「困難に打ち勝つ信仰」
箴言11:31
Iペトロ4:12-19
I.苦しみの中で練られて行く信仰
人生は一回だけです。そして、聖書は、その一回だけの人生を、決して苦しみに遭うことはないとは約束していません。寧ろ神は、苦しみを通して、私達の人生を練り、そして鍛え挙げて行くのです。
それは、アブラハム然り、ヨブ然り、いやイエスですらも十字架という究極の苦しみに遭われました。聖書に登場してくる人物は皆、苦しみに遭った人のオンパレードであると言っても過言ではありません。
ですから、神は、私達に折々に苦しみに遭う事を赦されて、ご自身に頼るようにと、私達を導いて行くのです。
そして、それは、このペトロの手紙の受取人たちについても、同じことが言えました。彼等もまた、繰り返し、迫害や、苦しみに遭ったのです。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ver12-13)。
折角イエスを信じたのに、どうして、苦しみに遭うのかと、悩んだり、呟いたりしないで、驚き怪しまないで、喜びなさいとペトロは語ります。しかもこの、喜びなさいと言うギリシャ語は、歓喜に満ちて喜びなさいという言葉です。
歓喜に満ちて喜ぶ理由は次の三つです。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を」(ver12)。
第一に、「試練」と呼ばれているように、私達が人生で経験する苦しみや、迫害は、単なるオブスタクル、障害ではなくて、神が与えて下さる「試練」なのです。
何故人生には、苦しみがあるのでしょうか。それは、聖書的に言えば、人は苦しみがなければ、自分が神となり、自分の力だけで何とか人生をやっていけてしまうからです。
ですから神は、私達の人生に、試練を与えて、私達の練り上げていくのです。これはまさに聖書が語る真理です。
第二番目に、「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」(ver15)。
もし私達が、苦しみを経験することがあるとするならば、それは、イエスの苦しみを己がものとすることであり、共にすることであり、しかも、苦しみは、苦しみで終わらない。終わりの時には、救いが完成する時には、「喜びに満ち溢れて」いくことになるのです。
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:17-18)。
現在の苦しみが、苦しみだけで終わらない。やがては神の栄光となる。その栄光に比べれ
ば、現在の苦しみなど取りに足らないと、聖書は語るのです。今の喜びと終わりの時の喜びです。現在の苦しみは、終わりの時の栄光の序章に過ぎなないというのです。
そして第三に、「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(ver14)。
イエスの故に、私達が非難されて、罵られてしまうことがある。十字架に架かるイエスに向かって、道行く人々は罵りました。祭司長、律法学者は、長老たちと共に、嘲りの声を浴びせかけたのです。
更に、イエスと一緒に十字架に架かられた強盗達もイエスを罵ったのです(マタイ27:39-44)。
だから、ペトロは、「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです」(ver14)。とまで言ったのです。この背景には、人々の前でイエスを三度までも否定してしまったという彼の苦い過去があります。
しかし、イエスは、彼の三度の否定をまるで打ち消すかのように、彼に、「あなたはわたしを愛しますか」と語りかけて下さり、「はい主よ私があなたを愛していることは、あなたが一番知っておいでになります。」と答えて、私の羊を飼いなさいと、彼をもう一度引き上げて下さったのでした。
だから彼は、この確信を基に、最後に神の霊が私達の上に留まって下さるのです(ver14)。苦しむ者の上に神の霊が留まって下さる。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知ってお
られます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(ローマ8:26-27)。
神が私達を執成して下さる、それを、ペトロは、神の霊が私達の上に留まると言ったのです。
だからこそ、私達は、折角イエスを信じたのに、どうして、苦しみに遭うのですかと、悩んだり、呟いたりしないで、驚き怪しまないで、喜びなさいとペトロは語ります。歓喜に満ちて喜ぶことができるのだと、聖書は語るのです。
試みの中で主が共にいて下さる。これに勝る恵みはありません。何度も言いますが、イエスは私達に十字架に架かれとは言われなかった。
しかし、十字架負おうて我に従えとおっしゃった。十字架という究極の苦しみを知っておられるイエスが、霊に於いて、私達の上に留まって下さる、だからこそ、私達は、困難に打ち勝っていくことができるのです。
II.委ねなさい
「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
これは一言でいえば、自分のしてしまった悪の故に、苦しみに遭う事がないようにしなさいという事です」(ver15)。
流石に、クリスチャンが、人殺し、泥棒、悪者、になったりすることまではないと思います。しかし、実は当時の社会は、それほどまでに、統制が取れてはいなったという事なのです。
そして、ペトロは、実は聖書の中で、ここしか使われていない、御言葉を語ります。それは、「他人に干渉するもの」という言葉です。
これは、他人を監督するという、ペトロの造語ですが、クリスチャンが、例えば社会を、経済を、いやもっと身近に、他人の家庭にまで入り込んで混乱をさせる事を意味しているのです。
特に当時は、巡回伝道者のような者がおり、そのような者が、各家庭に泊まることによって、その家庭の問題に首を突っ込むというようなこともあったのです。
「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(ver16)。
自分で悪を犯して、その故に苦しむというのなら、それはもう論外です。それは確かに恥ずべき事柄です。しかし、クリスチャンとして、苦しみを受けるのならば、それは、決して、恥ずべき事柄ではない。
何故ならば、苦しみがあるという事は、私達が、神の子として取り扱われていることに他ならないからなのです。
「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」(ver17-18)。
裁きが神の家から始まるというのです。神の家とは、クリスチャン達の事です。ペトロは、この世で、クリスチャン達が、迫害や困難、苦しみに遭うことを、敢えて、ここで、裁きと呼んでいるのです。
神に愛されている、クリスチャン達ですらも、既に御言葉に聴いて参りましたように、苦しみに遭うのです。しかし、そこに神の御手があるのです。私達を成長させていこうとされる、私達を練り鍛え上げて行こうとされる、神の愛の御手があるのです。
だとすれば、主を信じない者達の結末は、一体どうなってしまうのでしょうか。突きつめると神に従わない者達の結末はもっと大な苦しみに遭うという事なのです。
しかし、ペトロは、この御言葉をもって、私達クリスチャンの心を再び覚醒させようともしているのです。
私達はともすれば、自分自身が救われているがゆえに、その救いに安心してしまって、そこに留まってしまうこともあるのです。
だからこそ、神は私達を、試みをもって、訓練させるのですが、又、主を信じていない、ノンクリスチャン達の事にも心を向けさせて、宣教を志させていくと共に、あなたがた、クリスチャンは、こんなに大きな救いの中に入れられているのですよということを、敢えて、神に従わない、クリスチャン達の事を持ち出すことによって、自分達に対する恵みに目を向けさせようとしているのです。
「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」(ver18)。
「神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ」(箴言11:31)。
「正しい人がやっと救われる」=これは、主を信じる者でも、カスカスで天国に行けるという事ではありません。天国の裁きは、クリスチャンにとっても、それほど厳しいのだという事ではありません。
そうではなくて、この地上の、クリスチャンの人生に様々な迫害や困難、苦しみがある事を、「やっと救われる」という言葉で表しているのです。
だとすれば、「不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」(ver18)。罪を赦されていない者達の結末は、一体どうなるのかという、ことなのです。
確かに困難はあるのだけれども、主にある恵みと感謝をペトロは、語らずにはおられなかったのです。
そして、結論です。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(ver19)。
先ずは委ねるという事です。創造主に委ねるのです。この世界を、万物お造りになられた神に委ねるのです。
この手紙は、初めから終わりまで神中心主義的に、書かれています。神に愛されている人、神に選ばれている人という風に、1章から、神の主権のもとに全てが進められているのだという事が書かれているのです。
神がいて下さる、神が導いてくださる、神が最善を為して下さる。だからこそ、私達は、神の御手によってもたらされる、試みにも耐えることができるのです。
委ねるこれは、任せるということですが、例えば旅に出るときなど、誰に財産を任せていくのか。これは大切なことです。
おなじように、自分の魂を委ねる。これはまさに、自分の一番大切なものを任せるのですから、これは神以外に、全てのものを無から創造され、
その御手の中にすべてを治めておられる神に委ねるという事が、最も安心できるという事なのです。
そして、もう一つは、良い行いし続けるということなのです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)。
これはパウロの言葉です。勿論私達は、善をもって救われる訳ではありません。
救いに必要なのは信仰だけです。しかし、救われたクリスチャンは、やはり善を行うことに心を向けて行くと思うのです。ですから、クリスチャンにとって、善行は救われた結果、私達の内から出て来るものなのです。
この世で生きていく限りにおいて、私達は、決して苦しみから自由になることはできません。
しかし、主はそれを通しても働いて下さって、私達の人生に、試練を与えて、私達の練り上げて行って下さる。
更にはそれを通して、キリストの苦しみにあずかる事が出来る。イエスが十字架という苦しみを通って、救いを成し遂げられたように、私達も又、苦しみを通って、主の御苦しみを共に味わい、栄光に入れられていくのです。
そして、試みの中を通らされるものと共に、主は共にいて下さる。神の霊が上に留まって下さるのだ。
だからこそ、創造主に委ねて歩んで行くことができるようになる。
試練の時にこそ、神が私達を取り扱って下さっている時だと信じて、歩んで行く者でありたいと思います。