「あなたの名前を呼ぶ神」
旧約聖書 イザヤ書43:1 (p.1130)
新約聖書 ヨハネによる福音書21:15-19 (p.211)
五月になりました。新年度が始まって、ようやく一月です。春は、学校やクラスが変わり、職場には新しい方々が入社し、ボランティア先にも新メンバーが加わる等、変化の多い季節ですね。
自己紹介をしたり、名前を呼び合って覚えるようにしたり、いつもよりも、名前を意識する季節かもしれません。
もうずいぶん前になりますが、クリスチャンの「夫婦セミナー」というのがありました。ただ講演を聞くだけではなくて、実際にグループに分かれて、活動をする時間があり、与えられたテーマが、「パートナーの名前を呼ぶ」というものでした。
ご主人が、奥様の名前を呼びます。そして、「ああ、今、本当に私の名前が呼ばれたわ」と感じたら、奥様は、「はい」と答える。
たったこれだけのシンプルな事なのですが、実は、予想以上に難しかったのです。
ご主人が奥様の名前を呼んでも、「はい」と返事をしてくれない。首を傾げて、「何か、違うのよね…。」「名前を呼ばれた気がしないわ。」等々、ご主人が呼べど、叫べど、…叫びはしなかったのですが、…奥様から、「はい」と返事が返ってこないのです。
ご主人たちは考えました。…確かに名前を呼んでいるのだが、何がいけないのか。そうか、心がこもっていないのか。
そして、奥様と歩んで来た、これまでの日々を思い起こし、喜びや労苦を共にしたあの山、あの谷を思い出しながら、今、目の前にいる奥様を慈しんで、心から名前を呼んだ時、「はい」と奥様は答えてくれた。その眼から、涙が零れ落ちたそうです。
私達を創造された神様は、私達の名前を呼ばれる御方です。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)
あなたがどこで生まれ、どのような歩みを辿り、今ここに居るのか、全てをご存知の生ける真の神様が、「あなたを贖う」、あなたを救う、あなたは他の誰でもないわたしに属する者、わたしの愛する子なのだから、「わたしはあなたの名を呼ぶ」のだと。
SNSが発達し、有益な情報から、誤った情報、不要な情報まで、玉石混合のニュースが日々溢れている時代です。
けれども、私達が本当に聞きたいのは、私達をかけがえのない者として創造し、慈しみ、一人一人に固有の、その名前を呼んでくださる、神様の呼び声なのではないでしょうか。
今日は、「あなたの名を呼ぶ神」と題して、神様の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。
さて、ヨハネによる福音書は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と本書の目的が書かれて、一端、20章で終わったかのように見えるのですが、その後に、いわば、付録のようなものとして書かれたのが、今日の21章です。
ここで終わってはいけない。このことは、ぜひとも書き記しておかなければ…という特別な思いが込められている箇所だと言えるでしょう。
その一つの出来事が、主イエスと弟子のペトロとの対話です。
ペトロは、その積極的な行動力や発言力で、弟子たちのリーダー的な存在でした。イエスに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた時に、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:15-16)と、ズバリそのものの信仰告白をしました。
そして、イエスがご自分の受難を予告すると、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と断言したのです。
けれどもイエスは、ペトロに言われました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(26:34)
そして実際、イエスが捕えられた時、ペトロは恐ろしくなって、人前で、三度もイエスを否定してしまったのです。
イエスが選び、弟子達のリーダーを自任していたペトロは、その後、どうなったのか。復活なさったイエスは、ペトロとどのように向き合ったのだろうか。このことは、ぜひとも書き記しておかなければならないことだったのです。
イエスは、「わたしについてきなさい」(マタイ4:19)と、弟子たちを招かれました。けれども又、御自身の十字架を指して、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(ヨハネ13:36)とも言われました。
ついて来なさい、でも、ついて来ることはできない。
このような、相反するように思われる経験を、私達は多かれ少なかれ、経験させられてきたのではないでしょうか。
本気でイエスに従おうと決心をして、真剣にイエスに従ったことのある者なら、逆説的ですが、「私は、イエスに従い切ることのできない者なのだ。イエスについていくことは、私にはできないのだ」という自らの弱さに直面し、挫折を経験させられる。
そして、「私が今、イエスを主と崇め、今なおイエスと共に歩んでいられるのは、主よ、ただ、あなたの赦しと憐れみが深かったから、あなたが真実な力ある神だから、ただそれだけです。」と、この告白に至らされるのではないでしょうか。
ですから、主イエスが、御自身を見捨てたペトロにどのように接し、彼を赦し、立ち直らせたのか。これは、私達一人一人が知る必要のある事柄なのです。
今なお、私達を苦しめているあの事柄、主を愛せなかったあの時、様々な痛みや傷の故に、主イエスから隠れようとしてしまう私達に、主は、語りかけられるのです。
「ヨハネの子シモン。」(21:15)
これは、ペトロのもともとの名前です。
ペトロが、兄弟アンデレに連れられて、初めてイエスに出会った時、主は彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ---『岩』という意味---と呼ぶことにする」と言われた(ヨハネ1:42)のです。
「ヨハネの子シモン。」
先ほどの夫婦セミナーではありませんが、主は、どのようにシモンに呼びかけたのでしょうか。そして、主に名前を呼ばれたシモンは、何を思ったのでしょうか。
主イエスの眼差しが、初めてシモンに注がれたあの日、ペトロと名付けて下さったこと、イエスの宣教の旅に御伴して、主の力ある業を見、神の国を語る声をそば近くで聴き、柔和で優しく、一点の罪もないイエスに愛され、守られ続けて来た日々…、仲間と席次争いをし、主に諫められ、ゲッセマネの園で苦しみ祈る主の傍で眠りこけ、そして、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と豪語しておきながら、
イエスが言われた通り、鶏が鳴く前に、三度もイエスを知らないと言って(ヨハネ13:38)、背教の道を、真っ逆さまに落ちて行ったこと。
そんな自分に、復活されたイエスが近づいて来て、「ヨハネの子シモン」と、今また名前を呼んでくださっている。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上に
わたしを愛しているか」(21:15)。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と断言して、仲間の誰よりも深く、自分はイエスを信じているのだと威張りながら、結局、主を裏切ってしまった自分の弱さに、ペトロは向き合わされたのです。
イエスに対して犯した罪は、イエスによってしか赦されません。ただイエスだけが、ペトロの罪を赦すことができるのです。
ですからイエスは、敢えてペトロに問われました。ペトロが抱え込んでいた背教の罪の棘をイエスに差し出し、イエスに抜いて頂くために、そうして罪を赦されて、もう一度、イエスと共に歩む者として立ち上がっていく為です。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上に
わたしを愛しているか」(21:15)。
イエスは、神の愛を表す言葉「アガパオー」を用いて、「わたしを愛しているか」とペトロに尋ねました。
けれどもペトロは、人間的な友情を意味する「フィレオー」を用いて答えたのです。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
主よ、私の内には、あなたのような神の愛はありません。私は、御存じのように、三度もあなたを知らないと人々の前で言ったのです。ちっぽけで弱い、愛などとは言えないようなお粗末な思いにすぎません。それでも主よ、それでも、こんな私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。
ペトロがイエスの前に自らを明け渡した時、
「わたしの小羊を飼いなさい」(21:15)と、イエスは再び、ペトロを弟子として任命したのです。
そして再び、イエスは問われます。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
わたしがあなたを愛しているように、わたしが十字架で、あなたの為に命を捨てたほどの計り知れない神の愛で、あなたはわたしを愛しているか、と。
そして、二度目もペトロは答えます。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
脆くてちっぽけな欠けだらけの人間的な愛です。それでも、あなたを愛していることを、主よ、あなたはご存知です、と。
そして、三度目も、イエスはペトロに問われました。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
イエスに三度、「わたしを愛しているか」と問われて、ペトロは「悲しくなった」(ヨハネ21:17)。
イエスを三度も知らないと言った、どうしようもない自分の罪を想ったからです。
けれども、この三度目に、イエスは、神の愛を表す「アガパオー」ではなくて、ペトロが使った、人間の友情を表す「フィレオー」を用いて、「わたしを愛しているか」と問われたのです。
ヨハネの子シモン、あなたは、その小さな欠けだらけの愛で、わたしを愛しているのだね、と。
そして、ペトロは応えます。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(21:17)
主よ、わたしは、あなたがご存知のように、ちっぽけな人間です。
「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:36)と言いながら、人前で、あなたを三度も否定しました。そんなわたしの為に、命を捨てて下さったのは、主よ、あなたでした。
あなたこそ真の神、わたしのことを何もかもご存じで、わたしの名前を呼んでくださる、わたしの主です。
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)
ペトロのそばに来て、「ヨハネの子シモン」と三度も名前を呼び、イエスを三度否定したペトロの罪を赦し、その痛みと悲しみを拭い、欠けだらけで不十分な愛を受け入れて、もう一度、ペトロを立たしめ、主に仕える者として、務めをお与え下さったイエス。
この方こそ、私達の主イエス・キリストです。
そして、私達は、主イエスの羊なのです。