2025年04月20日「初めの愛に立ち返る」

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聖句のアイコン聖書の言葉

復活する
1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

「初めの愛に立ち返る」

旧約聖書:エレミヤ書31:3
新約聖書:ヨハネによる福音書20:1-10

I. 開かれた三つのもの
イエスが、エルサレムに入城されてから、十字架架かられるまでの一週間を受難週と言います。私たちは、昨日迄この日々を過ごしてまいりました。

この一週間を英語で言えば、日曜日は棕櫚の日曜日PermSundayと言いますが、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、土曜日は、Holy Monday、Holy Tuesday、Holy Wednesday Holy Thrsday Holy Saturdayと呼びます。

しかし、イエスが十字架にお掛になれた金曜日は、悲しみの日であるにも拘らず、Sad FridayでもBad Fridayでもありません、Good Fridayと言います。

何故、イエスが十字架に架かられた金曜日が、Sadでもbadもない、Good Fridayなのでしょうか。それは、十字架から、いよいよ全人類の救いが成し遂げられていったからです。

そして、その救いは、復活を持って、一つのクライマックスを迎えます。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたも
う一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ver1-2)。
 
十字架の上で、息を引き取られたイエスの体は、香料と一緒に亜麻布で巻かれ、アリマタヤのヨセフ所有のお墓に葬られました。
 
岩を掘って、作られたそのお墓には、大きな石が置かれました。このイエスの体の埋葬は、土曜日の日没前に終わりました。
 
日曜日の朝、未だ日が昇る前の暗闇の中、
イエスを心から慕っていた女性たち、マグダラのマリアと数人の女たちが、イエスの墓に行きました。

この女性たちは、道すがら、あの大きな石を誰が転がしてくれるのか話し合っていました。
 
マグダラのマリア、彼女は、以前は、モーセの十戒の第七戒の常習の違反者、即ち姦淫の罪を犯した女のように言われております。

しかし、聖書が言っておりますことは、イエスから7つの悪霊を追い出してもらった女であるということです(マルコ16:9、ルカ8:2)。

このマグダラのマリアを始めとする、女性達が、イエスの墓に行くと、石が取りのけてあるではありませんか。

この女性たちは、本当にびっくりして、走って、ペトロとヨハネに報告したのです。
これが、イースター、復活の日の朝の朝の基本的な出来事です。

そして、先ず今日の御言葉を読んで行くと、少なくとも、三つの開かれたものを見る事が出来ます。
第一に、墓が開かれました。開かれた墓。
それは、イエスが復活されたという動かす事が出来ない証拠です。イエスの甦りの事実です。

第二に、聖書に心が開かれました。開かれた聖書です。聖書に預言されていた、イエスの来臨の出来事、クリスマスの出来事。

そして、イエスの御言葉の宣教。そして、十字架の死。更には、甦りの意味が空の墓を目の前にして、やっと本当の意味で分かったのです。

第三に、開かれた心です。イエスに、心が開かれたのです。今迄何度も、何度もイエスのメッセージを聞いても、十字架の苦難の意味を聞いても、イエスの甦りのメッセージを聞いても分からなかった弟子達が、イエスこそが、私の救い主だ。私の罪と罰からの救い主だと信じて、人生が、180度変えられて行ったのです。

それは暗黒から光に、闇から光に、死から命へ、滅びから永遠の命への変化でした。

特に、マグダラのマリア、彼女は、聖書が言っておりますように、イエスから7つの悪霊を追い出してもらった女性でした(マルコ16:9、ルカ8:2)。

彼女は、何か特別な形で、悪霊に憑かれていた訳ですが、イエスによって、解放してもらいました。そのことに対して無限の感謝を主に持っていました。
 
言い換えれば、弟子達の中で、この女性ほどイエスを愛していた人はいませんでした。彼女ほどイエスのために何かをすることを、厭わない人はおりませんでした。

正に、彼女は、開かれた墓を見ました。そして、聖書に心が開かれました。そしてイエスの来臨の出来事、クリスマスの出来事の意味を悟ったのです。更には、イエスの御言葉の宣教。そして、十字架の死。そして、甦り。それが、私のためだと分かったのです。

だから彼女は、イエスのために十字架のもと
に最後までとどまり、お墓には最初に着ました。彼女は、イエスから多くを愛されたので、多くの愛をイエスに献げました。主が彼女になしてくださった、真実な愛を表すために、彼女は多くを行ったのです。

私達も又、今日第一に、イースターの朝に墓が開かれた、そのことを本当に信じているでしょうか。

イエスの復活のメッセージに、聖書に心の目が開かれているでしょうか。
何よりも、イエスご自身に、あなたの心は、
イエスに対して開かれているでしょうか。

II. これは幻想?
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ver1-2)。
 
マグダラのマリアは、この暫く後に、甦りの
イエスに出会い、「わたしは主にお目にかかりました。」と弟子達に語り、イエスが話されたことを弟子たちに伝えているのです。
 
しかし、何とかイエスの復活を否定してしまいたい人々は、イエスの甦りを否定するために、イースターの出来事から現代にいたるまで、実に様々な仮説を立てた訳でした。

 例えば、イエスの死体を弟子達が来て盗んで、イエスは甦ったのだと弟子たちが言い広めたという考えであるとか、実は、イエスは十字架で死に切れておらず、気絶していたのを、お墓の冷たい空気に触れて、蘇生したのだという人もいます。

更には、イエスの甦りは、マグダラのマリアの幻想だ、思い込みだという人々もいるのです。彼女はイエスに会いたいと思い続けていたの
で、人々にそれを伝え、それが噂になったというのです。

しかし、今日の御言葉からはっきりとわかることは、マグダラのマリアですらも、イエスの甦りを期待していなかったというということなのです。

マグダラのマリアは、ヨハネに対して、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
(ver2)。と言っているのです。
 
幻覚などではないことが良く分かる御言葉です。マグダラのマリアですらも、イエスの甦りを諦めてしまっているのです。
 
最初にイエスの死体が盗まれたと言わざるを得ないほど、イエスが復活される事等、微塵も思ってもいなかったのです。

 それにもかかわらず、マリアも他の弟子達も、イエスの甦りを信じて、特に弟子達は、殉教の死をもいとわない、福音宣教に邁進して行ったのでした。
これは、正に彼等が動かす事が出来ない、
イエスの甦りの証拠を見たという事に他ならないのです。
 マグダラのマリアを始め、変えられた弟子達の姿にこそ、そして、変えられた、私たち一人一人の姿こそが、イエスの復活の確かなる証拠なのです。
III.初めの愛に立ち返る
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」(ver1)。

 「そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」(ver1)。この御言葉によって、ヨハネ、ペトロ、トマスを始め、歴史の中の、何億、何千万という人々の新しい人生の夜明けとなったのです。
 
 イエスご自身ラザロを甦らせられた時に、墓を
ふさいでいた、石をご覧になられて、石を取り除けよと言われました。
 
そして、その石が取り除けられた時にラザロが生き返ったのでした。

しかし、私たちの側に、もう一つ、取り除けられなければならない、石があるのです。
 
イエスの復活は、私達が信じようが信じまいが、それは歴史的な事実です。イエスの救いの御業は、永遠に不変です。

 しかし、私達の心の中に、イエスの復活を信じようとはしない、不信仰という、石のふたでふさがれてしまった心があるのです。
 
それは自分の罪を認めない、自分の救いの必要を認めない、悔い改めようとしない心です。

 自分の力で生きるのです。自分自身の手練手管で、何とか人生を切り抜けようとする心です。

 神の助けを求めようとはしない、頑な心、自分はイエスを信じないという頑なな心の石です。

 しかし、私達も又、クリスチャンとして、イエスを信じているつもりであったとしても、いつの間に
か、その不信仰な心が、不信仰の石が私たちの心をふさいでしまっていることはないでしょうか。

 そこで、大切なことは何でしょうか。それは、初めの愛に立ち返るということなのです。

「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください」(ヘブル10:32)。

「しかし、あなたに言うべきことがある。あなた
は初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙示録2:4-5)。

 これは、ヨハネ黙示録でエフェソの教会に主が語られた言葉です。私達が、いつも戻らなければならない、クリスチャンの原点とは何でしょうか。

それは、「初めの愛」です。しかし、残念なことに、このイエスに愛された愛、イエスを愛した愛、この原点が、私達の長い~信仰生活の歩みの中で、旅路の中でこの、「初めの愛」を忘れてしまうのです。

神学をする、聖書研究をする、教会のプログラムを整える、それによって、私達は、信仰が高まり、熱心燃え上がるのではないかと期待するのです。

 しかし、そうではないのです。大切なことは、
イエスを信じた時の、この初めの愛に立ち返ることなのです。

イエスとの愛の交わりにある者は、ただ墓が空っぽである、亜麻布が残っているそれだけで信じることができるのです。聖書が全部わからなくても、イエスを信じることができるのです。

どうかイエスを愛した、そして、イエスに愛された、「初めの愛」にもう一度立ち返って、イエスを信じていくものでありたいと思います。

 スイスの神学者カール・バルトが、アメリカで雑誌記者の質問をうけた。
「博士、あなたにとっていちばん大切な神学はなんでしょうか」
 じっと目を閉じて考えていた老神学者は、やがて静かに子ども賛美歌「主、我を愛す」を歌いだした。

「Jesus loves me this I know. so the Bible tells one so」(イエスさまは私を愛し てくださいます。私はそれを知っています。聖書はそういっています)

初めの愛、それは、神がわたしたちを愛して下さった、主イエス・キリストの復活を祝うキリスト教の祭日、イースターにこそ、まさに神の初めの愛が示された時なのです。

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