2025年08月24日「私を映し出す鏡」

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私を映し出す鏡

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ヤコブの手紙 1章21節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 1章21節~25節

原稿のアイコンメッセージ

「私を映し出す鏡」

旧約聖書:アモス書8:11-12
新約聖書:ヤコブ1:21-25

I.神の呼びかけに応えて
 さて、ヤコブは人の性を知り尽くした人でした。人の罪性、人の弱さです。試練に遭えば倒れそうになる。そしてどうして神は私をこんな気に合わせるのかと神を疑うのです。

富んでいれば、高慢になり、貧しい人を受け入れようとはしない。更には試練とは裏返しの誘惑に陥っていく。
そして、人の話を聞くよりも早く、自分自身の意見を述べていく。更には、これから御言葉に聴きますが、人を分け隔てする。人を差別する。そして、ヤコブが実に多くのページを割いて、警鐘を鳴らしていく、制御不能です。正に制御不能の言葉の問題、唇の問題、舌の問題です。

クリスチャンでありながら、現実的には、これ等をなかなかやめる事が出来ない。だからあのパウロも言うのです。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを 
行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:15-17)。人は、存在の悲しみの中を生きているのです
そしてヤコブは、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2:26)。と語り、真の信仰に立つ為に先ず彼が、強調したことは、御言葉に聴くという事でした。

クリスチャンにとって、御言葉に聴くことによって始まり、御言葉に聴き続け、そして、御言葉に聴くとによって、人生を結んでいくのです。

先週の復習です。前回もお話をしました。ヘンリナウエン。彼はカトリックの司祭でした。イエール大学やハーバード大学で実践神学を教え、将来を本当に嘱望されていた人でした。

しかし、思想家ジョンバニエの影響を受けて、正に神の御言葉に聴き、神の御前に静まることを改めて学び、何とカナダトロントにあるラルシュ共同体という、知的ハンディを持つ人々のグループホームで、祈りと神 
の御前に静まるコミュニティーを形成するに行った人でした。正に小さき者達と共に生きることを生涯に渡り実践した人でした。
 
私たちプロテスタントは、何かを反省するとなると、「例えば、伝道していない。奉仕をしていない。あれをやっていない、これもしていない。」

そこに、行きついてしまうのですが、「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ver21)。ヤコブは語りました。御言葉に聴く。これが、クリスチャンにとって全てです。

御言葉の戸が開けると光を放ち弁えのない者に、悟りを与える(詩編119:130)と聖書は言っています。
神の御言葉に聴く、これが、クリスチャンの全てです。クリスチャンにとって、大切なことは、神 
の御前に静まるという事です。そしてヤコブは、そこから一歩進んで、今日の御言葉で唯御言葉に聴くだけではなくて、御言葉を行う人になりなさいと言っています(ver22)。

 まずもって、御言葉に聴くことは、何にもまして大切なことです。それは、忙しく立ち働いているマルタを尻目に、主の膝元で、御言葉に聞き入っていた、マリアの話からも良く分かることです(ルカ10:41-42)。

今の教会はどうでしょうか。御言葉に聴くことの飢饉に晒されてはいないでしょうか。現代は、福音派ですらも、聖書が神の誤りのない言葉であるという事を否定している先生もいるのです。

更には、ともすれば、唯忙しく動き回ってはいる。しかし、御言葉に聴くことが後回しになっている。そんなことはないでしょうか。勿論、御言葉に聴くことの重要性は分かってはいます。しかし、それが目的化してしまって、聴く、御言葉に聴くだけで満足をしているのです。

勿論、ヤコブは決して、御言葉に聴くということを疎かにはしていません。先ずその重要性をver21で語ってから、今日の御言葉、「聴くだけで終わる者になってはいけません」(ver22)。と言っているのです。

聴くだけで終わるとはどういうことでしょうか。ここでは、ヤコブが聴くだけの人をどのように言っているのか、学ぶ必要があります。

第一に、御言葉に聴くだけの人のことを「自分を欺いて、聴くだけで終わる者になってはいけません」(ver22)。と言っていることは大切なことです。

聴くだけの人の特徴は、「自分を欺く」ということです。これは勘定を誤魔化すという意味です。お釣りを誤魔化すのです。売り上げを誤魔化すのです。自分を高く見積もるのです。今日の御言葉は、他の人には当てはまる。しかし、自分には当てはまらないと、自分を高く見積もるのです。私のために語られた御言葉ではないと思って、実行に移さないのです。
 
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)。
これは、パウロの言葉ですが、彼は反対に、御言葉に生きた人でした。彼は、御言葉によって、イエスご自身が私の内に生きておられるのだと、言って憚らなかったのです。
 
 そしてヤコブは、御言葉を行わない人を、自分の素顔を鏡に映しはするのだけれども、唯一瞥して、立ち去ってしまう人に例えているのです(ver23-24)。ヤコブは、ここで、御言葉を鏡に例えています。鏡が私達一人一人の顔を映し出していくように、御言葉はまさに、鏡のように、私達の心を映し出していきます。

神を知らずに歩んできた、私達一人一人の心が、如何に汚れているのか、また日々の私達の魂の姿がどのようなものであるのか、御言葉は、私達の顔を鏡が映し出すように、私達の心を、その魂を明らかにしていくのです。

ですから、それを一瞥して、立ち去ってしまう人というのは、突き詰めると、今日の御言葉は、私の為ではないよと、自分自身の本当の存在を忘れて、御言葉を否定する人のことなのです。

ですから、御言葉を実行する人というのは、この真逆です。鏡を通して、自分の顔をじっくりと眺めて、自分自身の存在を確認する人のように、御言葉という鏡を通して、神の御前に悔い改めて、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。と言われているように、神に喜ばれることを選び取っていく、そんな人生を送る人、それこそが、御言葉を実行する人なのです。
 
以前も申しましたけれども、ハドソンテイラー三世の集会で、私は、私は誰を遣わそう、誰が私のために行くだろうか。私がここにおります、私を遣わして下さいと言う意イザヤ書の御言葉に触れて、牧師になる決心をして、迷いはありましたけれども、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(フィリピ2:13 口語訳)。この御言葉が与えられて、神の召しを確信しました。
そして、時をほぼ同じくして、神は別の御言葉で当時の私の霊性を示して下さいました。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。~以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり~生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフェソ2:1-4)。
この御言葉によってその時の自分自身の霊的な貧しさを私の霊的な状態を神は明らかにして下さったのです。

 丁度、これと同じように、神の御言葉は神から離れて歩んでいた人に、自分が何者であるかを気が付かせて、神の下に立ち返るように、呼びかけるのです。
 しかし、本来であれば、その呼びかけに答えて、私達の側で行動を起こして当たり前なのですが、「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」(ver24)。そんな私たちに、神は私達一人一人に、御自身に立ち返るようにと御言葉によって語りかけて下さるお方です。

 今もあなたに語りかけていて下さるのです。ですから、私たちは、その呼びかけに答えて、「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまう」(ver24)。
 そんな存在ではなくて、神の呼びかけに答えていく、そのような歩みをしてまいりたいと思います。
II.自由をもたらす律法
「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(ver25)。さて、本当に御言葉に聴き、御言葉を行う人は、一心に見つめる人です。一心に、これは、「パラプギトー」というギリシャ語ですが、

例え、今見つめていることの意味を、今すぐに理解できなくても、そこには、何か重要なものが隠されているのだと一心に見つめるのです。

復活の朝、ぺトロとマリアは、墓を覗いた、見たのです(パラプギトー)(ヨハネ20:5、11)。

「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに  
告げ知らせており、天使たちも見て(パラプギトー)確かめたいと願っているものなのです」(Iペトロ1:12)。

一心に見つめることによって、見えないものが見えてくるのです。真理が見えてくるのです。
私達は、今はイエスによる福音の時代を生きていますから、律法によって、救われるのではない、福音の時代を生きていますから、私たちは、律
法というと=律法主義と悪のようにとらえてしまいますが、決してそうではないのです。今日の御言葉も、自由をもたらす律法と、聖書は語ります。私達は、律法を一心に見つめるときに、素晴らしい神の恵みが見えてくるのです。そして、それは三つのものが見えてくると言っても良いと思います。

それは第一に、私達に対して、神による絶対的に聖よい宗教的、倫理的な基準があるのだと教えられて来るのです。それが見えてくるのです。

 この世界の相対的な価値観ではなくて、私達がどうしても犯す事が出来ない、神の揺るがない、絶対的な善悪についての基準があるのだと私達は教えられて来るのです。

 その結果、私たちは、その善と悪を、残念ながら守る事が出来ない、罪がある事に気が付いてくるのです。

 しかし、罪があるということを律法によって知っただけでは私達は、パウロが語るように、絶望するしかありません(ガラテヤ3:23)。

 しかし、私たちは律法によって、自分の罪を知ったからこそ、律法はキリストのもとに導く養育係とパウロは言いましたが(ガラテヤ3:23-24)。
 イエスこそが、私のその罪の救い主だということが分かってくるようになる。そして、イエスこそが、救い主であることが分かってきたときに、 
私たちは、そこには罪の明確な悔い改めが起こって、私の罪が赦され、永遠の命が与えられるものであることが分かってくるようになるのです。

そして、第三番目、何があっても変わることがない神の愛を私たちは知るようになったのです。そして、この神の愛を知るときに、私たちは本当の自由を体験する事が出来るのです(エレミヤ31:3)。

律法を通して、自分の罪を知ること。そして、そこには、明確な悔い改めが起こってきますから、それを通して、示されてくる、神の愛を知ることができるようになる。それこそが、御言葉を実行する人に他ならないのです。
そして、この御言葉を実行する者こそが、真の自由を体験する事が出来るのです。

 魚が水の中にいるときに、自由に泳ぎ回る事が出来る様に、列車がレールの上を走っている時だけ、自由に走る事が出来る様に、私たちは、律法を通して、罪を知り、更にはそれを赦して下さるイエスを知るときに、真の自由を得る事が出来るのです。

 神を知らない自由は、実は自由ではないのです。それは奴隷です。自分自身の気の向くまま、思いの向くまま、欲望の奴隷なのです。
 どうか、自分を欺いて、聴くだけ聞いて、中途半端に御言葉を忘れてしまうようなものではなくて、御言葉に聞き、自分の罪深さを知り、しかし、そんな私達一人一人のために与えられた、神の愛に生かされる者でありたいと思います。

 私は恥ずかしい話ですが、神を知らない頃、歌舞伎町のネオンの中に消えていくことが自由だと思っていました。
 しかし、それは罪の奴隷でしかなかったのです。 どうか、自分を欺いて、聴くだけ聞いて、中途半端に御言葉を忘れてしまうようなものではなくて、御言葉に聞き、自分の罪深さを知り、しかし、そんな私たち一人一人のために与えられた、神の愛に生かされる者でありたいと思います。
 神の呼び掛けて応えて、信仰の歩みを歩んでまいりたいと思います。

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