2025年04月27日「ただ一度の苦しみ」

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ただ一度の苦しみ

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章17節~18節

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17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章17節~18節

原稿のアイコンメッセージ

「ただ一度の苦しみ」
詩編119:71-72
Iペトロ3:17-18

I.ただ一度の苦しみ
 ペトロの手紙第一を貫いているテーマは、クリスチャンの苦しみです。この手紙は、聖書全体の中で僅か7ページしかありません。
 しかし、苦しむとか、試練という言葉が繰り返されているのです。一般的には、18回出て来ると言われています。
同じのような長さの手紙、例えばヨハネの第一の手紙には、このような御言葉は全くありませんし、ほゞ同じ長さのヤコブの手紙には、苦しみという言葉は、二回しか出てきません。

20ページ近くを費やしているヘブライ人への手紙でも、苦しみとか試練という言葉は、11回だけしか出てきませんから、如何にこの手紙には苦しみという言葉が、数多く出てきているかがお分かりになると思います。
 
しかし、それほど人生には、苦しみに溢れているという事もまた事実です。ですから苦しみの中にあるクリスチャン達を励ますために書かれたのが、この手紙です。

今日はイエスが十字架で受けて下さった苦しみについてですが、それを理解するために改めて、前回御言葉に聴きました、ver17からお読みしてまいりたいと思います。
「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(ver17)。
 この御言葉を受けて、ペトロは、イエスが十字架でお受けになられた、苦しみについて、言及しているのです。
 
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(ver18)。

 イエスは、十字架で苦しみを受けられました。それは、両手両足を縛られて、鞭打たれ、釘で打ち抜かれて、唾を吐きかけられ、罵りをお受けになられるというような実に悲惨なものでした。そして、死なれたのです。私達の罪の為に、
十字架で苦しみをお受けになられたのです。

ここで、大切なことは、「罪の為に」ということです。これは、勿論イエスご自身の罪の為にということではありません。
「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」(ver18)。
 
ここでいう、「正しい方」これは勿論、イエスご自身の事です。「正しくない者達」=私達の為に、私達の罪の為に十字架で苦しまれたのです。
本当は私達が受けなければならない、罰を、
イエスは十字架で、私達の代わりに受けて下さったのです。

 ここで、私達が知るべきは、「ただ一度」という言葉です。イエスが十字架で苦しみを受けられたのは、「一度」、「ただ一度」だけなのです。
 
ここでいう身代わりの苦しみは、「ただ一度」だけなのです。何度も、何度も繰り返される必
要がないのです。ただ一度の、十字架の身代わりの死によって、私達の罪の赦しは、完成したのです。毎日のように、身代わりの死を繰り返す必要はないのです。
 
「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(へブル10:10)。

イエスの身代わりの死は、一度だけで十分だったのです。私達の罪を贖う、赦すためには、たった一度の、十字架の死で十分だったのです。それはイエスご自身の内に全く罪を見出す事が出来なかったからなのです。

 完全なお方が人として十字架で身代わりの死を遂げられたので、その御業はった一度で十分だったのです。

 イエスが来られるまでで、罪の赦しのために動物を生贄として献げる儀式は、毎年のように、イスラエルで繰り返されていました。

 人々は、毎年のように、生贄の傷のない初子をもって、エルサレム神殿に詣でたのです。

 ですから、毎年のように、エルサレムを流れる川は、流された動物の生贄の地で真っ赤に染まったと言われているほどなのです。

 しかし、イエスの、たった一度の、十字架の身代わりの死によって、私達の罪は完全に赦されました。

ですから、洗礼者のヨハネは、「自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(ヨハネ1:29-30)。と言ったのでした。
ただ一度だけの、身代わりの死、之こそが、
イエスが真の救い主であることのしるしでした。
II.最善を為される神
「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(ver18)。

 イエスは、肉では死に渡されました。即ち完全に死なれたのです。しかし、霊では、生きる者とされました。

 イエスは十字架で確かに死なれました。そ はまさに、神の御手の中で、死に渡されたという事です。
 
しかし、霊的な領域においては、生かされたのです。これは、端的に言えば、死に打ちかたれて、復活されたという事なのです。

 女達も、十二弟子達も、確かにイエスの、肉体に触れたのです。それは、幻でもなく、夢でもなく、確かに、イエスは肉体をもって、甦られたのです。

 しかし、又、そのお身体は、栄光の肉体をもったものですから、私達が持っているような、朽ちていく肉体とは、また違ったものでもありました。

その一つの例が、エマオの途上で、復活のイエスが、弟子達に会った出来事です。イエスの十字架の死に落胆した弟子達がエマオという村に向かって、歩いている途中、復活のイエスが、彼等に話しかけるのです。

「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24:16)。所が、彼等は、それが本当のイエスだとは分からないのです。

弟子達は、イエスが生きていたときに、どんなに、彼に期待をしていたか、しかし、残念ながら 
祭司長達や議員達に十字架に付けられ、殺されてしまうことを話します。

しかし、復活されたという話を聞いて、肉体を墓に確かめに行ったが、見つからなかった、しかし、天使があの方は、復活して生きておられると告げた事等を、目の前にいるのが。復活のイエスだとは分からずに話し続けるのです(ルカ24:18-24)。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:25-27)。

こうして、イエスの話を聞き、 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、 
二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ34:30-31)。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:19-20)。

「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(Iコリント15:4-6)。

それは、パンを食するような、私達と同じ様な肉体でもありますが、しかし、目の前からすっと消えてしまうようなお身体でもあったのです。

「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Iコリント15:44)。

イエスは完全な肉体をもって、復活されました。しかし、それは、又霊の体でもあったのです。
そして、イエスは何故、そのような霊の体に甦られたのか。それが、「あなたがたを神のもとへ  
導くためです」(ver18)。と聖書は言っているのです。
 

 私達を神の下へと導くため、即ち、私達の罪を赦し、永遠の命を与える為にイエスは十字架で死に、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(ver18)。
 その霊に於いて生きる者とされ、栄光の肉体へと甦えられて、私達に永遠の命を与えて下さったのです。

 この第一ペトロの中心テーマは、苦難であるとか、苦しみです。そして、それは、この短い手紙の中に、僅か5章の、7Pばかりの手紙の中で、十数回も、この苦しみについて、言及されていることからも良く分かります。

 私達は、ともすれば、苦しみのない人生を求めるのです。あなたは、楽な人生と苦しみの人生、何方を選びますかと問われれば、多くの人が、楽な方が良いと答えるでありましょう。

 しかし、聖書は、今日の御言葉で、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(ver17)。と語るのです。

イージーゴーイングな道を選択しやすい私達に、聖書は、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(ver17)。と語るのです。

本来であれば、イエスは人となられた神ですから、人を救おうと思えば、ご自身の御力によって、パッと、人を救うことだっておできになられたかもしれません。

 しかし、神は敢えて、一人子であるイエスを十字架にお架けになられて、御子が苦しみを通ることによって、私達に救いが与えられていくという、道を選ばれたのです。私達はともすれば、楽な道を選び取って行ってしまいがちですけれども、苦しみを通って、私達は、栄光に入ることを忘れてはならないのです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。

 「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119:71)。

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」(詩編119:71 新改訳2017)。

 イエスの十字架は、悪魔から見れば、神の敗北であり、人の目から見れば、実に惨たらしいものでしかありませんでした。

 
しかし、神はそれを逆転されて、十字架によって、人々の救いを成し遂げられて行かれたのでした。

 私達も又、苦しみに遭うことは多々あり、試練に遭うことも沢山あるのだけれども、それを通しても神は最善の事を成し遂げて下さる。
 神をさらに深く知るチャンスとして、神は用いて下さる。そのことを私達は、覚えて行く者でありたいと思います。
 
水野源三さんは、10歳の時に、赤痢という病気に犯され、高い熱の為に、脳を冒されて、体の自由を失いました。元気に外で遊ぶのが大好きだったのに、一日中天井を見つめて、寝ていなければならない。「死んだほうがましだった」
けれども、やがて、話すこともできなくなり、出来ることと言ったら、見ることと聞くことだけ。どんなに苦しい日々だったでしょうか。
 彼にとって、自分の意思を伝える方法は、瞬きだけでした。
 しかし、12歳の時に訪ねてきた牧師の置いて行った聖書を読んで、神のことを知りました。
 18歳になった、源三さんは、お母さんが指す五十音表を見て、瞬きするという方法で詩を作り始めました。
 そして、47歳で天に召されるまで、彼は神へのひたむきな愛と感謝溢れる詩を作りました。
 沢山の詩が私の心に残りましたが、二つの詩をここで紹介します。
 「不思議です」不思議です。不思議です。今尚生かされていることが、悲しみや、苦しみを耐えて来られたことが。主の信仰を保ってこられたことが。天のお父様に感謝するのみです。
 もう一つが「有難う」です。物が言えない私は有難うの代わりに微笑む。朝から軟化も微笑む。
苦しい時も、悲しい時も何回も心から微笑む。
 「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119:71)。

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」(詩編119:71 新改訳2017)。

 私達も又、苦しみに遭うことは多々あり、試練に遭うことも沢山あるのだけれども、それを通しても神は最善の事を成し遂げて下さる。
 神をさらに深く知るチャンスとして、神は用いて下さる。そのことを私達は、覚えて行く者でありたいと思います。

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