見えない信仰を見えるようにして
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ヤコブの手紙 1章1節~4節
挨拶
1神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
信仰と知恵
2わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 3信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 4あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヤコブの手紙 1章1節~4節
「見えない信仰を見えるようにして」
創世記22:6-12 ヤコブの手紙1;1-4
I.見えない信仰を見えるようにして
今日から、ヤコブの手紙に入ります。このヤコブの手紙のテーマを一言でいえば、「見えない信仰を見えるようにして」ということだと思います。毎週読んで行くと、半年ぐらいで終わる5章ほどの小さな手紙ですが、丁寧に御言葉に聴いて参りたいと思います。
この手紙をマルティンルターは、「藁の書」と呼びました。それは、信仰による義認よりも、行いによる義認が強調されているからでした。宗教改革的なバックグランドから読めば、当然、そのような結論が導き出されてくると思います。
このヤコブの手紙が書かれた時代にも、パウロ派とヤコブ派の対立がありました。それは、人が義とされるのは、信仰によってか、行いによってかという論争でした。
そして、この議論は今の時代にも、やはり続いている議論だと思います。実際カトリック教会は、人は、イエスを信じる信仰と良い行いよって、義とされると言って憚りません。
この手紙も例えば、2章を読んでまいりますと、確かに、「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(2:24-26)。
行いによって義とされてくということが、次々に書かれています。しかし、教えられることは、ヤコブがここで、行いによって、義とされている人として挙げているアブラハムは、パウロによって(ローマ4章)、ラハブは、ヘブライ人への手紙の著者によって(ヘブライ11章)と、夫々に信仰によって義とされている人の代表として挙げられているのです。
これは、同じ個所から別々の主張がなされているというよりも、同じ事を両面から語っているのだということなのです。
パウロは行いを生み出していく信仰を強調し、ヤコブは、信仰から生まれる行いを強調しているのです。
私たちは、主を信じない人々に、見えない神を、見えるようにするにはどうすれば良いでしょうか。それは良い行いをする事です。そうすれば、未信者はそこに神の存在を見出すのです。
勿論救われるためには、良い行いは1mmも必要ありません。何処までもイエスを信じる信仰によって、私たちは救われるのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
しかし、人々は、私たちのそのような行いを通して、見えない神を見るようになるのです。
この手紙の著者は、イエスの兄弟であった、イエスの弟であったヤコブです。
どんなに素晴らしい父ヨセフに育てられ、
イエスの母マリアを自分の母とし、更には、イエスと30年間共に生きていたとしても、彼はイエスを信じることがありませんでした。
即ち、どんな良い環境も、彼を変える事が出来ませんでした。
しかし、甦りのイエスに出会い、ペンテコステの聖霊が注がれた時に彼は変えられました(使徒12:17)。
そしてエルサレム教会の指導者となって(Iコリント15:7、ガラテヤ1:19)、「翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(使徒21:18-19)。
言われておりますが、これがヤコブの最後の記事です。彼は、復活のイエスに出会って、本当に変えられました。彼はいつも、膝をついて祈っていたので、その膝はささくれだって膨れ上がっていたそうです。
そして、その祈りの内容は、「父よ彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」だったそうです。
そして、彼は伝承によれば、62年頃に、石打の刑によって、殉教の死を遂げて行きました。
家族がイエスを信じる、これはいつの時代も、大変困難かもしれません。しかし、彼は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」(ver1)。
この様に語って、自分がイエスに出会って、イエスの僕となったということを明確に語っています。自分の事をイエスの兄弟ヤコブと語らないのです。僕はあの救い主の弟なんだぜ!!
それだけで証しになりそうです。それだけで伝道になりそうです。人間的には、えばる事が出来ます。しかし、彼は自分のことを主の僕と語って止まないのです。
彼はそれほどまでに明確に、主に出会ったのです。人生の主語が自分からイエスに変わったのです。自分はイエスの僕に過ぎない=これは、奴隷という意味ですが、それほどまでに彼の人生は変えられました。
この手紙のテーマを、もう少し具体的に言えば、「試練」と「忍耐」、教会内での人間関係、主に誰もが失敗する言葉の問題。そして、今の日本でも問題となっている、貧富の格差です。
そして、これらのことを、私の愛する兄弟達とこれは勿論女性を含んでいるのですが、愛情をこめて、具体的な、実践を呼びかかています。
そして、それを、離散している12部族に対して書かれました。しかし、これは幾分理念的な、部分が含まれているのです。
実際、この時代は、少なくとも10部族は、例えイスラエルの民であったとしても歴史の中に霧散してしまっていたのです。
元々はカナンの地にイエスラエルの民がヨシュアに導かれて、入植したときに、レビ部族は、イスラエル全体の宗教活動を担いましたから、残りの12部族が分割統治したのです。
しかし、北イスラエル10王国は、アッシリヤによって、滅ぼされてしまいましたし、南のユダ2部族も、バビロンによって、滅ぼされてしまいましたから、この場合の、12部族というのは、世界に散らされているユダヤ人たちへという意味なのです。
しかし、彼等が離散していたからこそ、世界に福音が伝えられていったのです。ここに神に摂理的な御業があります。
嘗てイスラエルの民が神によって選ばれて神の特権と祝福に生きた民であるように、今の時代はまさに、見えない信仰を見えるようにして、
私達クリスチャンが真のイスラエルとして、神の祝福と選びの特権に生きる者として、神の教会を建て上げて、交わりを為していくのです。
そして、夫々の職場に、地域社会に散らされながらも、福音宣教に励んで行くのです。
II.試練に遭うとき
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ver2)。
挨拶を終えたヤコブは、「私の兄弟達」と優しく語りだします。
この呼びかけは、この後にも15回以上出てきます。しかし、それほど、心を込めて語らなければならない、事柄が人生にはあるのだということです。それは、試練です。
しかし、この試練、「ぺイラスモス」というギリシャ語は、「誘惑」とも訳する事が出来る言葉です。一つの出来事は、外的には試練となりますが、内的には、誘惑とも訳する事が出来るのです。
神は様々な困難を試練としてお与えになりますが、サタンは、それを誘惑として用いるのです。ですから、神は私達に、その試練を決して誘惑としてではなくて、信仰をもって、試練として受け取ることを願っておられます。
そして、生きとし生ける者、「試練」、これは避けられない現実です。しかもそれは、家族、人間関係、病気、経済と様々な形での試練を私達は、経験しなければなりません。
イギリスのホートという神学者は、「クリスチャンがクリスチャンとして生活する時には、試練で鍛えられることを覚悟しなければならない。」と言っているのです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」(使徒14:22)。
それにしても、試練を喜びなさいとは、どういうことでしょうか。私達は誰だって、平穏無事な人生を求めているのです。私達は、何故試練を喜ぶことができるのでしょうか。
それは、「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ver3-4)。
人生には試練が確かにあります。しかし、神は、それを用いてでも、私達一人一人の人生を引き上げて下さるのです。そして、私達一人一人を、成熟へと引き上げて下さるのです。
私達一人一人を成熟へと導いて下さるのです。そして、私達一人一人を成熟へと整えて下さるのです。だからこそ、私達は、試練をも又喜ぶことができるのです。
III.見えない神を見えるようにして-忍耐
「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ver3-4)。
さて、聖書の中で、試練に遭わずして、人生を終えた人はいないでしょう。イエスですらも、40日、40夜断食をされた後には、悪魔の誘惑をお受けになられました。最後には、十字架という究極の苦しみ、究極の試練をお受けになられました。
ですから、試練に遭わずして、人生を終える人はいないのです。例えば、アブラハムは、カルデヤのウルからイスラエル民族の父祖となるために導き出されたにもかかわらず、超高齢の
域に差し掛かるまで、自分の跡取りはおりませんでした。しかも折角与えられた、息子イサクを神は献げよとお命じになられるのです。
勿論彼はそれに従い、正に自分の息子に刃を振り下ろさんとする時に、神が介入されて、
イサクの命が守られるというような所を通らされるのです。
良く神は、人から最善を導き出すために、試練を与えられて、サタンは最悪に引き落とすために、誘惑を与えられると言われているのです。既に、御言葉に聴いて参りました、
「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Iペトロ1:6-7)。
今日の御言葉の忍耐とは、じっと我慢をするというような、消極的な事柄ではなくて、堅実な、確固たる、力を意味しているのです。
意味もなく耐えることを、我慢と呼び、一つの意味を持って、耐えることを忍耐というのです。忍耐すればどうなるのでしょうか。「そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ver4)。
これは完全な人になるという意味ではなくて、確かに欠けはあるのだけれども、成熟へと進んで行くということです。
もう少し、積極的に言えば、私達の人生を通して、神を映し出していくようになるのです。正に見えない神が、見えるようになるのです。
パウロも言いました。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5:3-5)。
練達とは、練られた品性という意味ですが、私達が、試練を忍耐していくならば、そこから、練られた品性が生み出されてくると、パウロも語っている通りです。
練られた品性を通して、何方が浮かび上がってくるのでしょうか。正に、忍耐を通して、私達を通して、見えない神が、見えるようになるのです。
確かに私達の人生は、試みがあります。しかし、それを忍耐することを通して、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ver4)。成熟へと進んで行く、神を映し出していく、そのような人生を送ってまいりたいと思います。
ある訪問者が銀細工人が坩堝(るつぼ)で、銀を製錬しているのを見ていました。銀細工人は、坩堝の下に火をつけました。
その間、銀細工人は、坩堝の中を、ジッと覗き込んでいるのです。不思議に思って、訪問者は尋ねるのです。 「何故そんなに覗き込んでいるのですか。何を坩堝の中に探しているのですか?」と聞いたのです。
すると銀細工人は、答えました。「私の顔を探しているのです。銀の中に、私の顔が映るようになると、私は仕事をやめます。それが完成のしるしだからです。」銀細工人は、答えました。
どうか確かに私達の人生は、試みがあるのだけれども、それを忍耐することを通して、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ver4)。成熟へと進んで行く、神を映し出していく、そのような人生を送ってまいりたいと思います。
