2025年03月02日「その使命に生きるとき」

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その使命に生きるとき

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章11節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

神の僕として生きよ
11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
召し使いたちへの勧め日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章11節~17節

原稿のアイコンメッセージ

「その使命に生きるとき」
旧約聖書:イザヤ書49:14-16
Iペトロ2:11-17            
I.その使命に生きるとき。
 今日は、この地上で市民として、どう生きるかという事についてお話をしたいと思います。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(ver11)。
 ペトロは、ここで、この手紙の宛先人を「愛する人たち」と語ります。これは、「神が愛されている人々」、「神に愛されている者達」と広い意味で、解釈する事ができます。
神はあなたを愛しておられます。人生には様々な時があります。うまくいくときもあれば、残念ながら、うまくいかないときもあります。
しかし、そのような状況の如何に拘わらず、私達は神に愛されているのです。ともすれば、私達は辛い所を通れば、神は私達の事を見捨ててしまわれたのかと思うこともあります。
しかし、先程読んで頂いた、イザヤ書49:15、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49:15)。私達が、どのような状況を通らされていたとしても、私達は、神に愛されているのです。
そして、私達がまず、心に留めたいのは、私達は、この地上に於いては、「いわば旅人であり、仮住まいの身」(ver11)、であるということです。私達は、この地においては、旅人であり、仮住まいの身なのです。
私は、時々、沖縄に行きます。嘗て宣教した街です。志半ばで戻ってきたとはいえ、第二の故郷のような思いがあります。
 沖縄に行けば、本土とはまた違った、時間の流れがあり、懐かしい牧師達との再会があり、いつも温かく迎えてくれる友達がいるのです。非常に有意義な、楽しいときを持つ事ができます。しかし、どんなに有意義であったとしても、あくまで、旅は旅なのです。あくまで旅先であって、その町は、小平なのではなく、我が家ではありません。羽田について、西武線に乗って、花小金井駅につくと、ほっとします。
それは、沖縄では、私はあくまで、旅人だからです。そこには私が住む家がないからなのです。どんなにきれいなホテルでも、そこは仮住まいでしかないのです。
私達にとって、この地上は、ほんの一時の旅なのです。ここにずっといる訳ではないのです。ですから、そこに、永住するように、生きていてはいけない。そして、このことを前提として、聖書は、一つの勧め、一つの命令を語ります。一つの勧めとは、「魂に戦いを挑む、肉の欲を避ける」ということです。肉の欲、これは突き詰めると、それが神以上になるとき、それが、お金であれ、名誉であれ、物であれ、それは、全て、私たちにとって、「肉の欲」になるということです。
そして、それらは、皆、地位であれ、権力であれ、お金であれ、物であれ、何であれ、私達は、心惹かれやすいものです。あっという間に、神より上に来てしまいます。
 私が若かったころ、ある宣教師から言われました。神が第一、家族が第二、働きが第三、そうすれば、あなたの働きは祝福されますと。「肉の欲」を避けることは、大きな祝福秘訣です。
一つの命令、それは、「異教徒の間で立派に生活をする」ことです(ver12)。「異教徒」これは、クリスチャンではない人々のことを指します。
本当に残念ながら、日本のクリスチャンは、少
数派です。中国でもクリスチャンは5%、約一億人、お隣の韓国は、25%がクリスチャンです。 
確かに日曜朝の、ソウルは、聖書を持った多くの人々が歩いていました。日本は、カトリックと合わせても、厳密には、1%もいないでしょう。毎週礼拝を捧げている人はもっと少ないでしょう。この聖書の時代の、クリスチャンは、異教的な様々な習慣、異教的な神を拝む、更には、皇帝礼拝などを拒否して、本当に迫害されました。ですから、ペトロは、「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」(ver12)。と励ましたのです。
 この日本で、クリスチャンとして立てられていることは、素晴らしいことです。神がこの日本に、私達をクリスチャンとして立てて下さっている以上、必ずや、あなたでなければできない、使命があります。
その使命のために、私達は生かされています。そして、私達がその使命に生きるときに、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」(ver12)。周りの人々は、神をあがめることになるのです。
II.人生の全領域の主 
 では、立派にふるまうとはどういうことでしょうか。もう少し、詳しく見ていきたいと思います。それは、具体的に言えば、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(ver13)。ということです。
私達クリスチャンのこの地上の歩みは、寄留者としての歩みです(ver11)。
しかし、達は又今の時代の日本で、この国家の中で生きていることも又事実です。日本国憲法によって、様々な事柄を保障され、地方自治体から様々な恩恵を受けて生きているのです。これは、クリスチャンであっても一緒です。
 当たり前ですが、毎年税金を納めます。先日も、源泉徴収票を基に、東村山税務署に確定申告をしてきました。これは市民としては当然のことです。しかし、キリスト教の歴史の中では、この当たり前を、当たり前と思わない人々もいました。特にこの聖書の時代、非常に熱狂主義的な人々がおり、神を信じていれば、この地上の国家体制など、どうでもいい、そんなものに従う意味はない。
現実的な社会生活を否定して、ただただ霊的な世界に集中して、ただ福音だけを伝えていく、私達には永遠の命があるからそれでいい、そのような一派がいたのです。しかし、これは又現代の日本でも同じような熱狂主義者がいることもまた事実です。
ですから、ペトロは、こういう現実を目の前にして言いました。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(ver13)。これは、新約聖書を貫く不変の真理です。
「従う」という動詞は、それが神の立てられた秩序であって、従うか否かを人間の自由意思によって決めるという意味ではなく、秩序は何処までも、神が立てられたものだから、そこには神に従う姿勢が求められるということです。これが、(Iペトロ2:13-17)。の真意です。
クリスチャンは、人間の立てた制度に従わなければならない。聖書は明確に語ります。それは、国家にせよ、地方自治体にせよ、基本的には神の御許しがなければ立つ事はないからなのです。
ですから、私達は基本的に自分の良心に従って、それに従いなさいと、ペトロは言っているのです。
そして、「従う」ということは、広くあなたの上に立てられている権威についても言えることです。会社の上司であれ、学校の先生であれ、あなたの夫であれ、父親であれ、母親であれ、教会で言えば、牧師であれ、長老であれ、あなたの上に立てられた権威に従うことは、神が願っておられることなのです。
それは、彼らもまた神の許しをなくしてそこに立つことができないからです。神の憐れみによって立てられて権威だからなのです。だから、 
私達は基本的に従うべきなのです。しかもそれが、あなたの益になる事なのです。
しかし、一方で一つの疑問が沸いて来ます。
キリスト教は、どんな国家権力でも服従してしまうのか。社会悪ですらも肯定してしまうのかということです。私達は、社会的に悪であるような、権威に対しても、従うべきなのかということです。決してそうではありません。
イエスが人間の立てた制度について、どのように考えておられたのか、良く分かるお話が、新約聖書にあります。ファリサイ人達が、ヘロデ党の者と共にイエスの下に、自分の弟子達を遣わして、こびへつらいの言葉を並べてから言うのです。
「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」(マルコ12:14)。
それに対して、イエスは彼らの心を見抜いて言われるのです。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」(マルコ12:15)。
そして、彼らが銀貨を持ってくるとイエスは言うのです。「これは、だれの肖像と銘か」(ver16)。そして、彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言うのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。これが有名な、「カイザルの物はカイザルに、神のものは神に返しなさい」という御言葉です。
ここにイエスの、人の立てた制度、ここでは、国家ですが、国家に対する考え方を見ることができます。イエスは基本的に国家を認めておられました。人間の立てた制度を認めておられたのです。
しかし、だからと言って、イエスは、人間の立てた制度を神と全く無関係に存在するものであるとも考えておられなかったのです。「皇帝のものは皇帝に」(マルコ12:17)、とイエスが言われた意味は、神が世界を支配されている秩序の下、世界諸国家が存在することが許されているのである。だから、国家に対しても私たちは義務を負っているのである。そう言う訳で、イエスは、「皇帝のものは皇帝に」(マルコ12:17)、と言われたのです。ですから、イエスは闇雲に、人 
間の立てた制度ならば、国家なら全て受け入れなさいと言われたのではありません。
例えばヘロデが神に反逆して、神の民を迫害してイエスをも迫害しようとしたときには、イエスはヘロデを、「あのキツネに言いなさい」(ルカ13:32)と言われヘロデの国家運営を徹底的に批判されました。ファリサイ人、律法学者達の国家運営が神の御心に逢わなければ、それを正す道をイエスは示されて行きました。
ですから、イエスが、「皇帝のものは皇帝に」(マルコ12:17)、と言われた時に、何でも良いから、国家の言うことを聞きなさいとは言われなかったのです。私達は、イエスを信じる信仰による原理原則に従って、人間の立てた制度に従っていくべきなのです。
そして、ここで問題となってくるのは良心です。キリスト者は、自分の意思を殺してまで、良心に背いてまで、盲目的に服従するのではなくて、要求されている事柄について、十分に批判的に考えて、それが本当に正しいかどうかを判断した上で、従うか否かが求められるのです。
二十年ほど前に、天に帰られた、青葉台教会の前々牧師の、宮田牧師は、美濃ミッションのご出身でした。美濃ミッションは戦時中に大きな弾圧を受けた教派でした。
美濃ミッション経営の幼稚園の生徒達が、神社参拝を拒否して、信徒の子供達が伊勢神宮に詣でる修学旅行を拒否したことから、大垣市民全体が、国体擁護のために美濃ミッションを廃絶しましょうという、運動
を展開したのです。廃絶のポスターが町中に貼られて、遂には美濃ミッション廃絶の歌まで作り流され、幼稚園は廃園に追い込まれました。しかし、もっと厳しかったことは、大垣市内の他のキリスト教会が、彼らのキリスト教と自分達とは違うと、美濃ミッションを見捨ててしまった事です。しかし、そのような中にあっても、美濃ミッションの先生方は、国家が間違っていると、警鐘を鳴らし続けていかれたのでした。
私達は只闇雲に、国家に迎合すればよいというのではないのです。国家に対する見張り台 
として、国家に警鐘を鳴らしていく事もまた、私たちに求められることであると思います。
 そして、私達が国家に、上に立つ権威に従うために、大切なことは、相反するようですが、「自由」という言葉です。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(ver16-17)。私達は、誰の奴隷でもありません。誰にも、何も、強制されることは
ありません。しかし、自由と放縦は違います。好き勝手に、したいことを、したいときにする自由ではありません。
ですから、ペトロは、「その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(ver16)。と言ったのです。
人を支配する自由ではありません。人を傷つけても構わないという自由ではありません。勿論、クリスチャンは自由です。しかし、神の僕なのです。いやむしろ、神の僕であるからこそ、その他の事柄から全く自由なのです。神に従う時、神に自分を明け渡していくときに、私達は、罪の力から解放されます。そして、本当の意味で、自由になります。
言葉としては、矛盾していますが、これは真理です。神の僕になるときに、私達は、自分のプライド、自分の恐れ、自分の不安から解放されて、心の自由を得るのです。
しかし、神に従うことをやめるときに、私達は、これ等の事柄に捉えられて行ってしまうのです。自分のプライド、自我の奴隷となって、不安の虜になってしまうのです。
ですから、神の僕になるときに、私達は、全ての人を敬い、兄弟を愛し、皇帝を敬うことができるのです(ver17)。私達は、永遠の御国を知るクリスチャンとして、今の時代の、この日本に生かされているのです。そして、私達が信じる神は、この世界の全領域の主であると信じているのです。ですから、今の時代のこの日本に於いて起こってくる様々な問題は、私達一人一人の問題でもあります。私達一人一人は確かに小さな存在でしかないと思います。大きな働きはできないかもしれません。しかし、上に立てた制度に従うことによって、神に仕えることができるのです。
そして、何よりも、クリスチャンとして、上に立てられた制度のために祈る事ができます (Iテモテ2:1-3)。人間の立てた制度のために執り成しの祈りをすることができるのです。そうやって私達は又神に仕えることができるのです。
今年も二か月以上が過ぎました。新しい年日本は、一体どこに行こうとしているのでしょうか。2024年10月だけで、1515人もの人々が自死しました。恐らく年間では、昨年2万に以上の人々に上ります。虐待も、目に余るものがあります。
今の日本格差社会が益々広がっています。一億円以上の貯蓄を持つ人が140万人以上もいる一方で、年間200万円以下の収入しかない人が何と1,700万人もいるのです。
これが我が国日本の現実です。「自助努力」の名の下、社会福祉がセーフティネットとして機能しなくなっているのです。非常に冷たい社会になってしまったのです。
この現実の中で、私達クリスチャンができることは何でしょうか。神に仕える心をもって、人間がたてた制度に従うことです。そして、為政者たちが正しい道に歩めるように祈り、敬うべきものを敬うことではないでしょうか。
エリヤの時代北イスラエル王国は、妻イゼベルによって唆されたアハブ王によって、国全体がバアル崇拝に引き込まれそうになりました。その時に神は、預言者エリヤを起こされて、神はその祈りに答えて、バアルに膝を屈めない七千人を残しておかれたのです。そしてイスラエルはやはり神の国であることを証明して下さいました。今日神は、私達クリスチャンにそのような祈りを、期待しておられるのです。新しい年、上に立つ制度のために、執り成しの祈りを捧げながら、敬うべきものを敬いながら、お互いの為にも執成し合いながら、愛し合いながら歩んでいこうではありませんか。

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