魂の牧者である方のもとに
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 2章21節~25節
21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
22「この方は、罪を犯したことがなく、
その口には偽りがなかった。」
23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章21節~25節
「魂の牧者である方のもとに」
旧約聖書:詩編23編
新約聖書:Iペトロ2:21-25
I. イエスは不当な苦しみを耐え忍ばれた
ペトロは、奴隷(しもべ)たちに対する勧めの中で、イエスが十字架でお受けになられた、苦難について、語っているのです。
この手紙の2章の最後の数節は、イエスの十字架の苦難が何を意味するのか。それについて語られています。
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ver21)。
私達は、イエスの御苦しみに倣うようにと召されました。今日は、そのイエスの十字架の御苦しみ意味についてです。
イエスの御苦しみ、ゲッセマネの園における苦しみ、それは、「不当な苦しみ」です。イエスはゲッセマネの園で捉えられ、大祭司の官邸に連れて行かれて、そこで、形ばかりの、宗教裁判を受けました。
ユダヤ人の70人議会、当時、ファリサイ派とサドカイ派で構成されていた、サンヘドリンという宗教会議、「最高法院」で裁かれました。
彼等は、どうして、イエスを殺そうとしたのでしょうか。神殿で、特権階級を築いていた、サドカイ派にとって、イエスは、自分達の利益を脅かす存在でした。
一方で、神殿で戒律を教え、律法を解き、人々の宗教生活を、指導していた、ファリサイ人、律法学者達は、イエスは、自分達の権威を
失墜させると思い込んでいたのです。サドカイ派にとっても、ファリサイ派にとっても、イエスは、共通の危険人物であり、共通の敵でした。
しかし、イエスが死刑に当たるという事を証明することは、並大抵ではありません。嘘の証言者を用意しましたが、証言は全部食い違って、決定的な証拠にはなりませんでした。
それに対して、イエスは、その宣教のお働きを通してご自身が神であることを宣言されてまいりました。
「安心しなさいわたしだ恐れることはない」(マタイ14:27)。大嵐の湖で、弟子たちに語りかけ、盲人の目を開き(マタイ9:27-31)、罪人の罪を赦し(ルカ7:48)、中風の患者の罪の赦しを宣言して癒し(マルコ2:5)、更には、私を見た者は、父(神)を見たのだとまで言われました(ヨハネ14:9)。
又ご自身は、安息日の主、即ち神であると迄宣言されたのです(マルコ2:28)。
このように、様々なお働き、御言葉を通して、ご自身が、真の神であることを宣言されました。
更には、私が道であり、真理であり、命なのです(ヨハネ14:6)。ご自身が真理であると迄宣言されました。
最後には、人の子が力ある神の右の座につき、そして、天の雲と共に来るのを見ることになります(マタイ26:63-)。御自身が終わりの時の裁き主であるとまで宣言されたのです。
そして、これ等の御言葉を聞き、様々な奇跡を見た大祭司や議員達は、イエスが神を冒涜していると、イエスに死刑判決を下したのでした(マタイ26:63-)。
しかし、そんなイエスをペトロは、「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」(ver22)。と記しているのです。
これは尊い証言です。ペトロは、三年もの間、イエスと共に寝食を共にしてきました。普通の人間ならば、それだけ一緒にいれば、弱さや欠点や、自己中心的な罪がいやがおうにも見えてきます。
それにも拘わらず、ペトロは、「この方は、罪
を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」(ver22)。と記しているのです。だとするならば、イエスの十字架は、徹頭徹尾、初めから終わりまで、不当な苦しみ以外の何物でもありませんでした。
何よりも不当な事。それは、何の罪もないお方が、十字架に架かられたということです。十字架の死に至るまで従われたという事です。
以前御言葉に聴きましたように、十字架の死にまで従われる。これは、普通のことではありません。何故ならば、1mmも罪のない方が、死ななければならない。
本来、死とは、罪から来る刑罰ですから、罪がないにも拘わらず、十字架で身代わりの死を遂げて下さった。これはまさに奇跡であり、神の愛以外の何物でもなかったのです。
「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」(ver22)。正にイエスは、私達の為に、不当な苦しみを受けられた
イエスは、その不当な苦しみを耐え忍ばれました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ver23)。
普通ならば、十字架に架けられれば、自分を十字架にまで、かけた人を呪うでありましょう。これが普通です。
しかし、イエスは、今際の息の中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。祈られました。
またご自分を、十字架という恐ろしい刑に遭わせた、神を呪うことも恨むこともありませんでした。寧ろ、最後まで、「正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ver23)。そして、十字架の上では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。と叫ばれました。イエスは、最後まで神に対する信頼を最後まで持たれていました。そうでなければ、「わが神」と叫ばれることはありませんでした。
そして、十字架の最後の言葉は、「父よわたし霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。最後の最
後まで、イエスは神に委ねて人生を締め括って行かれました。正に、耐え忍ばれた苦しみでした。
イエスは誰の為にその苦しみを耐え忍ばれたのでしょうか。それは、あなたのために、イエスは、その苦しみを耐え忍ばれたのです。
あなたが生きる為に、あなたの罪が許されるために、あなたに永遠の命を与える為に、そして、あなたが神の子となるために、イエスは、十字架の苦しみを耐え忍ばれたのです。
II.魂の牧者のもとに帰ったのです。
さて、人は変わります。イエスが最初に、人の子は多くの苦しみを受けて死ぬとお語りになられた時、真っ先にそれに激しく反論したのは、ペトロでした。
救い主が苦しむなどという事を彼にとっては受け入れがたい事でした。しかし、その約30年後、彼はこの手紙を書いて、嘗ての自分に反論しているのです。
この手紙は、5章からなりますが、どの章にも、メシアの苦しみ、メシアの苦難が記されています。特に、ver24-25は、イエスの十字架によって、齎される二つのことについて記されています。
第一に、「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ver24)。
この手紙の読者の多くは、召使です。これは、奴隷です。ですから、彼等は、本当にリアルに、鞭で打ち叩かれた経験もありました。主が十字架で打ち叩かれたように、全身があざだらけの人もいたと思います。
ですから、ペトロは、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ver24)。と書いたのです。
この手紙は、基本的に、苦難の中にある人々に対する、慰めの手紙です。それは繰り返し、
この手紙の中で語られています(1:6)。(3:14)。この手紙の読者達は、毎日毎日、苦難の中に置かれていました。
ところが、驚いた事に、苦しみの中にありながら、彼等の内には、喜びがありました。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(1:8)。
どうして、そのような喜びがあったのでしょうか。そして、それは、「あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(1:9)。突き詰めて言うと、私は救われている。私は救われた。その喜びなのです。
確かに、苦しみはあります。しかし、彼等は、真の神を知るようになった喜びを経験していました。
十字架のイエスを仰いで、自分達が、どれほど神に愛されているのか彼らは経験していたのです。神がどれほど、大きな犠牲を払って、救いの道を用意して下さったかを知っていたのです。
しかし、これは、二千年前の、召使達、奴隷だけではありません。今の時代に生きる、私達もそうなのです。苦しみの中に遭って、神が私達の魂に触れて、慰め、癒しを与えて下さるのです。
イエスが与えて下さる救いは、魂の救いのみならず、人生を根底から救い上げて下さる。あなたの人生を全人格的に、回復させて下さる救いです。
私達の魂が救われて、永遠の御国に行くことができる。それだけではありません。私達がイエスを信じて行くときに、生きる意味を見出し、学ぶ意味を見出し、働く意味を見出す事が出来るのです。
私達は偶然に生きているのではない。生かされていのだ。生かされている限りは、あなたでなければ、為す事が出来ない、人生の目的、人生の使命があるのだと聖書は語ります。
何故、私達は、イエスを信じて行くときに、そのような人生の意味を見出す事が出来るのでしょうか。それは、私達の人生を根源的に不幸にしている罪が赦されるからなのです。ではその罪は、どうやって許されるのでしょうか。どうやって、癒されていくのでしょうか。どうやって、その罪の根源が癒されたのでしょうか。
自分で自分の罪を取り除くことはできません。しかし、イエスが私達の為に、御自身の血を流して、御自分の命を犠牲にして、私達の罪をその身に負い、見事に、私達の罪を赦して下さった。取り除いて下さった、私達は癒されたのです。
そして、私達はただ生きているのではない。生かされているのだ。神によって、その使命を果たすために、生かされているのだ。そこにこそ目が開かれて行くのです。
私達は、根柢から、全人格的に、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ver24)。のです。主の打たれた打ち傷によって、私達は癒されたのです。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(ver25)。
神に出会う前の、私達の姿をペトロは次のように語りました。少し先です。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」(一ペトロ4:3)。
私達人間は神のかたち、神のイメージに造られていますから、魂の牧者である神を失った状態というのは、正に羅針盤のない船で、大海原を行くようなものなのです。
何処に行くか分からない。何をしても、空しい、心が満たされることがないのです。
大学時代の私は、夜遅くまで渋谷センター街で飲んだり、正に酒におぼれ、刹那的な快楽にふけったり、深夜のゲーム喫茶に入り浸って、気を紛らわしていました。
しかし、それは何処までも一時的なものでしかなく、一人大学の寮に戻って、部屋の電気をつけたときのあの虚しさよ。本当の平安など、到底持つことができないのです。しかし、そのような私が魂の牧者であるイエスの下に帰ることができました。いや誰でも、帰る事が出来ます。
そして、魂の牧者である神がどんなお方なのか。イエスは私達に教えて下さるのです。
真の牧者は、迷った、魂を追い求めて下さるお方です。99匹を置いてでも、迷った1匹を探し出して下さるのです。あなたを、そして、私を、十把一絡げではありません。5羽幾らで売られていたような、当時の雀のような価値のない存在ではなく、本当に掛け替えのない存在として、扱って下さるのです。
そして、神は名前を呼んで、私たちを集めて下さいます。教会へと集めて下さいます。何よりも私達を探し出して、ご自身のもとへと集めて下さるのです。良い牧者は、決して羊を独りぼっちにはしません。
そして、神は癒して下さいます。人生に傷ついた、私達に語りかけ、御言葉を通して、慰めを与えて、私達の傷を包んで下さるのです。
そして、私達の人生の罪を何よりも赦し、癒し、永遠の命への道へと導いて下さるのです。
そして、神は私達を良い牧草地に導き、養って下さるお方なのです。私達は、このお方の下に帰るのです。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる」(詩編23:1-3)。言われている通りです。
そして、ペトロは最後に、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(ver25)。
「監督者」=「守護者」です。私達を十把一からげに見るのではありません。一人一人に目を留めて、大切に扱って下さる。そのような意味があるのです。
ひとりひとりに愛の目を注いで下さり、折角魂の牧者であるお方の元に戻った私達が、二度と迷いでることがないように、心を注いで下さるのです。
私達は、イエスを信じて、このような神の下へと立ち返ったのです。
私達は、イエスに会う以前は、「あなたがたは羊のようにさまよっていました」(ver25)。神に背を向けた状態は、どうしようもない、不安、どうしようもない、空しさ、そして、何よっても心が満たされない状態でした。
しかし、そんな私が魂の牧者であるイエスの下に帰ることができました。そして、永遠の命の恵み、今行かされている意味、今学んでいる意味、そして、今働いている意味を見出す事が出来るようになりました。
主は全人格的に、私達の人生の根底から、私達の人生全領域において、私達を癒し、回復させて下さるお方です。「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(ver25)。魂の牧者であられるお方の下に立ち返って、真の安らぎを体験して頂きたいと思います。
