あなたはわたしに従いなさい
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 3章19節~22節
19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章19節~22節
「あなたはわたしに従いなさい」
創世記7:1-5
Iペトロ3:19-22
I.あなたはわたしに従いなさい
さて、今日の御言葉は、救いについてのセカンドチャンス論の立場に立つ人々が、好んで用いる聖書の箇所で、新約聖書の中でも、非常に難解な個所の一つです。
セカンドチャンスとは、生きている間にイエスを信じることがなかったとしても、死後、もう一度悔い改めるチャンスが与えられるという考え方です。
今のキリスト教会を二分するような、事柄ですから、文脈から、丁寧に見ていかなければ、とんでもない結論に行きついてしまう箇所です。ですから、少しじっくりと御言葉そのものに聞いて参りたいと思います。
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(ver19)。
この解釈は、基本的に三つです。第一が、所謂救いのセカンドチャンス論に立つ人々、即ち、生きている間に、主を信じることがなかったとしても、死んでからもう一度、悔い改めるチャンスがあるのだという考え方です。それが、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(ver19)。という御言葉の解釈です。
ここから、イエスは死者の世界=陰府でも福音を伝えたというのです。ですから、死後にもう一度、イエスの福音を聞いて、悔い改めるチャ
ンスがあるのだと言う立場です。救いのセカンドチャンスがあるのだというのです。福音を聞かずに死んだ、もっと突っ込んで、福音を聞いたけれども、信じないで死んだ、私のおじいちゃんは、どうなるのですか。おばあちゃんはどうなるのですか。
これはよくある質問であり、日本人クリスチャンの間にある思いだと思います。いや福音が伝えられる前に死んだ人々はどうなるのですか。これは、私も良く聞かれたことでした。ですから、この死後にも悔い改めのチャンスがあるのだという、セカンドチャンス論は、日本人の肌によく合うのです。
しかし、イエスが死者の世界にまで行って、福音を伝えたという事を裏付ける聖書の箇所は他にはありません。しかも何故、唐突に、ノアの時代の出来事だけが出て来るのかが、全く説明されていないのです。
第二に、ここで言われていることは、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(ver20)。
即ち、ノアの時代に、神の福音に従わなかった人々の霊達の事だという解釈です。人として、今から2000年前に、お生まれになられたイエスが、それ以前に霊的な状態で、ノアの時代にも福音を伝えていたという解釈です。
しかし、問題は、何故ノアの時代だけなのかということです。アブラハム、イサク、ヤコブの時代に、イエスはそうされなかったのでしょうか。族長時代はどうだったのでしょうか。イスラエル十二部族の時代はどうだったのでしょうか。
ノアの時代だけを唐突に取り上げて、受肉以前のイエスが福音を伝えられた。では他の時代
はなかったのでしょうか。全く筋が通らないのです。そこで第三番目の解釈です。「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(ver19)。問題は、この捕らわれていた霊という言葉をどのように解釈するかという事です。
これは聖書的に考えれば、これは、悪しき霊、悪霊、私達をして、神から引き離そうとする霊のことを表しているのです。
これが一番無理のない、聖書66巻の文脈に沿った考え方です。勿論霊に於いてといった場合、聖霊の事を指すこともありますし、御使いも霊的な存在ですから、そのように理解することもできますし、人間の霊ともいう事が出来ます。
しかし、ここでは、「捕らわれていた霊」と言われておりますから、神の裁きによって、働きがある程度制限されている、悪の霊であるという事が出来ると思います。
この霊達の所に行って、イエスは宣教されたというのです。新改訳2017では、「宣言された」と訳され、新改訳三版では、「御言葉を語られた」と言っています。この訳自体が、イエスが死者の世界で、或いはノアの時代の人々に、福音を語られたという解釈の上に立っているのです。
しかし、実際は、原典のギリシャ語には、「御言葉」という言葉は存在していないのです。「宣言する」という動詞があるだけなのです。しかも、何を宣言されたかまでは書かれていません。
ですから、イエスが死後の世界で御言葉を語られたというのは、聖書の本来の解釈に立てば、明らかなる読み込みです。聖書はそこまでは語りません。
ですから、死後にも、もう一度、福音を聞くチャンスがあるというのは、全く持って、非聖書的な教えであるとしか言いようがないのです。
ではここで、イエスは、何を宣言されたのか、新共同訳によれば、何を宣教されたのか。それは、悪の霊達に対する、裁きの宣言です。そして、勝利の宣教なのです。
実際にイエスが、十字架で死なれた時は、祭司長、律法学者達は、自分達が勝ったと思ったでしょう。悪魔もイエスを滅ぼしたと思ったでしょう。
しかし、そのような目に見えるところとは全く正反対で、イエスは死んで甦る前に、死後の世界に於いて、悪の霊達に裁きを宣言し、勝利を宣言、宣教されてきたのです。
そして三日目に死に打ち勝たられて、甦られたのです。このように理解すると、今日の御言葉の結び、「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(ver22)。この、御言葉にスムーズに繋がって行くのです。
では、私達にとって、何よりも大切なことは、何でしょうか。それは、私の救いです。そして、あなたの救い、あなたが救われたという事です。
聖書はいつも、この神の御言葉を読む、あなたが、どのような応答しますか。神の十字架の愛に、あなたがどのように答えるのですか?いつもそのように問うてくるのです。
福音が伝えられる前に死んだ人々のことは、福音が伝えられなかった地域があるとして、そのような地域にある人々の救いも、福音を聞かずして死んだ、あなたのおじいちゃんのことも、お婆ちゃんの事も、それは、神にお任せすればよいのです。
あの人はどうですか?この人はどうですか?ではなくて、あなたはわたしに従いなさい、聖書はいつも、そう私に、そして、あなたに語りかけてくるのです。FBを見ると、この手の議論は、
よく見ます。しかし、これは本当に不毛な議論で
す。大切なことは、何でしょうか。この聖を読む、あなたが、イエスを誰だと言うのかということなのです。
イエスはいつも、他の人の事ではないのです。あなたはわたしに従いなさいと語りかけておられるのです。
II.ノアの箱舟は教会のモデル
「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(ver20)。
さて、では何故、ペトロはノアの時代に事について、わざわざ言及したのでしょうか。それは、ノアとノアの家族こそが、この書のテーマである、「信仰の故に、苦しみに遭った人たち」というテーマに正に、ぴったりだったからなのです。
彼らは信仰に故に、苦しみに遭いました。実際に炎天下に、神の語られたとおりに、箱舟を造っていたノアは、人々の嘲笑の的となったのでした。
そして、ノアとその家族を苦しめた、神に従わない人々の背後で働いていた悪の霊は、イエスによって、死後裁きを宣言されてしまったのです。 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:12-13)。
ノアは人々に悔い改めを解きました。神を畏れなさいと勧めたのです。罪から離れよと語ったのです。しかし、人々は、ノアの一家を嘲り、蔑み、その結果、ノアとノアの奥さん、子供達、8人だけが救われたのです。そして、その他の人々は、水にさらわれ滅んでいってしまったのです。その背後で働いていたのが、「捕らわれ
た霊達」だったのです。そのような霊達に、イエスは、勝利と裁きを宣言されたのです。
このように、ノアとその家族は、神の御心に従うがゆえに、苦しみに遭う民のモデルだったのです。だからこそ、ペトロは敢えて、死後においても裁きと勝利を宣言されるイエスの姿をここで表したのです。
ノアとノアの家族は、水を通って救われました。そして、このノアのモデルは何でしょうか。お分かりだと思います。これは教会のモデルです。この世界の99%の人々は正に、罪の大嵐の中で、滅びへと向かっているのです。
しかし、そのような中にあっても、教会に来て、主を礼拝する者は、正に水を通るようにして、救われるのです。
ですから、私達は本当に教会を重んじるのです。礼拝を重んじるのです。教会を母として持つ事が出来ない者は、神を父として持つことができないとはルターの言葉です。教会を重んじ、礼拝を重んじる者となりたいと思います。
III.苦難から栄光へ
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(ver21)。
ノアとノアの家族は、「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(ver20)。
この姿は、教会で、洗礼を受けて、救われる人の姿と重なるのです。勿論、洗礼そのものが、肉の汚れを取り除く訳ではありません。私達は主を信じる信仰によって救われるのです。
洗礼は、私達がイエスを信じて、霊的にイエス
と一つにされたことを人々の目に見える形で表しているものです。
ノアとノアの箱舟及び洪水は、苦しみに遭った人々が、主によって、救われることのタイプ、型でした。
そして、イエスは、十字架で正に、苦難を通らされました。しかし、復活をもって、罪と死に勝利された、栄光の主に他ならなかったのです。
ですから聖書は今日の御言葉の結びで、こう語ります。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(ver22)。
イエスは、神ご自身であるにも拘らずまるで僕のように、私達と同じ人間になり、十字架に死に至るまで遜って従われました。そのため神は、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:6-11)。
ですから聖書は今日の御言葉の結びで、こう語ります。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(ver22)。
イエスは人となられた神ですから、人を救おうと思えば、ご自身の御力によって、あっという間に、人を救うことだっておできになりました。
しかし、神は敢えて、一人子であるイエスを十字架にお架けになられて、御子が苦しみを通ることによって、私達に救いが与えられていくという、
実に不思議な救いの道を選ばれたのです。
しかし、今日の御言葉、ver19-22で教えられることは、それだけではありません。イエスの十字架の苦難は、苦難だけで終わりません。
十字架の御苦しみに遭われたイエスは、復活後、天に昇られ、こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえる。
そのようなお方であることが明らかにされたのです。苦難は、苦難で終わらないのです。栄光と勝利に至るのだということを教えられるのです。
私達も又先週も申しました。ともすれば、楽な道を選び取って行ってしまいがちですけれども、苦しみを通って、私達は、栄光に入ることを忘れてはならないのです。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。
私達がイエスに従って、苦難に遇うとしたら、神はそのような私達をさらに高く挙げて下さるというお約束です。このことを、ペトロはこの手紙の初めの所で、明らかにしています。
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Iぺトロ1:6-7)。
苦難からよきものが生まれ、苦難が栄光を齎すのです。私達も又、苦しみに遭うことは多々あり、試練に遭うことも沢山あるのだけれども、それを通しても神は最善の事を成し遂げて下さる、そのことを信じて歩んでいこうではりませんか。
