人を分け隔てしないで
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- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 1章26節~2章4節
26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
人を分け隔てしてはならない
1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 1章26節~2章4節
「人を分け隔てしないで」
旧約聖書:箴言15:1-2
新約聖書:ヤコブ1:26-2:4
I. 清く汚れのない宗教
さて、今日の御言葉の中心点は、御言葉を実践するということにあります。そして、それが、信心深い生き方に繋がっていくのです。
そして、その信心深い生き方は、具体的には、まず舌を制すること、そして、社会的な弱者に配慮をするということに表されているのです(ver26-27)。
私もどれだけ言葉で失敗して来たでしょうか。
「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ver26-27)。
ここを新改訳では 「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです」(ver26-27 新改訳)。
「宗教」という言葉を聞くと、私たちはアレルギー反応があって、キリスト教は宗教ではない、真理だと思ってしまいますから、この場合、「信心」という言葉の方が良い訳だと思います。マスコミでクリスチャンが紹介される時必ず、信心深いクリスチャンという形容詞がつきますが、信心深い、というのは、今日の私達の信仰生活に当てはめてみれば、毎週礼拝に出席をしている。礼拝を献げている。奉仕もしている。献金もしているということになるでしょう。
しかし、それでも、舌のコントロ-ルが出来なかったら、そのような人の信心は無意味だと聖書は語ります。
舌のコントロールは、永遠の課題です。ヤコブは、既に読者に対して、「聞くには早く、語るに遅く」(ver19)。と語ってまいりました。
3章で改めて、この問題について、かなり長いスペースを使って、語っていきます。そして、4:11-12でもう一度、この問題に戻ってくるのです。
ですから、口から出て来る言葉、これはいかに大きな問題か分かると思います。
言葉の三原則は、分かりやすく、簡潔に、そして、印象深くだそうですが、更には、言葉を発する前に、それは真実か、次に、それは、人の徳を建てるか、そして、その言葉は公平かよく考えてから、言葉を発するのがよいとも言われます。
一度失ったら二度と取り返しのつかない三つのものが三つあると言われます。それは、第一に、失ったチャンス。第二が、弓を離れた矢。そして第三番目。「口から出た言葉」です。
やはり恐ろしいのは、口から出た言葉です。慰めと励ましの言葉は、人に勇気と幸福を与えます。しかし、否定の言葉は、一人の人の名誉と信頼を傷つけて、信頼関係を簡単に崩壊させていくのです。
愛の言葉は、人を癒します。愛の言葉は、傷を癒すのです。
しかし、不用意な言葉は、争いを作りだします。人は同じ口で、神を賛美し、人を呪うのです。
「あの人は良い人だけれども、機転が利かないというのと、「あの人は、機転が利かないけれども良い人である」。と言うのでは、同じことを表現していても、聞く側でその人に対するイメージが大きく変わってきます。
ですから話し言葉の最後は相手を否定する言葉で終わるのではなく、必ず肯定する言葉で終わると良いとよく言われるのです。
ですから、3章でもこう語るのです。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ヤコブ3:2)。
もし、私達が口から出る言葉を完全にコントロールする事が出来たら、私たちは全身を制御できる完全な人であると聖書は語ります。私達の語ることばによって、人間関係は変わっていくのです。
昔から日本では、「沈黙は金」、「口は災いの元」等と言って、口や言葉を慎むことは美徳とされてきました。言葉は人を傷つける道具ともなれば、その反面、その心遣いによっては、多くの人に慰めと希望と安らぎを与える媒体ともなるのです。
私たちは日頃からどのような言葉を使っているでしょうか。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない心の思いが御前に置かれますように」(詩篇19:15)。
「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し/愚か者の口は無知を注ぎ出す」(箴言15:1-2)。
私達の口から出る言葉を改めて、主の御前に点検してまいりたいと思います。
もう一つが、社会的な弱者と呼ばれる人々に対する配慮です(ver27)。この御言葉の背後にあるのが、十戒です。
十戒は神がイスラエルの民に与えられた、十の戒め。第一戒めから第三戒めが、神と人との関係における戒め。第五戒めから十戒までが人間関係における戒め、そして、 第四戒が、神との関係と人との関係を橋渡しする、安息日律法です。
そして、この律法は、唯、イスラエルの民だけに語られたものではなくて、出エジプト記21章や、22章を読んで行くと、それは、奴隷や孤児、更にはやもめ、そして在留異国人といった社会的な弱者に対して、語られたものであったのです。
神は、このような配慮を、イスラエルの民に、奴隷や孤児、更にはやもめ、そして在留異国人といった社会的な弱者に対してもなしていくように語られているのです。
神は、社会的に、苦しめられている人、虐げられている人、弱者である人々の神でもあられるのです。
これは社会的な福音と呼ばれるものではありません。私達の隣にいるのだけれども、その存在になかなか気が付かない、社会的困難な生活を強いられている人々に、キリスト教信仰に基づいて、愛を実践することは、クリスチャンのなすべき、御言葉の実践なのです。
II.人を分け隔てしないで
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(ver1)。
「私の兄弟たち」、ヤコブは親しみを込めて、このように語りかけるのです。
しかし、ヤコブがこのように語りけるときは、必ず命令形が伴うのです。「あなたがイエスをキリストを信じる信仰を持っているなら、人を分け隔てしてはなりません。」これが、ヤコブが語った命令です。
これは、あなたがたが、主イエスを信じる信仰を持っているなら人を分け隔てしてはなりませんと訳する事が出来る御言葉です。
昨今メリカで、そして日本で、「~ファースト」というキャッチ―な言葉で支持を集めているような、人々がいます。
しかし、ヤコブは、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(ver1)。と語ります。何故でしょう。
外見における差別は、国籍、人種、階級、性別、宗教の壁を打ち破るために来られた方の本質に反するからなのです。
主は敵意という隔ての壁取り壊すために来て下さいました(エフェソ2:14)。と聖書は語るからです。
「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11)。
そしてヤコブは彼らにこの手紙の読者に当時実際にあったのでしょう。ひとつの大きな事例を語るのです。
「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(ver1-4)。
身なりの良い人には、席を進め、身なりが良くない人には、床に座れと言うのです。
これは実は、どの教会、どの会堂にも起こりうることです。偉い人、お金のありそうな人、所謂金持。地位の高そうな人、そして、逆に粗末な服を着た人。教会には、色々な人が訪れるのです。いや色々な人が訪れるからこその教会なのです。
しかし、もし私達が人によって、その受け入れ方を仮に変えてしまったとするならば、今日の御言葉の文脈でいえば、「そのような人の信心は無意味です」と、聖書は語るのです。
石破さんは、クリスチャン宰相ですが、いつも日本キリスト教団の東京港区にある、ある教会の礼拝に出席されているそうです。何時も後ろの席の端の方で、静かに座り、祈り、聖書に耳を傾けているそうです。そして、その教会の方々も彼を特別扱いするのではなくて、普通に迎えているそうです。
以前ある方の御葬儀を街の式場で執り行ったときに、その召された方だけがクリスチャンだったのですが、ご遺族の方の好意で、式場の最
前列に、教会員の方々の席を用意して下さったのです。しかし、そのワンブロック後ろに用意されたのが、市長さんの為の席だったのです。
さすがに市長の前に自分たちがいるのはまずいだろう、自分達が後ろに下がった方が良いのではないか。
教会員の皆さんギリギリまで考えまして、皆で市長席の後ろに下がろうとしたところで、市長さんが来られて、私が後ろで結構です。ということで、教会員の方々が最前列と二列目、三列目で、ご葬儀に出席され、市長さんはその後ろということになりました。やはり私達は、このように偉い人は上座へと考えてしまう訳です。
実際には、牧師が有名人と一緒に写真を撮って、それを、SNSにアップして、うちの教会は、こんな有名人が来てくれる教会ですとか、国会朝祷会などで、石破さんと写真を撮って、アップしている牧師は沢山いるのです。
貧富の差、それは、この手紙で繰り返し、取り扱われてまいります。教会の中でも、それは現実的にはあると思います。更には賜物の違いもあるでしょう。
しかし、そのような区別はあったとしても、差別だけは決してあってはならないのです。イエスは、富んでいる人の為にも、一般的に人々が偉いと思えるような人の為にも、そして、貧しい人の為にも死んでくださったのです。
イエスを信じて救われて行く、クリスチャン達の間で、基本的には、信仰以外の所で、決して判断する材料があってはならないのです。
「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(ver1-4)。
どうかこの様な差別的な考えに陥るのではなくて、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)。
差別から解放された、クリスチャンライフを送って行こうではありませんか。
ある本で読みました。外国の話です。一人の説教者が裕福な大教会で説教をするように招かれました。主題は、「心から人を愛する教会」でした。説教の一週間前、この説教者はわざと古ぼけた服を着て、無精髭を生やして、その教会の礼拝に出席したのでした。
ところが、彼は案内の人に見向きもされずに、自分で席を見つけなければなりませんでした。しかも、週報も渡されずに、礼拝後に教会員と交わりをしようと思いましたが、誰からも相手にされずにそっと外に出ていかなければなりませんでした。
翌週の日曜日、彼は講師として、牧師を初め教会員に温かく歓迎されました。説教を始めたときに、彼は、先週の日曜日、古びた服装の人を会衆の中に見かけたか、人々に聞きました。
多くの人は、見知らぬ男がいたことを思い出しました。彼は講壇から言いました。「実は、あれは私でした。」と。会衆は暫く水を打ったように静まり返ってしまいました。
牧師として、いつも思い出す逸話です。私達の教会は、どうでしょうか。キリストは私達の親しみ深い態度を通して、人々を招いておられるのです。
