旧約聖書 ダニエル書7:13-14
新約聖書 マタイによる福音書24:3-14
Ⅰ.世の終わりとは?
ドラマや映画を観る時、皆さんは、その結末を予め知りたいと思いますか? それとも、知らずに観たいと思いますか?
今日の聖書箇所で、主イエスの弟子達は、このように、イエスに尋ねています。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」(3節)
弟子達が、このような質問をしたきっかけは、こうでした。
イエスがエルサレム神殿の境内を出て行かれる時、弟子の一人が感心して、こう言ったのです。
「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
金箔で覆われ、キラキラ輝くエルサレム神殿、その美しさに、弟子達は、うっとりと見とれていたのです。
すると、イエスは言われました。
「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)
弟子達は、度肝を抜かれたのです。
これまでも、イエスから、世の終わりに関する様々な話を聞かされてきた弟子達は、ついに堪え切れなくなって、オリーブ山で座っておられたイエスの元に行き、ひそかに、
「そのようなことは、いつ起こるのですか。あなたが来られて世の終わるときには、どのような前兆があるのですか。」
と、聞いたのです。
ここで注目すべき点は、「世の終わるとき」の「終わり」という言葉の意味です。これは、「完結」とか、「仕上げ」を意味する言葉です。少しずつ朽ちて無くなるような、自然消滅ではありません。
誰かが意志をもって、仕上げるのです。設計者が、予め立てていた計画に沿って、ある時に始めた働きを完成させるのです。
そうです、神様が、私達の主が、御自身の計画を、遂に完成させる。それが、終わりの時です。
神様が、「光あれ」と言って、天地万物を創造された。言葉によって、大空も海も地も、そこに住む動植物も創造し、すべての環境を整えた最後に、神は人を創造されました。神は人を、殊のほか愛して、御自身に似た者、つまり、霊を持つ者として、人間を創造されたのです。
神を愛し、神と共に歩む者として、人間を創造し、祝福されたのです。この神様の大いなる御計画が、遂に完成するのです。
途中で、神の御計画は中断し、失敗したかのように見えました。
神の祝福を溢れるばかりに受け、神と共に歩むように創造された人間が、神に背いたのです。
そのきっかけは、巧妙な罠でした。「あなたは、神のようになれる」と、蛇に唆されたのです。
「その実を食べたら、あなたは神のようになれる」と、蛇は人間を誘惑し、「その実を食べてはならない、食べたら必ず死ぬ」という神の真実な言葉に、背くように仕向けたのです。
目的は何でしょうか。人間が、永遠なる神から離れ、神の溢れるばかりの祝福を失い、神の言葉通り、人間が死ぬべき者となる為です。人を神から引き離そうとする。これが、蛇、悪魔です。
神の御計画は、もう修復できないのでしょうか。
しかし神は、神から離れてしまった私達人間とこの世界を、諦めてはおられませんでした。憐れみ深い父なる神様は、救い主イエス・キリストを、私達に、この世界にお与え下さったのです。
神の御子イエスが、私達と同じ人として生まれ、私達が経験するあらゆる苦難を味わい、最後には、私達人間が神に背いた、その罪の罰を、私達に代わって全て引受けて下さった、十字架で、裁きを受けて下さったのです。
そして、弟子達に予告していた通り、三日目に死の支配を打ち破って、復活されたのです。復活されたイエスは、弟子達をはじめ、500人以上の者達に姿を現し、40日間、共におられましたが、弟子達が見ているところで、天に昇って行かれました。
あっけに取られて、天を見つめていた弟子達に、天使が現れ、こう言います。
「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と。
花小金井教会では、毎週、礼拝の中で、使徒信条を用いて、私達の信仰を告白しています。
週報の裏の使徒信条を、一つ一つ、ご一緒に見ていきたいと思います。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」
次に、
「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」
ここから、主イエス・キリストについての信仰告白が続きます。
「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」
これが、クリスマスですね。
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり」
これが、キリストが受けられた苦しみと、十字架の死ですね。
「三日目に死人のうちよりよみがえり」
これが、キリストの復活、イースターです。
「天にのぼり」
これが、キリストの昇天ですね。
そして、次です。
今、私達が生きているこの時代が、そして、今日2025年7月27日も、次の部分です。
「全能の父なる神の右に座したまえり。」
私達の主イエス・キリストは、今、父なる神の全能の力をもって、私達の為に執り成し、祈っていて下さるのです。
私達は、主イエスの完全な祈りに守られて、日々、歩んでいるのです。
では、私達の将来は、この世界の未来は、どうなるのでしょうか。それが、使徒信条の次の部分です。
「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」
天に帰られた主イエスが、かしこより来る、再び私達の所に来られるのです。
今、私達は、主イエスが、再び私達の元に来られるのを待ち望んでいる、そういう時代を生きている、生かされているのです。
私達が歩んでいる毎日、私達に与えられている時間は、神の約束に基づく希望に満ちた時間なのです。
「あなたが来られて世の終わるときには、どんな候(しるし)があるのですか。」
と、弟子達が尋ねたように、主イエス・キリストが再び来られる時こそが、世の終わるとき、神の御計画が完成する時なのです。
ですから、終末とは、ノストラダムスの大予言のような、神を抜きにした世界の滅亡、この世の終わりなどとは、全く違うのです。
再び来られる私達の主イエス・キリストを抜きにして、神様の御計画の完成は、あり得ないのです。
今日、第一に、世の終わりとは、天地万物を創造された父なる神様の御計画が完成する時であり、それは、主イエス・キリストが再び来られる時なのだということを、心に留めたいと思います。
Ⅱ.主の約束に信頼して
さて、イエスは弟子達の質問に答えて、世の終わりの前兆について、教えて下さいました。
5節~12節です。
まず、「わたしがメシアだ」と名乗る偽キリストが大勢現れること(5節)、戦争の騒ぎや噂を聞くこと(6節)、敵対や、飢饉や地震が世界の至る所で起こること(7節)、外から迫害が起こること(9節)、信者の間でも、つまずきや裏切り、憎み合いが起こること(10節)、偽預言者が大勢現れること(11節)、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えること(12節)、これらが、終わりのときの前兆です。
けれども、イエスがこれらの前兆を具体的に教えて下さったのは、私達が終わりの日を予測したり、当てたりするためではありません。
なぜなら、イエス御自身、その時を知らないからです。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と、マタイ24:36でイエスが言われた通りです。
では、イエスはなぜ、世の終わりの様々な前兆について語ったのでしょうか。その目的は、何でしょうか。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」(4節)
「慌てないように気をつけなさい。」(6節)
と言って、イエスは、目に見える現象に心を奪われないように、注意を促しています。
「慌てないようにしなさい」とは、「不安を感じないようにしなさい」、「びくびくしないようにしなさい」という意味です。
「そういうことは起こるに決まっている」(6節)
つまり、これらはすべて、神様の完全なご計画の内に在るのだ、だから、心配するな、恐れる必要はない、と主イエスは私達に言われるのです。
では、これらの前兆は、何を表しているのでしょうか?
8節に、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」とあります。
赤ちゃんが生まれる時に、陣痛が繰り返しやってくるように、「産みの苦しみの始まり」なのです。では、産みの苦しみによって、何が生まれるのでしょうか。
新天新地が生まれるのです。
神の最高傑作として創造されたにも拘らず、人間の罪によって壊された世界が、神の御計画によって、新天新地に生まれ変わる。その為の産みの苦しみなのです。
子どもが生まれた喜びによって、もはやその痛みを忘れてしまうほどの喜び、それ以上の希望が、神によって約束されているのです。
ヨハネの黙示録21章1節~4節をお読み致しします。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」」
確かに、産みの苦しみのような事態が、世界のあちらこちらで、起こっています。コロナのパンデミックが終わると、災害、戦争…
けれども主は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13節)と、私達を励まして下さっています。
そして、更に驚くべきことに、これらの苦難や教会内外の戦いにも拘わらず、
「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(14節)
と、福音が全世界に広がることを、主イエスは明言しておられるのです。
世界の全ての民が、民族として、国として、イエス・キリストによる救いを聞く。聞いた民が信じるかどうかは別として、福音が聞かれている、そのような時に、突如として、終わりが来るのです。
クリスチャン人口が100%になったら、ではなく、福音が、民に、国々に証しされ、聞かれつつある中に、突如として終わりが訪れるのです。
羊飼い達が、いつものように羊の番をしていた時に、突然、天使が現れ、救い主の降誕が告げられたように、
三日目の朝、婦人達が墓に行くと、天使がイエスの復活を告げたように、
ペンテコステに、人々が集まっていた時、突然、激しい音が天から聞こえ、聖霊が降ったように、
突如として、しかし、全知全能の永遠の神の御計画によって、寸分の狂いもなく、主イエスが再び来られる。神の御計画の完成の時が来るのです。
すべては、神の完全なご計画の内に在り、神御自身がそれを完成させるのだ。だから、心配するな、恐れるな。わたしの約束を信じ、希望の内を歩みなさい。
宗教改革者ルターは、言いました。
明日、世の終わりが来るとしても、私は今日も、リンゴの木を植えよう、と。
いつもと同じことをしながら、心はいつも、私達の主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいるのです。