「いつ信じるの?今でしょ!」
旧約聖書:列王記上8:27-30
新約聖書:使徒17:22-34
I.創造主
今日の御言葉は、ギリシャ文化の花咲く都、アテネにおける、パウロの伝道の姿について、語られている所です。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」(ver16-17)。
しかも、それは、「知られざる神」(ver23)。という、正体不明の神を拝んでいる現実でした。そこでパウロは、憤って、哲学者、裁判官、貴婦人たちを前に、アレオパゴスという評議所で行った説教が、ver22以下に記されているのです。
「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(ver22-23)。
この、語り出しはギリシャの雄弁術の語りだしそのものなのです。まずは、「アテネの皆さん」(ver22)。と言う呼びかけで、文化都市・自治都市、アテネのプライドを巧みに取り上げています。「あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを」(ver22)。この御言葉は、「神々を恐れる」という形容詞の比較級です。つまり、人並み以上に、神様を恐れている人たち、という意味なのです。
沢山の神々を拝み、作り得る限りの、象でもまだ、表しきれない、知られない神にすらも、お供えをする、ある意味、何でもありの、信心深さですが、正に神々のラッシュアワーですが、それは同時に、アテネの人々が、自分自身の宗教に、それだけ自信を持てなかったということです。
では、あなた方が、知らないで拝んでいる、神について、お知らせ致しましょう。パウロは、アテネの人々の、宗教性を取り上げて、自分自身の土俵に引き入れているのです。
外国の神々ではありません。あなた方が、知らずに拝んでいる、お知らせしましょうと、パウロは言っているのです。では、その神とは、どのような神なのでしょうか。
「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(ver24)。
ストア派の人々(ver18)は、汎神論ですから、神々は、この自然の中に、満ち満ちているのですから、世界即神なのです。ですから、当然のことに、創造など教える事はないのです。また、エピクロス派(ver18)は、隠居した神を教えます。人間世界に煩わされる事がない、静かな無関心の神を教えているのです。
その他の様々なギリシャの神話は、神々の誕生や出産などは語るとしても、神の創造は語りません。ですから、アテネの人々にとって、創造の神は、全く初めての事であったのです。
「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(ver25b)。
第二に、神は、私達に命と息を与えて下さるお方、私達の存在の源なるお方なのです。
第三に、 「神は、一人の人からすべての民族
を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(ver26)。
アテネの人々は、アテネの人たちと呼ばれる事に大変な誇りを持っていました。そして、人類は、自分たちアテネの人々と、他の野蛮人しかおりませんでした。ですから、パウロは、これによって、アテネの人々の偏見を取り除き、聖書の神は、ユダヤ人も、異邦人もない、ギリシャ人も、未開の人々もない、全ての民族の起源は一つ、即ち、創造主なる神によるのだ。そのことを、パウロは、語ったのです。
そして最後に、「地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(ver26)。
季節とは、設定された諸々の時というギリシャ語です。これは、昼と夜のけじめをつけるとか、勿論、春夏秋冬という、季節の移り変わりを指します。居住地の境界定めるというのは、国境ともとらえることができますが、海と陸の境、山と川の境、人間の住み分けをしておられる。そのようにして、人間が安らかに、人生を営みながら、神を求める宗教生活ができる。そのことを、神は言われたかったのです。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ローマ信徒への手紙1:20)。
このように、神は全世界の創造主です。この世界には、作者である神の、指の跡が滲み出ているのです。また更には、私達の存在の源なるお方です。神は恵の源であるお方です。私達は、神を離れて、人生を歩んで行くことはできないのです。
神を信じ、神と共に歩むときに、私達は、本当に充実した人生を送ることができるのです。そして神は、全人類に平等に、全歴史のどの時代にも、神であられた訳ですし、
「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです」(ver28)。
実際に神は、私達一人一人から遠く離れてはおられないのです(ver27)。このように神は生きておられる神なのです。私達が、神社仏閣に詣でなければ、拝む事ができないようなおかたではありません。いつでも、どこでも、私達と共にいて下さり、全てを御手の中に治めておられるお方なのです。
II.出会って下さる神
では、何故、この創造主が、「知られない神」に成り下がってしまったのでしょうか。私達の近くにいてくださる神が、「知られない神」に、成り下がってしまったのでしょうか。パウロにとって、神は知る事ができる神なのですが、だからと言って、今まで知られてきた神であるという訳ではありません。
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(ver30)。
確かに、私達が神を知らないのは、「無知」が原因です。しかし、この無知は、神に原因があるのではありません。神はご自身を現しておられたのです。
しかし、人がそれを知ろうとはしなかったのです。そして、今迄は、その無知を、神は大目に見て下さっていた。これは、見過ごしてくださったというギリシャ語ですが、今こそ、人は悔い改めるべきなのです。無知は、人の責任、人の罪なのです。
「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」(ver24-25)。
これは、所謂エピクロス派に対する論駁です。神は、隠居の神、世界や人間には無関心で、永遠の静寂を楽しんでおられると、エピクロス派は教えているのです。
しかし、これとは違った意味で、矢張り神は、人を当てにはしておられないのです。世界を当てにはしておられないのです。
パルテノン神殿のような、手で作った宮にお住まいになられることもありません。ましてや、知られない神に、と刻まれた祭壇に、供え物を積んで、もらう必要もないのです。これはストア派の人たちも、納得をするでありましょう。
「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです」(ver28)。我らもその子孫である。
これは、クレテの詩人、エピメニデスとストア派の哲学者、アトラスの言葉ですが、このように、信じている神であるならば、
「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」(ver29)。
このような異教徒の詩を用いてでも、唯一の神を論証するために、彼らの思考の懐に飛び込むようにして、これらを、転用、流用しているのです。
正に福音の為ならば、何でもする(Iコリント9:23)、パウロの柔軟さが分かるのです。福音の弁明の為ならば、時には、異なる文化遺産をもパウロは用いようとしたのです。
パウロは、あなた方の詩の中にさえ、人は神の子であり、被造物ではないかと、言っているではないか。うまく用いたのです。 「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(ver27)。
パウロは何としてでも、人々に神を伝えようとしたのです。しかも、神は、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられないお方であるにも拘らず(ver27)、人々に知られなかった。何故でしょう。それは的外れの方向に、神を求めるからなのです。
手で神のために宮を作る。祭壇を手当たり次第に築く、金や銀の神の象を作ってきた。正に偶像礼拝に陥っていたのです。しかも、偶像礼拝に陥っていただけではなくて、
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:11-14)。
私達によき計画を与え、求めるならば出会って下さると言われた、父なる神を、「知られざる神」と呼んで、諦めてしまっているのが、アテネの人々の問題だったのです。
宗教とは、一言で言えば神との人格的な交わりです。神は、私達と、人格的な交わりを求めておられるのです。それにも拘らず、私達は、ともすれば、様々な偶像を作って満足しているのです。呼べば応えて下さる神を信じているでしょうか。その神を求めているでしょうか。
II.いつ信じるの、今でしょ
しかし、このように、神がご自身を現され、人間と人格的な交わりを持とうとされ、私達が、本当に神を求めようとすれば、出会って下さるにも拘らず、私達が、それを、「知られざる神に」と言っているようであれば、 「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」(ver31)。
裁きの日が有る筈なのです。だから、神は、悔い改めを命じておられるのです(ver30)。
そして、その悔い改めは、「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(ver30)。
今、信じるように、今悔い改めるように、神は、求めておられるのです。そして、その終わりの日の裁きの確かさは、「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(ver31b)。
イエスの、そのご復活によって、確かなものとされるのです。しかしです。この、復活の話を聞いたときに、「ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った」(ver32)。と、聖書は言っています。
この反応は、今の日本も、そして、二千年前のアテネも変わりはありません。
第一は、あざ笑う人々です。そのことの確証を、聖書を通して、自分で調べもせずに、先入観と偏見によって、あざ笑う人々です。
第二が、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(ver32)。いずれまた、という人々です。定年退職をして、もう少し時間ができたら、子供に手がかからなくなったら、年を取ったら、そのとき、いずれまた聞かせてもらう事に
しようという人々です。しかし、結局、そういう人にとっての、いずれまた と言うその時は、永遠にやって来ないのです。
しかし、必ず第三番目の人々がいるのです。 「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」(ver34)。
圧倒的な多数ではないかもしれません。しかし、どんな時でも、主に従っていく、第三番目の人々、皆さんのような人々が必ず、いるのです。
ですから、今という時に、私達が取り得る態度は、この三つの内のどれかなのです。
今迄と同じように、無知と怠惰に甘んじて、余りよく調べもせずに、確証も得ずに、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」(ver18)。と、頭からあざ笑う人々、自分の信念に凝り固まって、それを曲げようとはせずに、精々キリスト教は外国の神々を宣伝しているらしい(ver18)、程度で、いずれまた聞くことにしよう、その様に言って、二度と福音に触れようとしない、その様な人々もいるのです。
しかし、第三番目、たとえ多くはなかったとしても、罪を悔い改めて、主を信じて、従っていく、この福音は、他の誰のためのものでもない。私のためのものだ。今信じる人々もいるのです。そうすれば、主は必ず貴方に出会って下さる。求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば、見つかります。門を叩きなさい、そうすれば、開かれます。
どうか、今主を信じて、従っていって頂きたいと思います。いつ信じるの?今でしょ!!