2025年05月18日「今日が残りの人生のスタートライン」

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今日が残りの人生のスタートライン

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章1節~2節

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神の恵みの善い管理者
1キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。 2それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章1節~2節

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「今日が残りの人生のスタートライン」
コヘレトの言葉12:1-2
ペトロの手紙一4:1-2 
            
I.主の愛であなたの心を武装して
 さて、第四章に入ります。この手紙のテーマは、私達が正義を行っているにもかかわらず、この世界で受ける苦難についてです。
 そして、その代表的なお方として、十字架のキリスト、苦難のキリストについて書かれているのです。
 
そして、もう一つ大切なことは、「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(2:21)。私達の人生の模範としての、イエスについてです。

ですから今日の御言葉も、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(ver1)。と語っているのです。
 
 神が人となられた、それが、イエスご自身です。イエスは神の御子です。神ご自身が人としてお生まれになられた、無限の神が、有限を纏われた。ある意味、奇跡です。あり得ないことが、
イエスに於いて起こったのです。

 今日の御言葉では、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」(ver1)、と言っています。勿論イエスは、罪については、罪の「つの字」も、1mmも犯されませんでした。しかし、私達と同じ、肉を纏われたのです。

どうして、神がそこまで為さったのか?それは、何の罪もない神が人となる以外に、人を救う道は存在しなかったからです。

神に背を向けて、罪を犯して、神の御栄光を現わす事が出来なくなった、私達一人一人を、人が創造された時の本来の姿に回復していくために、神のかたちを有している、人間本来の姿に、神のイメージに人間を回復していくために、イエスは人となって十字架の死に至るまで、従われて行ったのです。

それは、神が私達に、それほどまでに期待しておられるからなのです。イエスの似姿に私達が変えられ続けていくことを神が期待しておられるのです。

私達がイエスを信じて、クリスチャンになったという事は、神のかたちが回復していくためのスタートラインに立ったという事なのです。

そして、私達は日々、イエスの似姿へと変えられ続けて行くのです。主の姿へと変えられていくという事は、外見の問題ではありません。

イエスが持っておられた、父なる神との人格的な交わり、イエスの内にある、愛と憐み、そして、神よりの知恵、そして、何よりも、心の平安。

私達は、そのような内面を持つものへと、一歩、一歩変えられ続けていくのです。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(IIコリント3:18)。パウロが言っている通りです。
ここで、ペトロは、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(ver1)。

イエスと同じ心構えでいなさいと言う優しい言葉だけではなく、「武装しなさい」と、ペトロは語ります。

これは武具で身を固めなさいと言う意味ですが、非常に、物々しいものいいですが、それほど、人生には、戦いがあるという事です。

武装して、身を固めてでも、何としても妥協しないで、神の恵みを受け取りなさいとペトロは語るのです。

そこで、大切なことは、イエスと同じ、心構えという事です。
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(ver1)。

ですから、その心構えとは、私達も又、イエスを救い主として信じることによって、苦しみが齎される、困難が訪れることもまた、覚悟して、武装しなさいとう事なのです。

「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」(ver1b)。

「罪とのかかわりを絶った。」、これは完了形です。基本的には、クリスチャンは、罪とのかかわりを絶った者である。このようにいう事が出来ます。クリスチャンは罪を犯すことを止めた者達の事なのです。

クリスチャンはイエスを信じ、新しく生まれ変わって、永遠の命を得た者です。

私達は霊的には、イエスを信じたときに、罪の支配から解放されて、確かに、罪とのかかわ 
りを絶った者なのです。しかし、又この世で生活する限りは、罪の誘惑は、免れませんから、その苦しみの中で、少しずつでも、罪とのかかわりを絶って、聖良い生活をして行こうとするのです。

私たちは、霊的にイエスと一つとされて、しかもその苦難をその身に帯びながら、自ら罪と決別して行くのです。自己中心的な生き方から離れて、新しい命に生かされて行く者へと変えられ続けて行くのです。

クリスチャンライフは、戦いの生涯です。苦しみが訪れることも多々あります。

しかも周りは、殆ど神を信じていない人々ばかりです。ですから、妥協すれば、幾らでも、妥協することはできます。だからこそ、ペトロは、「あなた方も同じ心構えで武装しなさい」と言っているのです。

心を武装するのです。何で武装するのでしょうか。主の御言葉で武装するのです。イエスが持っておられた、父なる神との人格的な交わり、イエスの内にある、愛、そして憐れみ。それらによって、武装するのです。

私達も又、イエスを救い主として信じることによって、苦しみが齎される、困難が訪れることもあります。

しかし、救い主イエスは、そんな私達の受ける痛み、悩み、苦しみを既に受けて、永遠の命への道を開いて下さってのですから、私達も又、このイエスの愛で心を武装して、永遠の命の道を歩んで行きたいと思います。
II.人生の主語をイエスに
「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(ver2)。
私達は、イエスを信じる以前は、人間の欲望に従って歩んでいました。自己中心的な世界です。

人生の主語は、私又は自分です。私の成功。自分の成功。私の楽しみ、自分の楽しみ。
私の出世。自分の出世。私の計画。自分の計画。そして、私のプライド自分のプライドです。

しかし、当たり前ですが、世界は自分中心に動くはずはありませんから、そこには必ず問題が起こり、うまくいかなくなり、苛立ち、ある時は怒りを覚え、そして、失望してしまうのです。

ですから、欲望に従って生きると、そこには本当の、喜びも平安も何もありません。

所謂ラットレースです。あの丸い金具の入れ物の中を、ラットがずっと走っているように、私達も又、一回だけの人生を、成功を手に入れる迄、あのラットのように、走り続けなければならなくなってしまうのです。

それは自由な人生のように、一見見えたとしても、そこからは、真の安らぎを得ることは、絶対にできないのです。

その対極にあるのが、神の御心に従う生き方です。人生の主を御イエスに入れ替えるのです。

人生の的を神に定めるのです。人生の主を自分ではなくて、神に定めて行くのです。

そうすると、自分への執着、拘り、ある意味、どうでも良いような、自分自身の小さなプライドから解放されて、本当の心の自由を得ることができるのです。

What Would Jesus do という言葉があります。人生の折々に、イエスなら、こんな時、どのように、お考えになられるだろうかという事です。
一日生きていると、様々な選択に迫られることがあります。そんなときにこそ、What Would Jesus do こんな時、イエスなら、どのように、お考えになられるだろうかと、主の御心に従って生きていくのです。

一日の初めに、主の御心に従って生きていくことができるようにと、祈り求めて、一日の終わりに、今日は何処まで主の御心に従う事が出来ただろうかと、感謝の祈りを祈って終わるのです。

私の成功。自分の成功。私の楽しみ、自分の楽しみ。私の出世。自分の出世。私の計画。自分の計画。そして、私のプライド自分のプライド。から解放されて、人生の主語を神にして、イエスにして、主の御心に従って生きていく。
そのような歩みをして参りたいと思います。

III.今日が残りの人生のスタートライン
私達は、何のために人生の主語を自分からイエスへと入れ替えるのでしょうか。それは、「主の御心に従って肉における残りの生涯を生きるようになるためなのです」(ver2)。

私達夫婦は、牧師になった最初数年間は、小平に住んで、吉祥寺で牧会していましたが、その後は、地方を巡ることが多い、牧会生活でした。

沖縄から始まり、一時期埼玉におりましたが、又宮城県古川市、今の大崎市に行きました。

そして、改革派教会に入れて頂いてからは、練馬、横浜と続き、その後茨城県に行き、また私の働きの締めくくりに、主は私達夫婦を、今から37年前、牧会の働きをスタートした懐かしの小平に神は戻して下さいました。本当に感謝です。唯々憐み以外の何物でもなく、感謝しかありません。
東京に戻ってくると、昔、信仰生活を共にした、若い頃、一緒に教会生活に励んだ。そういう方々に、Fb繋がりで再会するチャンスが増えました。

FBをやっていてよかったと思うことは、これがなければ知る由もなかった昔の友達の消息を知る事です。FBで私を探し出してくれて、二年前に、高校の同窓会に40数年ぶりに出席できました。

クリスチャンの友達では、私達が、お訪ねすることもありますが、礼拝にわざわざ来て下さる方々もおられます。

そうすると、私の中には、昔の若い頃のイメージしかなった方々が、当たり前ですが、私が30数才老けて訳ですから、相手もまた30数才老けているのです。

頭が薄くなり、白髪増えたり、ある方は、その方の小さかった頃のことしか覚えていなかった方が、今では立派な青年になっていたりする訳です。

本当に時の流れを感じます。同じ教会の、同じ青年会で、学生会で、私が青年担当牧師をしていた時に、学生だった、青年だった方が、今は本当に貫禄もついて、大教会の主任牧師をされていたりする訳です。

時の経つのは早いな、人生はあっという間だな、つくづく思います。

「神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(ver2)。

聖書は語りますが、新改訳2017では、「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです」(ver2 新改訳2017)。
 「肉における残りの生涯」、「あなたがたが地上での残された時を」。私達に残された時が、どれぐらいあるのか私達には全く分かりません。

いつ終わりが来るかは分からないのです。
もしかすると、主の再臨によって、この世界は本当に明日終わりを告げてしまうかもしれません。

だからこそ、今、今日、ここから、この地上で、残された時を、「神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(ver2)。

今日が正に残りの人生のスタートラインなのですから、神の御心に従って、神のみ心を行って生きて行く者でありたいと思います。

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