2025年07月06日「変えられ続ける人生」

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変えられ続ける人生

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章8節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 9信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。 10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 11力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
結びの言葉
12わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。 13共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。 14愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 5章8節~14節

原稿のアイコンメッセージ

「変えられ続ける人生」
ヨブ記1:6-12 Iペトロ5:8-14        
I.主に信頼して
 さて、今日で、第一ペトロの連続講解も終わります。先週、私達は、神の羊の群れを牧会させて頂けるその特権と素晴らしさ、しかし、その中で、少しずつ頭を擡げてくる高慢さに対して、謙遜に生きることについて、御言葉に聴いて参りました。
 高慢になりやすい私達が、謙遜に生きるというのは、戦いがあります。人間本来の心の在り様とは全く違う方向に行くのですから、そこには霊的な戦いがあるのです。
 そこで、ペトロは次のように語りました。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(ver8)。
 「身を慎んでいなさい」=これは、「しらふでいなさい」という言葉です。「お酒に酔わないでいる」ということです。
いつも心の目を開いていなさいという事ですが、何に対して、私達は、心の目を開き続けて行くのでしょうか。
それは、悪魔に対してです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(ver8)。
悪魔とは=告訴人という意味です。
先程読んで頂いた御言葉にあるように、ヨブの財産に手を触れてみなさい。そうすれば、ヨブは神をあなたを呪うでしょうと、何とかヨブを神に反逆させようとするのです(ヨブ記1:6-12)。
悪魔は、吠え猛る獅子のように歩き回りながら、何とかクリスチャンに対して、神に対する信頼を失わせようと跋扈しているのです。
実際ペトロ自身も、イエスから、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)。と忠告を受けています。
またイエスの十字架をあの山上の変貌の出来事で、否定したときに、「下がれサタンあなたは神のことを思わないで人の事を思っている」と叱責を受けているのもペトロです。
 実際彼は、イエスを三回も否定してしまっているのです。しかし、彼は主の憐れみによって、もう一度立ち上がることができたのです。
パウロも、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェ6:12)。と言っているのです。
私達は、悪魔を実際に意識する必要があります。悪魔の最大の誘惑は、「悪魔などいないとクリスチャンに思わせることだ」と言った人がいましたが、本当にその通りです。
 しかし、私達は、徒に悪魔を恐れる必要も又ありませんし、聖霊が心の中にお住まいになられる、クリスチャンが悪魔に取りつかれるという事は絶対にありません。
 私が沖縄にいた1990年代初頭、キリスト教第三の波というミニストーが、アメリカのフラー神学校の教会成長学者のピーターワグナー氏によって、提唱され、その運動に多くの日本の教会も影響を受けていました。
 この働きは、過度に悪魔の働きを強調し、悪魔との対決を強調する働きで、沖縄にいたとき、この地域は、この~とかという霊が支配し、縛っているから、その霊をおい出すのだというようなことが強調されていました。
当時日本のいくつかの教会は、この働きによって、混乱させられていたのです。実際このミニ 
ストリーは、正統的ペンテコステ教会より過激でしたから、私の群れにいた多くの青年達も土地柄この影響を受けていました。
私も沖縄のリーダシップを取っている先生に呼び出されて、そのような集会で、開会の祈りをさせられたことがありました。その時はまだ他教派におりましたが、本当に教会形成に苦労させられました。
確かに私達は、悪魔の働きを意識はしなければなりません。しかし、先程の御言葉、ヨブ記「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った」(ヨブ記1:12)。言われているように、悪魔も神の御手の中にある存在でしかないのです。私達は必要以上に、悪魔を恐れる必要はありません。
「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(ver9)。
そしてペトロはこの悪魔に対抗することを二つの側面から勧めています。一つは、「信仰にしっかり踏みとどまって」ということです。信仰に踏みとどまるのですから、ともすれば、信仰から零れ落ちそうになってしまう、自分の弱さを自覚するという事です。
しかし、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:3-4)。
神は、信じる私達を決して見捨てられることはありません。一度イエスを信じた者が再び滅びに入れられるという事は絶対にありません。この恵みの中に安心して歩んで行きたいと思います。
もう一つは、「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(ver9)。
言われているとお取りに、苦しみを分かち合
うのです。ともすれば、悪魔はどうして、私にだけこんな苦しみに神はあわせるのか、神を疑うような思いを入れてくるのです。人を孤立させるのです。神への信頼を失わせるのです。
しかし、兄弟姉妹と共に歩む時に、その苦しみを理解して、祈ってくれる友を見出す事が出来るのです。
「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(ver10)。
 神が暫くの苦しみの後に、私達を立たせて下さる事を、私達を強めて下さる事を、わたしたちを揺らぐことがない者へと変えて下さる事を信じるのです。
 苦しみはあるのだけれども、神が必ず、立たせて下さる。「強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる」(ver10)。その主を信頼するのです。そして祈るのです。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(ver11)。
 私達は、絶えず問われます。神に信頼することを。悪は吠え猛る獅子のように、歩き回りながら、何とかして、私達を神から引き離そうするのです。諦め、自己卑下、自己憐憫、過去への後悔と言った様々な思いを入れてくるのです。
だからこそ、神に信頼して歩んで行きたいと思います。神は圧倒的に悪魔を凌駕されているのですから、徒に悪魔を恐れることなく主に信頼していきたいと思います。
II.変えられ続ける人生
 「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」(ver12)。
さて、ペトロは、この恵みにしっかり踏みとどまりなさいと言いました(ver12)。この恵みとはどの恵みでしょうか。
実はこの恵みとは、「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(ver10)。
 この神の恵みなのです。この手紙は、何回も申してまいりましたように、苦しみの中で、困難の中で、苦しんでいる当時のクリスチャン達に対する励ましの手紙です。実際にこの世は天国ではありませんから、そこには、一年365日分の困難が存在しているのです。
 自分の不注意の故に招いてしまっているような困難もありますけれども、不当な苦しみ、言われなき苦しみも沢山あります。しかし、人生は、王子様は御姫様と結婚して、幸福に暮らしました。目出度し~で終わる訳ではないのです。
イエスが告別の説教で言われたように、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)。この世で生きる限りは、困難があります。困難は避けられません、しかし、神が立たせて下さるのです。神が回復させて下さるのです。神が力づけ、強め、揺らぐことがないようにしてくださるのです。
  ここでシルワノが出てきます。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」(ver12)。
 「ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った」(使徒15:32-33)。使徒言行録では、この「シルワノ」は「シラス」と呼ばれています。最初はエルサレムにいた人でした。
 しかし、パウロやバルナバがアンテオケアから来て開いた、エルサレム会議の後に、彼等について、アンテオケアに下っているのです。その
後パウロの二回目の伝道旅行の折に、パウロが自分のアシスタントとして選んだ人です。
 そして、ペトロは、このシラスを、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」(ver12)。と書いているのです。
 シラスは、アンテオケアにおいて、預言をし、兄弟たちを励まし、力づけていたのです(使徒15:32-33)。
 正にシルワノはアンテオケアにおいては、パウロの右腕となって働きましたが、その前にペトロの忠実な右腕となって、働き、この手紙を口述筆記しているのです。
ぺトロは確かに、12弟子の筆頭であり、イエスによって引き上げられて、用いられて行った器でしたが、この手紙を書くためにシルワノが、用いられたのです。
 正に彼は、ペトロの右腕として働いた素晴らしい器でした。彼は有能、いや神の為に有益な器でした。
 わたしは有能という言葉よりも、有益という言葉が好きです。神の為に有能な牧師であることは素晴らしいことですが、それ以上に、神の為に有益な牧師でいたいと思うのです。
この教会には本当に沢山の優れた方々がおられます。私など足元にも及ばないぐらいです。しかし、私達は、本当にペトロのように、そして、彼の右腕となって働いたシルワノのように、神にとって有能である以上に、有益な者へと変えられて行きたいと思います。

次に、 「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(ver12-13)。
 唐突にバビロンという言葉が出てまいりますが、バビロンとは当時、ローマ帝国を批判的に表した隠語でした。この手紙は、現在のトルコや西アジアにいたクリスチャンに対して書いた手紙
ですから、共に選ばれてバビロンにいる人々とは、ローマにいる、選ばれている人々によろしくと言っていることになるのです。
 距離的にはざっくり2000kmです。ここから、石垣島位までは行ってしまう距離です。しかし、それだけ離れていても、挨拶ができる。これは遠く石垣島にいるクリスチャンに私達が挨拶をしているようなものです。
 日本のどこにいたとしても神によって選ばれているがゆえに、挨拶ができる。これが、クリスチャンの素晴らしさです。
 最後にわたしの子マルコという言葉が出てきます。聖書学者によって、意見は分かれますが、このマルコは、「マルコによる福音書」を書いたマルコです。私はこの説を支持したいと思います。彼はもともとエルサレムにいました。彼の家には、12弟子もよく出入りしていたようです。
 その後彼は、アンテオキアに行って、パウロとバルナバの伝道旅行について行くのです。
 所が旅行の途中で彼は離脱して、アンテオキアに帰ってしまうのです。そのためにパウロは第二回伝道旅行にマルコを連れて行くことを反対するのです。
その結果、パウロとバルナバも又袂を分かつことになるのです。マルコはまだ若かったので、欠けだらけの所もあったと思います。どういう理由で、パウロの第一回伝道旅行から離脱したのか分かりません。しかし、ある意味パウロに見捨てられ、バルナバに彼は拾われたのです。
 しかし人は変わります。人は成長するのです。やがて彼は、ローマで、ペトロの働きを助けるようになります。そして生まれたのが、マルコによる福音書です。
 パウロも又、立派に変えられた、成長したマルコを再び自分の所に呼び戻して、彼を頼りにするようになり、

「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(IIテモテ4:11)。で書いているのです。
 「彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」という言葉は、「役に立つからです。」実際新改訳はそう訳していますが、この言葉が、先程の「有益」という言葉なのです。
 マルコも又、神の憐れみによって、「有益な者」に変えられたのです。 こうして、主によって用いられた人、主によって変えられた人を書いて

最後の「挨拶に、愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(ver14)。とペトロは結んでいるのです。

 余談ですが実際熱心なある教会では、勿論同性ですが、ほっぺたに口づけをしながら、礼拝中に挨拶をする時間があるのです。私は硬直して動けませんでしたが・・・
 
さて終わりたいと思います。ペトロもそうでした。彼も変えられて、この手紙を書く者へと成長させられました。シルワノもペトロの右腕として活躍をした、有益な人でした。

そしてマルコ。彼も又、粗野な所があり、一度は、パウロと袂分かって、バルナバに拾われたような人でしたが、変えられて、成長して、整えられて、パウロの信用を得るようになって、ペトロを助け、マルコによる福音書を核にまで至りました。本当に役に立つ者(IIテモテ4:11)=「有益な者」へと変えられました。人は変わります。
 
ペトロもシルワノもマルコも皆有益な者へと変えられました。私達も又、キリストと結ばれているならば、必ず変えられ続けて行くのです。

 そのことを信じて、そして期待して、これからも信仰生活を送って行こうではありませんか。
 「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(ver14)。




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