揺さぶられることがない信仰
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 1章5節~11節
5あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 7そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 8心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
貧しい者と富んでいる者
9貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 10また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。 11日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 1章5節~11節
「揺さぶられることがない信仰」
箴言11:24-25 ヤコブの手紙1:5-11
I.惜しみなく知恵を与えて下さる神
さて、ヤコブの手紙は、イエスの弟であったヤコブによって書かれました。
ですから彼は、正に見えない神が人となられた、イエスと30年近く一緒に歩んだことになります。
神が人となられたイエスを目の前で見て、そして一緒に育ってきたのです。
そのヤコブが書いた手紙らしく、正に全体的なテーマは、「見えない神を見えるようにする」、「見えない信仰を見えるようにする」、良い行いです。
先週御言葉に聴きました、ver1-4が一般的に総論だと言われています。ver5-8は、少し脱線して、知恵の話をして、いよいよ、ver9から各論に入っていきます。
先週私達は、確かに人生は、試練に満ちているけれども、しかし忍耐をしていくときに、練られた品性が与えられ、成熟へと向かい、そこから喜びの人生が与えられるのだということ、御言葉に聴いて参りました。
今日はその続きです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願
いなさい。そうすれば、与えられます」(ver5)。
ここでは、いきなり知恵の話が出てくるように見えます。しかし、ここでいう知恵というのは、何故この試練が与えられたのかということを理解しようとする、知恵のことです。
試練の中にあって、何故その試練が与えられたのか、その目的と意味について、洞察を深めていく、そういう知恵のことです。
その人が、どれだけの知識、知恵を持っているのかという、現実的な事柄ではなくて、ここでいう知恵とは、神から与えられる知恵です。
信仰が試練を通して、忍耐を産むということを、知識として知っていたとしても、自分の人生に対する、試練の意味を悟らせるのはまた別の事柄なのです。
これはまさに学びによって得ていく知識ではなくて、霊的な深い洞察力のことであり、神からの知恵のことなのです。
ここでいう、「知恵」とは、ギリシャ語の「ソフィア」です。上智大学の上智とは、上から与えられる「知恵」という意味ですが、この言葉は、この個所と3:13,15,17意外には出てきません。
ソロモンが神に願い求めたのは、正にこの知恵でした。
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(列王記上3:9)。
聞き分ける心、言語は、「聞く心」です。何処に聴くのでしょうか。神の御意思に聴くのです。
こうして、ソロモンは、知恵に満ちた、賢明な心を与えられました(列王記上3:12)。
こうして彼は、イスラエル王国を、武力によって
ではなく、この神からの知恵によって納めたのです。
シェバの女王の来訪の折にも、 「シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった」(列王記上10:4-5)。
と言っていますが、この知恵を、ヤコブは、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ver5)。と言っているのです。
惜しみなくとは、シンプルにとか率直にという意味です。神は求める者に、素直に、シンプルに
与えて下さるお方です。
「とがめだてしないでお与えになる」。神は、何を求めても、咎め立てをなさることはないのでしょうか。
何でも、無責任に、放任主義の親のように、与えられるのでしょうか。決してそうではありません。
寧ろ神は、愛の神であると共に、叱責される神なのです。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:3)。
自分の欲の為に、何かを願うような事柄に関しては神は叱責されるでしょう。
更には、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ11:22)。
パウロは語りますが、もう一つ、神は悔い改めない者に対しては、叱責をなさる神なのです。
悔い改めてご自身に従う者を神は決してお見捨てになることはなく、慈しみを与えて下さるお方です。
しかし、神がここで明らかに、願っておられること。裏を返せば、神が本当の意味で、咎められる事。それは、求めないということです。願わないということなのです。
イエスもまた、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と言われます。
カルヴァンは次のように語ります。
「私は神のもとに来すぎてはいないだろうかと心配する人がいます。そのようなことがあったとしても、誰も心配する必要がないために語られている。
例えば、人々の間で、寛大だと言われている人であったとしても度重なると、これまでの親切を思い起こさせて、もうこれでおしまいだいというものだ。しかし、神に限ってはそのようなことは一切ない。神はいつでも、無期限、無制限に恵みを与えようとしておられるのです。」
カルヴァンはこのように言っているのです。
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ver5)。
「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願っていこうではありませんか。そうすれば、神は、与えて下さるのです。
II.疑わないで
「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。
疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」(ver6)。
「いささかも疑わず」(ver5)、と言っていますが、疑うとは、神を信頼し切っていない心です。
神を信じてはいるのだけれども、信じ切っていない心です。「疑う者」とは、神に対して、肯定と否定を同時にする人です。
神のお約束に立ちながら、その成就を信じていないということです。
「風に吹かれて揺れ動く海の波」です(ver6)。そして、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」(ver7-8)。
「心が定まらず」(ver8)=「二心」です。相手半分、自分半分です。神を信じてはいるのだけれども、自分で何とかしなくてはと思っているのです。
神への信頼半分と自分への信頼半分ということなのです。ペトロは、イエスを見て、湖の上を歩きだしたのですが、風を見て怖くなって沈んでしまいました(マタイ14:22-)。
昔私は、牧師になろうとした頃、大きな働きに憧れて、大きな働き人になりたかったのです。
そして、あの集会で、この集会で、用いられて語るのが牧師の仕事だと思っていました。
それを見かねた、先輩の牧師が私に言ったのです。「昇君牧師ってね本当に地味な仕事なんだよ。」
今は分かります。本当にその通りです。一週間やるべき仕事は、ほゞ決まっています。それに様々な事柄が、折々に加えられて来るのです。しかし、私達の信仰は、このような、何の変
哲もない、地味な日常生活の、小さな事柄、その信頼の積み重ねの中で、問われてくる。教えられて来るのです。日常生活を疎かにして、小さな事柄を疎かにして、いやいざとなったら俺はできるからという人がいるのです。
しかし結局、そのような人は、「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」でしかないのです(ver8)。
風に吹かれ揺れ動いている波です。心が定まっていない。歩むべき道において、心が定まっていないのです。
日々の小さな信頼を積み重ねながら、人生の知恵を求める。そうしてこそ、試みの時に、試練の時に、揺さぶられることがない信仰を持つことができるのです。
III.逆説的な富に対する考え方
この、ヤコブの手紙は、先程申しましたように、イエスの弟であったヤコブによって書かれました。彼は、正に見えない神が人となられた、イエスと30年近く一緒に歩みました。神が人となられたイエスを目の前で見て、そして一緒に育ってきたのです。
そのヤコブが書いた手紙らしく、正に全体的なテーマは、見えない神を見えるようにする、見えない信仰を見えるようにする、良い行いです。
先週御言葉に聴きました、ver1-4が先ほども申しました、総論です。ver5-8は、知恵の話をしです。
確かに人生は、試練に満ちているけれども、しかし忍耐をしていくときに、練られた品性が与えられ、成熟へと向かい、そこから喜びの人生が与えられるのだということ、御言葉に聴いて参りました。
そして、試練の意味を、神から知恵を頂いて問われながら、日常生活の中で神を信頼して行くのだと語りました。
そして、ver9からがいよいよ、この世界にある現実を捕らえながら、ヤコブが話しを始めている、本論です。彼らは散らされている民ですから、そこは、祖国ではなく、本当に貧しい生活を強いられていました。
しかし、ヤコブは語るのです。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」(ver9)。
この世界は、全世界の富の90%以上を上位の数%の人が、占有していると言われています。
貧富の格差は厳然としてあります。しかし、聖書は逆説的で、この貧富の格差に私達が捕らわれることはないのです。
「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」(ver9)。低い身分であったとしても、イエスにあって高くされるのです。
初代教会は、基本的に身分の格差はありませんでした。ですから、どんな人も教会内では、自分が大切な存在であることを知ることができました。
更に神から見れば、主はその貧しい人の為にも死んで下さったのですから、どんな人も決して価値はないということはできません。
ですから逆に、「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」(ver10-11)。
富んでいる人は、ここから謙遜を学ばなければなりません。何故ならば、神よりも、富に依存する危険性が高まるからなのです。
ファレスティナの砂漠では、一雨あれば、の野草野緑や芽が噴き出していくのです。
しかし、日照りの日が続けば、熱風が吹き付けて草木がやられてしまうのです(ver10-11)。
ヤコブはここで、富んでいる人々に、自分の人間的な無力さを悟って、永遠を与えてく下さ
る神に信頼して、謙遜になって、富にではなく、神に信頼することを求めておられるのです。
富が人を生かすのではありません。私達の持てるものは全て神の恵みによって与えられているものです。この身体も、家族も、仕事も、生活も、健康も、富も、そして、この世界も皆神が私たちに与えて下さっているものです。
確かにこの世界で生きている私達。勿論現実的には、お金がなければ生きていくことができません。ですから、どうしても、生きていくためには働かなければなりません。お金は必要です。
しかし、お金が私達を生かすのではないのです。私達を本当に生かして下さるのは、天の父なる神なのです。
その神の許しがなければ、私たちは、生きていくことができません。私達の命を本当の意味で守っていて下さるのは、天の地父なる神なのです。
だから、私達は、決してお金が私達を生かしているのではない。神が私達を生かしていて下さっているのだ。そのことを信仰的に表すために、持てるお金のある一定の額を神にお返しするのです。献金するのです。
そして、私達は、献金を通して、私達を本当に生かして下さっているのは、お金ではない。父なる神です。と証をするのです。
「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」(ver10-11)。
富ではありません。本当に大切なことは、高いものを低くされ、低い者を高くして下さる神に信頼して、歩んで行くことなのです。
どうか、この神のみ信頼して、日々の生活を歩んで行く者でありたいと思います。
