2024年7月7 (日) 礼拝メッセージ
「キリストと虎に翼」
イザヤ書50:4-9
マタイ26:57-68
I.光と闇との交差
朝の連続テレビ小説の虎に翼が大変話題になっています。日本初の女性弁護士になり、戦後初の女性裁判官となった三淵嘉子さんをモデルとして、伊藤彩利さん演じる猪爪寅子さんの物語です。特に裁判官編では、日本人なのに、頼安という名前を音読みして、自分の事をライアンと言っている上司や、多岐川という上司も出てきて、大変面白い展開になっています。
僕も妻に言いました。名前を英語読みしたらどうなるかな?そうしたら妻が言いました。昇だから、「ライザー」でしょう。
私をこれから、パスターライザー、レバレントライザーと呼んで下さい。
やはり何度か放映されてきた裁判のシーンは、秀逸で、目を引くものがあります。中身の濃いドラマで、後三か月。どのような展開になるのか楽しみです。
さて、今回は、イエスの裁判シーンです。イエスが裁判にかけられるのです。ゲッセマネの園で逮捕されたイエスが大祭司の私邸に連行され、尋問を受けるのです。
その裁きは、夜中に始められます。夜中です。先ずこの事から、真面な裁判ではないという事が分かります。そして、夜明けと共に議会全員が招集されますから(27:1)、初めてそこで、正規のサンヘドリンとなるのです。
この一連の裁判は、要はイエスを何でもよいから死罪へと追い込むことができればよいというものでした。
この話は実に滑稽です。やがて終わりの時に、イエスから裁きを受ける人々が、その執行者を審理するという実に矛盾に満ちたものでした。
様々な偽装工作がなされましたが、なかなかうまくいきません。しかし、とうとう、イエスからご自身を神とする、見解を引き出すことができたのです。
この個所の流れは次のようになります。兵士がイエスを大祭司の家に連行します(ver57)。
ペトロは遠巻きにその様子を見守ります(ver58)。祭司長達は、イエスを死罪に定める為に衣装する人間を集めてきますが、なかなかうまくいきません(ver59)。決定的な証拠を引き出すことができないのです(ver60)。
「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(ver61)。こういう人が現れ、大祭司がこの点について、問うと(ver62)、イエスが沈黙を守り続けられたので、議長権限で、「あなたはキリストか」と問い(ver63)。
イエスはその通りだと答えて、全能の神の右に座り人の子は雲に乗って再びくると語られ(ver64)、大祭司はこの言葉で十分だと確信して(ver65)、列席していた議員達も死刑に当たると判断し(ver66)、イエスを嘲り、侮ったのです(ver67-68)。
わたしたちは、ここから二種類の人々を見ることができます。それは、ペトロを代表とする、心の鈍い人々です。
逃げてしまった弟子達の中で、「事の成り行きを見ようと」ペトロだけは遠巻きについて行っています(ver58)。
「事の成り行き」とございますけれども、このギリシャ語は「最後」です。イエスの最後を見届ける為に、遠巻きについて行っているのです。
彼は3年の間イエスの最期を散々聞かされているのです。十字架の死と甦りを聞かされているのです。それでもまだ、イエスの最後が分からないのでしょうか。
どんなにイエスのメッセージを聞いても、中々理解できない、道端のような心で聞く人もいます。石だらけの心で聞く人もいます。茨のような心で聞く人もいるのです。勿論特徴はありますけれども、ようは、御言葉を聞いても、実を結ばないのです。
第二番目の人々。それは、先入観と偏見からイエスを最初から否定する人々です。
この裁判は、最初から如何に不法なものであったかが分かります。「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」(ver59)。当局者たちは、最初から結論ありきなのです。そのためには何でもありです。客観的な証拠と証言はありません。何処までもイエスの自白を引き出そうとします。
第二に、最初から、死刑を前提として、イエスに不利な証言を周りから引き出そうとしています(ver59)。
しかも第三に、裁判が開かれた場所は、正式な場所。神殿ではなくて、大祭司の屋敷です(ver58)。第四に、真夜中から裁判は開かれました。普通は午後からです。
最後、第五番目、死刑の判決は、いやが上にも慎重を期して、二人の書記が、賛成票と反対票を数え、証人は、特に、正義と公平を求められ、
裁判長は、その死刑判決は、必ず一晩おいて、翌日に出すというものでした。
ところが、これらの手順は殆ど踏まれていません。ですから、結論が先にありきなのです。サンヘドリンは、既にイエスを死刑にすることで、衆議一決していました。
そのための証拠集めをただ彼らは、したかっただけなのです。しかし、読んでおわかりのように、その証拠集めも、偽証人を幾ら立てても儘なりませんでした(ver59-61)。
イエスは人々の偽証をずっと、黙殺しておられます(ver62-63)。そこでサンヘドリンは、強引にイエスの証言を引き出して、それを神への冒とく罪として、死刑にしようとしていたのです(ver63-66)。
大体、申しました通り、ゲッセマネの園の祈りから、直ぐにイエスは連行されていますから幾ら私的な裁判であったとしても、真夜中から始まることはあり得ないことです。
そんな時間から初めて、よい裁判になる訳がありません。ここから、当局者たちの、兎にも角にもイエスを死刑にしたいという思いが見て取れます。
第二の人々。何が何でもイエスを陥れようとする、サンヘドリンを代表する罪深さです。
そのような人々は、大前提として、最初からイエスを信じようとはしないのです。イエスを否定することがまずありきなのです。
ですから、客観的にイエスが真理であることをどんなに説き聞かせても、最初から先入観と偏見が壁となって、イエスを信じようとしません。
正に人間の心の鈍さ、心の闇が良く描かれています。しかし、聖書は、このペトロの姿は、そして、サンヘドリンの姿はあなただと語っているのです。
私達の心はどうでしょうか。私達はペトロのような心の鈍さ。サンヘドリンのような端っから、イエスを否定するような罪深さも捨てて、何の罪もないイエスを信じていきたいと思います。
II.イエスの自己証言
さて、マタイが次に伝えたい点は、イエスの素晴らしい自己証言です。黙り続けておられるイエスに、大祭司が言うのです。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」(ver63)。
イエスが答えます。それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(ver64)。
こうして彼らはイエスを神への冒とく罪として死刑にするように告発していくのです(ver65-66)。
大祭司のお前は神の子、メシアなのか(ver63)。という問いに、イエスは、「それは、あなたが言ったことです」(ver64)。と答えています。
つまり今更、答えるまでもなく、私自身が日頃から言っている事柄については、良く分かっているはずだと言っておられます。
ご自身がメシアであるばかりではなく、神の子、神そのものであることを言っておられるのです。
更には、「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(ver64)。
「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」(詩編110:1)
ですから、イエスが再び来られる再臨を待つまでもなく、サンヘドリンは、イエスに罪有と認めた時点から、既に裁かれているのです。
イエスがメシアであると共に、神の子であるか否かは、答えは、嘘か誠かの二つしかないのです。
もし嘘であれば、イエスは神を冒涜する恐ろしい冒涜者として裁かれなければなりません。
しかし、もし、真であれば、イエスを信じないサンヘドリンは、もっとも大きな罪を犯すこととなり、最も恐ろしい神の裁きに遭わなければならないのです。
イエスはご自身の性質とお働きに関する限りは、一歩もお引きにはなりません。
子とご自身の性質に関する事柄かに関しては、命を懸けて証言されているのです。
自分の身分、性質、そして使命に関しては、一歩も引かない、イエスの確信を私達は決して軽く見てはいけないのです。
あのパウロは、これを伝道者テモテの証、誓約の手本として教えているのです。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい」(Iテモテ6:12-14)。
私達も又イエスに対する信仰を真心から告白していく。そのような歩みをしてまいりたいと思います。
III.沈黙の真実
最後にキリストの忍耐です。マルコやヨハネは、イエスを平手打ちにし、侮辱したのは、「下役たち」(マルコ14:65、ヨハネ18:22)、ルカは見張りの者達、兵士だと言います(22:63、23:11)。
しかし、マタイはそれを、サンヘドリンを挙げてしたことだと語るのです(ver66-68)。
「そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った」(ver66-67)。
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」(ルカ18:32)。
と言われておりますが、サンヘドリンを挙げて、イエスが迫害されたことは、正に、旧約聖書の預言の成就なのです。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ50:5-6)。
「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(イザヤ書53:7)。
人々は得意になってイエスを打ったでしょう。得意になって、イエスを罵ったでしょう。得意になって、イエスに椿を履きかけたでしょう。そしてイエスは、はたから見れば、黙々と耐えられたことでありましょう。
しかし、そのイエスの沈黙の中に、イエスの忍耐の中に、明らかな旧約聖書の預言の成就があったのです。
即ち、イエスはこの迫害下の沈黙を通して、ご自身が旧約聖書の時代から預言されてきた、メシアであることを、明らかにされて行ったのです。ここにこそ、イエスの真実があるのです。
「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(Iペトロ2:20-25)。
悪いことをして裁かれれば、それを忍耐したとしても、何の賞賛もありません。甘んじて受けるしかないのです。
しかし、イエスは一点のシミも、傷も皺もない。全く罪がないお方であったにも拘わらず、イエスはこれだけの御苦しみを耐えられたのです。
この沈黙にこそ、イエスの救い主としての真実があるのです。これだけの態度と言葉をもって、イエスは救い主としての真実を示されたのですから、サンヘドリンのようにイエスを否定するのではなく、イエスを信じて、イエスに従いゆくものでありたいと思います。