万物の終わりが迫っているのですから
- 日付
- 説教
- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 4章3節~11節
3かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。 4あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。 5彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。 6死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
7万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。 8何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。 9不平を言わずにもてなし合いなさい。 10あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 11語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章3節~11節
2025年6月1日(日) 礼拝メッセージ
「万物の終わりが迫っているのですから」
コヘレトの言葉3:1-8
ペトロの手紙一4:3-11
I.あなたの賜物を主にささげて
さて、後私達の人生はどのくらい残されているのでしょうか。二週間前私達は、「今日が残りの人生のスタートライン」というテーマで、今という時を最善をもって生きることを、御言葉に聴いて参りました。
今日はまず、バックスライドの怖さです。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」(ver3-4)。
この手紙の読者がイエスに出会う以前は、実生活の面において、性的のみならず、全ての面において、モラルが非常に低下していました。それに加えて、更には、偶像礼拝です。
私達が神に背を向けて生きているときには、これ等の事柄が空しいものであるとは気が付かずに、寧ろ喜びに感じてしまうのです。
正に自分の欲望に支配されて生きていました。しかし、クリスチャンは、これ等の事柄に、決別を告げた人々です。ペトロは、辟易するように、もうそれで充分です。と言っています。
しかし、この世の力は強いものです。一度信じたクリスチャンをバックスライドするように、誘惑するのです。「あの者たちは、もはやあなたが
たがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」(ver4)。
おい小堀どうした!!昔のお前ならば、喜んでこの乱行に加わってきたではないか、いや、率先してやっていたのに、どうした小堀?という事なのです。人々は変えられた、クリスチャンの姿を理解できないのです。
しかし、決して忘れてはいけないこと、それは、全ての人は終わりの時に、神の御前に立たされるという事です。そして、生きている間の、行いに応じて、最後は神に裁かれなければならないのです。
最近、福音派ですらも、神の裁きが語られなくなったということをよく聞きます。ある牧師は、神の愛を徹底的に語るときに、そこに悔い改めが起こるというのです。更には、人間の素晴らしい可能性ばかりにポイントを絞って、説教をする牧師もいます。前向き積極的に人生を送って行くときに、あなたにとっての最高の人生が開らかれるというのです。積極的可能思考です。
確かに愛を語れば、神の愛を語れば、それは、人々にとっては大変、耳触りの良い説教となると思います。
私も一週間皆さんが、この世の生活で疲れて、それでも教会に礼拝に来て下さっていることを知っていますから、そのようなメッセージをしたくなるという誘惑もあるのです。
しかし、神の愛ばかりを語って、神の裁きを語らないのは、誠実ではありません。真実ではないのです。それは聖書のメッセージではありません。
確かに神は愛です。神は、愛以外の何物でもありません。しかし、完全に義なるお方であるという事も決して忘れてはならないのです。
罪を罪のまま、神は決して見逃すことがおできにはならないのです。不正を、不正のまま見逃すことは御出来にならないのです。しかし、神は、それでも愛なのです。だからこそ、イエス
を十字架で裁くことによって、私達を神の裁きから解放して下さったのです。
イエスを救い主と信じる者は、イエスの十字架の裁きの故に、罪はるのだけれども、イエスを信じる信仰の故に、私達は決して、神に裁かれることはないのです。
しかし、終わりの時に、イエスを救い主と信じない者は、神によって、裁かれなければならないことを、決して忘れてはならないのです。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(へブル9:27)と言われている通りです。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(ver6)。
ここは又、3:19にあるように、セカンドチャンスを信奉する人々、死後にも救いのチャンスがあると信じている人々が、拠り所している御言葉です。しかし、これは、聖書全体の文脈の中で読むならば、「死んだ者にも(生前)福音が告げ知らされたのは」、という事だという事を忘れてはなりません。
実際新改訳2017はそのように翻訳しています。生きている間に私たちが、福音を聞かされたのは、死後この裁きがあるためであったということなのです。
クリスチャンも罪の支払う報酬としての死から免れる事はできません。肉においては、人間としての裁きを受ける事になるのです。
ですから、未信者から、クリスチャンだって、苦しんだり、不遇のうちに死を迎えることがあるじゃないか。と言われてしまうかもしれません。
しかし、同じ死を通ったとしても、神との関係に於いて、霊的には生かして下さるのです。
ですから、私達クリスチャンが神の御前に立つときは、罪が赦され、永遠の命が与えられた者として立つのであって、決して裁きの為に立つ訳ではないのです。
しかし、私達が神と共に、どのように生きたのか?それを報告する時であることは忘れてはならないのです。あのタラントンの譬えで語られている通りです(マタイ25:14-30)。
どうか、私達は、一人一人、神様から与えられている賜物を神様にささげて、神によって、用いて頂く、そのような人生を送って行く者でありたいと思います。
II.万物の終わりが迫っているのですから
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(ver7)。
ロンドンにある終末時計は、11:58分を指しています。あと2分進めば、この世界に終わりの時が来てしまうのです。
聖書もこの世界は、終わりの時に向かって、進んでいるのだという事を語っている事実を忘れてはなりません。
イエスがこの地に来られてから、終末は始まっているのです。あれから、二千年以上の時が流れました。ある人達は、結局世の終わり何て来ないじゃないかと語っているのです。
しかし、永遠を支配しておられる神からするならば、二千年なんて、あっという間の出来事でしかありません。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(IIペトロ3:8)。
日本、世界を問わず、地震、台風、ハリケーン、山火事等天変地異は、様々な所で起こっています。
原発による放射能放出は、記憶に新しい所ですが、SDGSが叫ばれながらも、環境破壊は留まる事を知りません。
人工知能の発達も又凄まじいものがあり、機会が人間から様々な仕事を奪い取っています。
説教だってチャットGPTに頼めば、ちゃんと例え話迄入れて作れてしまいます。アーノルドシュワルツネガー主演の、ターミネーターに見られるような、機械が世界を支配する社会がそこまで来ているかもしれません。
ヨーロッパでの戦争、聖地での戦争。不安定化する東南アジア情勢。聖書の預言の通りに、戦争の噂が世界の様々な所で言われているのです。
私達の心においても、良識が良識として通じず、常識が常識として通じない。フェイクニュースが罷り通り、陰謀説を信じる人々と、そうではない人々との間で、分断が生じている。この世界は末期的な症状を呈しているのです。聖書的な見解は分かれますが、1948年イスラエル国家は、再建されました。
そして、肯定的に見れば、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)。世界中に、福音が伝えられているのです。
このように、正に終末の時代を生きている私達にとって、様々な徴が見えてきていることも又事実なのです。このような終末の時代に在って、聖書は私達がなすべき、四つの事を語ります。
時が短い。だから、走り回って伝道をするのだという事ではありません。「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(ver7)。というのです。
先日、牧会について、思うところがあって、昔、大変お世話になった、大教会の牧師に教えを乞いに、お伺いしました。
今も400名近くもいる教会ですから、その先生も昔は積極的に、精力的に伝道しておられました。
しかし、今はいや数十年前から、神の御前に静まることを大変大切にしておられる先生なのです。
私はその先生に、今抱えている問題を、あまり時間もなかったので、一気にお話をしました。
じっと目を閉じて、私の言う事に、一つ~頷きながら聞いて下さり、開口一番、こう言われたのです。
「立ち止まりなさい!!神の御前に何かをするのではなくて、静まりなさいと言われました。」
結局私達は、神の御前に静まらなければ、そこから本当の意味で力を頂かなければ、主の為に働く事が出来ないのです。だから、ペトロも、
「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(ver7)。というのです。大切なことは、祈りの前提となる、私達の心の整えなのです。
第二に、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(ver8)。
「何よりもまず」と語ります。一番大切なことは、私達終末を生きているクリスチャンに取って大切なことは、愛し合うことなのです。
心を込めて=熱心に という意味です。熱心にというのは、私達の意思がそこになければならないのです。
意識的に心を注いで愛し合うのです。人間の心は、基本的に陰険で直らないと聖書は語りますから、努力をしなければ、自動的に愛し合うことはできないのです。
できないことができるようになるまでは、ある程度のプロセスがかかりますから、隣人を愛するために、どのような努力をしているのか。私達は考えていかなければならないのです。
「愛は多くの罪を覆うからです」(ver8)。正にイエスは、愛ゆえに私たちの罪を覆って下さいました。その愛を知って行くときに、私達も又、愛に生きることができるようになるのです。
第三に、「不平を言わずにもてなし合いなさい」(ver9)。と聖書は語ります。
今のような、大きな会堂のある教会ではありません。基本的には、家の教会です。信仰の長い人もいれば、それこそ、異邦人で信仰を持ったばかりの人もいました。
職のある人もいれば、職のないような人もいたのです。ホームレスのような人々もいました。
働き人が巡ってくる時には、ホテルなどありませんから、そこに泊まる事も多々ありました。
ですから、不平を言わずに持てなしあうことは、大切なことだったのです。
善い動機で、始めた事柄も、それが始まり、進んで行くときに、段々と不平不満が出て来るのです。ですから、正しい動機で行う事が大切なことなのです。
最後に、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」(ver10-11)。
私達は、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの管理者であれと言うのです。
語る事であれ、奉仕することであれ、それを土の中に埋めていてはいけないのです。
あなたに与えられている賜物を通して、神に仕えるのです。この世界に仕えて行くのです。
そして、その栄光を神がお受けになられる。神の栄光を現わしていく。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」(ver10-11)。
ともすれば、私達は、万物の終わりが迫っているとするならば、もっと何か大きなことをしなければいけないのではないかと思ってしまいます。
しかし、決してそうではありません。いつものことを、いつものように行うのです。
それは思慮深く振る舞い身を慎んで祈ること。第二に熱心に愛し合うこと。第三に、不平を言わずにもてなしあうこと。
そして最後に、あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。ということです。
当たり前の事ばかりです。しかし、私たちは、毎日の当たり前の生活の延長線上に終わりが来ることを忘れてはならないのです。
だからルターにある人が、ルターさん明日終わりが来るとしたら、あなたは何をしますか?聞かれた時に、私は今日と変わらずリンゴの木を植えますと答えているのです。
当たり前の事を当たり前のように成していく、その日々の生活の延長線上に、終末がやってくることを私達は忘れてはならないのです。
しかも、それを一切神の栄光の為になしていく。
ジャンカルヴァンのお墓は、一見それとは分からない、山奥の草むらの中にあるそうです。
しかもその墓石には唯、JCとだけ彫られているのです。それは、ジャンカルヴァンの頭文字であると共に、彼は死して尚、JC、Jesus Christを指し示しているのです。
バッハも、作曲した譜面の終わりに、JSB、ジョンセバスチャンバッハと書くのではなくて、SDGと書いたのです。
これはラテン語の、Soli de Gloria!! ただ神に栄光あれ!!あれほどの音楽家にして、このような姿勢に終始したのです。
万物の終わりが近づいているからこそ、主に栄光をお返ししながら、当たり前の事を、当たり前になして行く者でありたいと思います。
