを変えるのだ。私を信じるのだ。イエスは権威をもって語られたのです。

 心の向きを変える。これは、チャレンジです。だって、自分中心に生きてきた、心の世界を神に明け渡していくのです。今迄自分の人生は、自分が主人公だと思って生きていたのですが、これからは、イエスと共に歩んで行く。神と共に歩んで行く。

私は私の人生自分一人で立つ事が出来ると思っていたけども、神が共にいて下さるのでなければ、私達は人生を歩む事が出来ない。心に受け入れていくのです。
神に背を向け、自分の影ばかりを見て生きていた、人生を、光である神に方向転換していく、それが、イエスの権威に従うということです。この神の御支配の中に生きて、心の向きを変えて、イエスを信じて、永遠の命への道を歩み始めているでしょうか。

II.噂が広まった
次に、イエスが為さるのは、悪霊の追い出しです(ver23-24)。神の聖者だ。この言葉を誰が語っているのかと言えば、悪霊が語っているのです。悪霊がイエスを神の聖者だという。明らかなる自己矛盾です。この奇跡がなされたカファルナウムは、不信仰な誇り高き町です。

「また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがい ない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(マタイ11:23-24)。

汚れた霊が憑いている人がいて、他の人と一緒に神を礼拝していたとしても、全く不一致を感ずることがない。更には、彼がこの霊的な苦しみから解放されることを、自から望んでいないことに、何とも言えぬちぐはぐさを感じてしまうのです。

そこでイエスは、言われました。「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(ver25-26)。この「黙れ」という言葉は、口輪をはめるという意味です。非常に強い言い方です。権威をもった言い方です。英語でいうと、「シャラップ!!」です。すると、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(ver25-26)。
イエスは悪霊を黙れ!!と言う一言葉で追い出されて行かれたのです。「人々は皆驚いて、 
論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(ver27-28)。
「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」((Iヨハネ3:8)。
こうしてイエスは悪霊を追い出されることによって、神の国の訪れを示されたのです。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ6:12)。

私達は文明社会に生きていますから、目に見える事柄が全てです。しかし、聖書は、私達に、この世界に、この国に、そして人間関係の背後で跋扈する悪の霊との戦いであると聖書は語るのです。

ですから、霊的な世界を意識することは大切なことです。しかし、又ではイエスは、度々悪霊の追い出しをされていたのかというと、どちらかと言えば抑制気味です。

基本的には、その人の信仰を確認してからではないと悪霊の追い出しをなさらないのです(9:24)。それは、イエスが人々の心をご存知だったからなのです。人々は奇跡をみて驚きこそすれ、それがすぐに信仰へと結びつかないことをご存知だったのです。

実際に評判は隅々にまで広まるのです。これは、噂が広まるという言葉です。しかし、噂は、噂以上でも。噂以下でもないのです。それ以上の深まりはないのです。
だからイエスは、積極的に悪霊を追い出されるということをなさらなかったのです。更には悪霊にものを言うのをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っておられたからである(ver34)。イエスは奇跡を見ても人々の心は、それを噂する程度でしかない。その現実を知っておられたのです。
イエスが悪霊を追い出されることによって、神の国の訪れを証ししても、人々はイエスが救い主だという事に気が付かなったのです。

それは日本でも同じです。日本でも福音をどんなに語っても、中々それが広まらない。少し前ですが、NHKの世論調査で、あなたは信仰を持つなら何が良いですかと言う問いに、日本人の40%以上の人がキリスト教と答えたそうです。

しかし、多くの人々は神に背を向けて生きているのです。
私達はどうでしょうか。評判が広まった。噂が広まった。そこで止まってしまうような信仰でしょうか。

それとも、イエスのこの霊的な権威を信じて、更には神の国の訪れを期待していく。その様な歩みでしょうか。願わくは、噂で止まってしまうのではない。イエスの奇跡を観たときに、その権威を信じて、神の御国の到来を待ち望む、そのような弓をしてまいりたいと思います。

III.三重の恵み
最後が、ペトロの姑の癒しと様々な悪霊憑きや病人の癒しです(ver29-31)。

カファルナウムの会堂を出るとイエスは次に、ペトロの姑が寝ている家に向かいます。ペトロは妻帯者でした。彼の義理のお母さんが熱で臥せっていることを人々から聞き、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(ver29-31)。
熱は去り、これは完了形ですから、イエスが手をとって、ペトロの姑を起こしたその瞬間に、彼女は癒されたという事が分かります。更には、一同をもてなした。これは、未完了形ですから、これからずっと、イエスに仕え続けて行ったという事が分かる訳です。

正にイエスは、打ち沈んでいた、このペトロの姑の人生そのものをその御手を伸ばすことによって、立ちあがらせていかせたのです。唯の病の癒しではありません。ペトロの姑の人生そのものを立ち上がらせていったのです。そして、この噂はたちまちの内に広まっていくのです。

そして夕方になると人々は次々と悪霊に憑かれている人や病人をイエスのもとに連れて来たのでした(ver32-34)。

夕方になって日が沈むと、これは安息日が終わって、つまり礼拝が終わって、人々がどっと動き出したという事を意味しています。

そして、マルコは、街の人々の反応を語ることによって、イエスの奇跡を纏めているのです。これこそが、正にイエスの奇跡の核心、中心です。イエスの初期の働きは、「神の御国の福音の宣教」、「悪霊の追い出し」、そして、「病の癒し」が中心でした。三重の恵み、神の三重の祝福を表しているのです。

そこには権威をもって、神の御国の訪れを宣言されるイエスの姿と、愛をもって、民衆にお仕えになられるイエスの姿があったのでした。
イエスはこうして、神の国の訪れを、悪霊の追い出しや、病の癒しを通して、目に見える形で人々に明らかにして行ったのです。

こうしてイエスは、神の御国の訪れ、神の愛を目に見える形で表して行かれたのでした。そして、マルコによる福音書は、神の全領域におけ 
る、御国の訪れを語っているのです。イエスの御手が及んでいない領域はありません。神の御国の福音は心の世界だけではないのです。

先程私達は、エレミヤ書の御言葉を読みました。
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」(エレミヤ31:16-17)。

私達の人生現実は戦いもあります。厳しい所を通らされるところもあります。

しかし、エレミヤがバビロン捕囚からの解放で語ったように、必ず回復していく。恵まれていくのです。

神の御国の福音、人々に永遠の命を与えるイエスの権威、そして、霊的な世界に及ぶイエスの権威、更には病をも癒す、イエスの三重の祝福と恵みの中を歩んで行くものでありたいと思います。

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