「福音の初め」
旧約聖書:申命記6:4-5
新約聖書:マルコによる福音書1:1-20
I. ライフイズビュ-ティフル
さて、今日から暫くマルコによる福音書の御言葉に聴いて参りたいと思います。先ずはざっくりとver20迄の御言葉に聴いて参りたいと思います。今日の御言葉は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」です(ver1)。
この、御言葉は、そのまま訳せば、「神の子イエスについての福音の初め」(ver1)。となります。「福音」とは何でしょうか。「福音」とは、元々戦いに勝利したことを、自国に急いで伝える使者に対する報酬がその語源でした。
そして、後には、その戦いに勝ったという、良き知らせ自体を福音と呼ぶようになり、そこから派生して喜ばしい知らせ全体を福音と呼ぶようになりました。そして、それが、御子イエスについて語られる時に用いられるようになったのです。ですから、聖書的に言えば、イエスご自身が「福音」そのものです。
イエスがこの地上に来て下さった、イエスの訪れが「福音」そのものなのです。「神の子イエスの福音の初め」(ver1)。福音とは、私達の罪を贖う為にこの地に来て下さった御子イエスそのものです。
さて、マルコはイエスの物語を、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(ver1)。と書き出し、イエスの誕生の様子も具体的には記さず、いきなりイエスの公生涯を語りだします。
ここでは、救い主が来られる前の道備えをする「使者」(ver2)、洗礼者のヨハネのことが述べら
れています。彼は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていました(ver4)。彼は罪が赦されるための悔い改めの洗礼を」を説いたのでした(ver4)。そして、イエスは、この洗礼者のヨハネから洗礼をお受けになられました。
しかし、この洗礼者のヨハネも、当時この一帯を治めていたヘロデアンティパスによって殺されてしまいます。当時のユダヤ人達はローマ帝国の圧制に苦しみ、権力に、おもねる方が生活が楽になり、正直者が返って馬鹿を見るような状況がまかり通っていました。
祈りすれ度手応えなく、人々の目から見れば、神は長い間沈黙しているように思われました。必死になって、毎日正直に生きる事が馬鹿らしく思えるような状況だったのです。これが、マルコ福音書の一つの歴史的な背景なのです。私達も自分達の誠実さが通じず、悪者が要領よく生きているのを見るときに、「神がおられるのにどうして、このような矛盾があるのだろうと!」と訴えたくなるのです。
しかし、聖書は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)。と語ります。
これをマルコによる福音書では、第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』(マルコ12:29-30)。
マルコによるならば、どんなことがあったとしても、この主と一緒に心を尽くして歩むこと。それが恵みであり、祝福だと語るのです。神は、主を愛し、従う者には、命の道を開いて下さるお方です。
数年前、ソーシャルディスタンスという言葉が叫ばれました。社会的距離という言葉です。
しかし、当時人間が取らなければならなかったのは物理的距離であって、社会的距離ではなかったのです。教会は当時集まる事が出来な
くなって、この社会的な距離を取らざるを得なくなってしまって、どの教会も教会形成に本当に苦労しました。
人は社会的な距離を取ると死にます。それは人間を孤独にするからです。ですから、当時ライブでしか礼拝ができない中で、教会の一体性を守るために、教会の命を守るためにどれだけ私達は、苦労したでしょうか。
教会での礼拝が徐々に再開してもお見えになる事が出来なかった人々の訪問にも私は、心を配りました。聖書によれば、距離を取るという事は、人間の罪と悲惨が産んだことなのです。
人間はもともと神様と顔と顔を合わせるようにして創造されました。男性と女性が造られた時も、ぴったりと一体になるように創られたのです。それが人間が罪を犯すことによって、神との距離ができます。男性と女性との間に、夫と妻との間に距離が生まれるのです。そして家族がバラバラになって分裂をしていく。だからソーシャルディスタンスによって、社会的な距離を取ったときに、分裂をしてしまった教会も実際に見られたのです。
しかし、その距離を乗り越えて、神様と人間との距離を乗り越えて来られたのが、私達の主イエス・キリストなのです。
距離というものを越えていく、人間同士の憎み争い、人種同士の争い、そういうものを乗り越えていく、平和の福音を伝えて下さったのが主イエス・キリストなのです。
こんな私達と一緒にいて下さる。ぴったりと一緒にいて下さる。それが、イエスが与えて下さった救いなのです。
人間の最も深い魂の病を癒すために、私達は、神の御言葉という最高の薬を差し上げる事が出来る。共に祈る事が出来る。それが教会なのです。
ライフイズビューティフルという映画昔ありました。第二次世界大戦中、ナチスによるホロコースト、恐怖のどん底に突き落とされましたユダヤ人の親子のお話です。
恐怖の真っただ中にあって、しかし、お父さんは、どんな時でも、ニコニコと子供に接する。愛と希望とユーモアをもって子供に接するのです。どういう状況の中にあっても、人生というのは生きるに値するほど美しいのだよ。という事をお父さんは子供に教えようとしたのです。
私達クリスチャンはこのような真理を語るべきではないでしょうか。どんなことがあったとしても、矛盾と見えるようなことがあったとしても、この主と一緒に歩むこと。ぴったりと決して離れることなく、ディスタンスを取ることなく、主と共に歩むこと。これが人生の祝福の秘訣であると語るのです。神は、主を愛し、従う者には、命の道を開いて下さるお方です。
II.時が満ち、神の国は近くなった
マルコによる福音書は、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(ver8)。と言いました。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(ver7)。と言って憚らなかった、洗礼者のヨハネから、イエスは洗礼をお受けになられたのです。
洗礼は、基本的に、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」です(ver4)。当然イエスに罪はありませんから、洗礼者のヨハネからイエスが洗礼を受けること自体がおかしな話で、洗礼者のヨハネも、イエスにそれを思い止まらせようとしています。イエスはこう言われるのです。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3:15)。
勿論イエスの洗礼は、悔い改めの洗礼ではありません。宣教のスタートとしての洗礼です。洗礼を受けるために、ご自分の被造物の前に、膝を屈められる、イエスの謙遜を表す洗礼です。
ご自分は、罪を悔い改める必要は全くありません。しかし、罪の世界に生きる者と共に生きて、彼らを罪の世から救い出すために、イエスは敢えて、洗礼をお受けになられました。そして、イエスが洗礼をお受けになられた時に、 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(ver10)。
「天が裂ける」(ver10)という言葉、これは、「スキゾー」という言葉ですが、文字通り聖霊が天をビリビリビリと引き裂いて降りてこられたという印象です。神が天を引き裂かれて、聖霊を下されて、イエスを一気に公の生涯の表舞台へと引っ張り出していかれるのです。
そして、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえ」ました(ver11)。そして、イエスは、霊によって荒れ野に導かれるのです(ver12)。そして、40日もの間、サタンから誘惑を受けられたのでした(ver13)。
それは、私達も同じです。イエスを信じて、平安が与えられます。しかし、神は敢えて、その後荒れ野に私達を導かれることがあるのです。
私達の信仰生活は、現実の世界での戦いです。教会から、この世に一週間の間遣わされて、この世で、クリスチャンとして、信仰をもって戦っていくのです。神が与えて下さった、この世界に於ける、栄光の舞台に於いて、主を証して、主と共に、この地を治めるために、この世の荒れ野に遣わされていくのです。
そして、イエスは宣教の働きを始められます。そのメッセージの中心は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(ver15)でした。
人々は、喜びました。彼等は、ローマ帝国の圧制で苦しんでいました。だからこそ、イエスが皇帝の代わりに、この地を治め、神ご自身が直接治めて下さる、不条理も苦しみもない世界が、イエスの御手によって、実現されることを待ち望んでいたのでした。
ところがです。イエスは無力にも十字架で殺されてしまったのです。実はマルコの福音書は、この世界の救い主の到来を期待した人々の、その疑問に答えるために記されているのです。イエスが「神の国は近づいた」と言われたのは、「神の国が、すでに目の前に来ている」ということです。多くの人々は、イエスの宣教から2,000年も経つのに、この世界は何も変わってはいないと嘆きます。しかしイエスは、何よりも、人々が持つ神の国のイメージを変えらました。
マルコの福音書の1章から8章までは、イエスが次々と、苦しみ悩んでいる人々の必要に答え、ご自身の偉大な力を現して行く様子が描かれています。
盲人の目が開かれ、耳の不自由な方が聞こえるようになり、足の悪い方が飛び跳ね、悪霊につかれた人々が解放されていきました。そして、これらこそが、旧約にある神の国の預言が成就した、しるしそのものでした。
目の前にある、ローマ帝国の支配の現実が変わらなくても、イエスは、盲人の目を開き、耳の不自由な方を聞こえるようにし、足の悪い方を癒され、悪霊につかれた人々を解放することによって、人々を神の国に招き入れたのです。私達は現実が何も変わらなかったとしても、その現実の中に救い主がおられることを覚えていきたいと思います。
III.命の道、それは勝利への逆転
さて、今日の御言葉は、「神の子イエスの福音の初め」(ver1)。として、イエスのために、道備えをする、洗礼者ヨハネの記事から始まっているのです(ver2-3)。洗礼者ヨハネは、イエスの道を備える者でした。イエスが来られる道を整えるために彼は現われました。聖書は、洗礼者ヨハネのことを、「荒れ野で叫ぶ者の声」(ver2)。と言っています。
「声」とは何でしょうか。「声」とは、メッセージを伝える媒介です。そして、伝えるべきメッセージを伝えると消えていくのです。洗礼者ヨハ
ネは、イエスを「声」として伝え、イエスを伝えたら、自分は権力者の刃の露と消えていきました。
時の権力者であった、ヘロデ・アンティパスとその妻、ヘロデヤ。彼らは重婚の罪を犯し、洗礼者のヨハネはその罪を叱責していました。
そして酒の席です。「何か欲しいものはないか?何でもやろう」という、ヘロデ・アンティパスが自分の子供サロメに宴で問うた時に、ヘロデヤは、自分の娘サロメに入れ知恵して、「洗礼者ヨハネの首を下さい」と言わせてしまうのです。
そして、部下達の手前、引くに引けなくなってしまった、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネの首を刎ねさせます。
洗礼者ヨハネは、正に酒宴の席で首を刎ねられました。これが、命懸けで、イエスに至る命の道を備えをして、イエスをして、「預言者以上の方」と言わしめた人の最後でした。
また、このマルコ福音書は9章からは、イエスが十字架に向かって歩み出し、弟子達からばかりか、神からも見捨てられる気持ちを味わったという様子が描かれています。十字架は目に見える形では、当時の究極刑であり、失敗と孤独のしるしです。
しかし、目に見える悲惨な現実とは、全く反対に、神の国はそこに存在して、十字架こそがサタンと死の力への勝利が現される場でした。
だからこそ、イエスが十字架で息を引きとられたとき、それを見ていた百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」(15:39)と告白せざるを得なかったのです。
イエスは、この十字架で命を捨てることによって、私達に命の道を示して下さったのです。いいえ、イエスこそが、わたしが道であり、真理
であり、命である。誰も私を通らずして、父の御許に行くことはできない。と言われた、命の道に他ならなかったのです。
洗礼者ヨハネの死をヨハネの弟子達は、その余りに惨い死に方を嘆き悲しみました。イエスの弟子達もまたイエスの十字架の死に接したとき、意気消沈して、嘆き悲しみました。
しかし、洗礼者ヨハネが備えた命の道は、失敗と孤独のしるしである、イエスの十字架の死によって、ハッキリと私達に示されたのです。
人生には、意気消沈して、嘆き悲しむような事があります。しかし、神はそこから、不思議な事をして下さるお方です。命の道に至る、勝利への逆転をして下さるお方なのです。
聖書で今でも人気がある人は、ダビデだと言われています。日本の歴史の中では、最も人気のある人は坂本龍馬だと言われています。
彼の周りには、沢山のクリスチャンがいました。彼には子供がおりませんでしたが、彼は養子を迎え、その子もまたクリスチャンになりました。
結局坂本龍馬は、ご存知のように暗殺されてしまう訳です。諸説ありますが、新選組の今井信夫が俺が龍馬を切ったと名乗り出えるのです。ところが、何とあの龍馬の息子が、父親の龍馬の法事に、この今井信夫を呼ぶのです。
現代とは違います。恨みつらみ、親の仇を取るような時代です。そんなときに、法事に殺人者を呼ぶかって、例えば自分の子供が交通事故か何かで死んでしまったときに、その犯人を葬式に呼びますか。しかし、龍馬の息子は、クリスチャンですから、何とこの今井信郎を法事に呼んだのです。
今の時代ではないのです。あり得ないことです。今井信郎も武士ですから、行ったら殺される。そのことを重々承知の上で彼も又法事に出かけるのです。
今井信郎。病で娘をなくし、武士なのに職を失い、お茶売りで生計を立てていたのです。そんな失意の中で、日本で最初のプロテスタント教会の横浜海岸教会に飛び込んで、聖書のメッセージに、心打たれて、クリスチャンになっていたのです。
龍馬の息子と今井信郎。法事で初めて会うのです。龍馬の息子が言うのです。恨みつらみ、そんなこといつまで言っていても仕方がない。
過去は消せないけど、この国のこれからの為に、この国の将来の為に未来に向かって、力を合わせましょう。彼らは、この法事の席上で、信じられないような和解をしたのです。私達はいつまでも、過去の悲しみや涙に、未来まで支配させてはいけないのです。
現実はお花畑ですか?イイエ厳しいものが沢山あります。人生には、意気消沈して、嘆き悲しむような事があります。しかし、神様はそこから、不思議な事をして下さるお方です。命の道に至る、勝利への逆転をして下さるお方なのです。
それこそが、福音の初め、イエス・キリストの十字架に他ならないのです。