2025年02月23日「失望することはない」

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失望することはない

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章4節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 6聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
シオンに置く。こ
れを信じる者は、決して失望することはない。」
7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」
のであり、 8また、
「つまずきの石、
妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 10あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章4節~10節

原稿のアイコンメッセージ

「失望することはない」

旧約聖書:イザヤ書53:1-5

Iペトロ2:4-10


I.失望することはない

前回私達は、捨て去るべき、五つのこと、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を断固として捨て去りなさいと、御言葉に聞いて参りました。そしてどうしたら、そうなる事が出来るのか、それは生まれたばかりの乳飲み子のように混じりけのない、霊の乳を慕い求める、聖書の御言葉に親しむことを、御言葉に聴いて参りました。

こうして、私達は、愛において成長し、クリスチャンライフは、更に祝福へと導かれて行くのです。

更に、人生には、土台となるべきものが必要です。今日の御言葉は、それが、私達の人生の生きた親石となって下さるイエスであると聖書は語ります。そして、その方のもとに来なさいと御言葉は語ります。そのイエスに連なる人生に、決して、失望することはないということです。

「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」(ver4.6)

日本の立派なお城には、必ず石垣があります。日本の石垣は、不揃いですが、何故形の違う、石を積んでも、お城が崩れないのかと言えば、それは、内部に小石を一杯詰めているか

らだそうです。それによって、水が絶えず抜け

て、石にかかる重圧が、軽減するからだそうです。こう考えると、基礎をなす石垣は、大変重要です。私達の人生も又、人生の石垣、今日の御言葉では人生の親石、新改訳では要石。何を人生の基盤として、歩んで行くのかは大変大切なことです。

マタイによる福音書21:36-以下に、ブドウ園と農夫の譬えと呼ばれるお話があります。葡萄園の主人が、収穫を得ようと、僕達を遣わすのですが、農夫達は、渡してくれないのです。

そして、最後に自分の息子を遣わすのですが、殺されてしまいます。その話の終わりにイエスは次のように言われました。

「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』(マタイ21:42)。

このお話の譬えの通り、イエスは十字架で、人々から見捨てられて、殺されました。正に、『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』(マタイ21:42)。のです。そして、それは、主が為さったことで不思議に見えることでした。そしてペトロは、この言葉を受けて、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(ver4)。と言っているのです。これは、全ての聖書学者が筆を揃えています。

イエスは人の目から見るならば、あまり役に立たない、更には見栄えのしない石でした。

しかし、イエスは神から見れば、神によって選ばれた、尊い生きた石なのです。正に己を、自分を犠牲として、私達の心の中にある罪を、負うという使命を果たして下さったのです。

そしてイエスは、「隅の親石=要石(新改訳)」となったのです。それだけではなくて、イエスは、生きた石ともいわれています。イエスは今も生きておられて、私達に命を与えて、私達を生かして下さるお方です。確かに神は、このお方によって、私達の霊的に死んでいた、命を生かして下さったのです。

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」(ver6)。

私達も又、このお方の上に人生を築き上げて行くときに、決して失望することがないのです。それは正に、確固たる岩の上に、人生を建てる、人生を建て上げていくことになるからです(マタイ7:24-25)。


イエスを私達の人生の親石、要石として、人生を建て上げていく人は決して、失望することはない。何故ならイエスこそが、人となられた真の神だからなのです。だから、私達は、この方の下に行くのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。

そして、イエスの下に行く者は、まことの安らぎを、真の平安を頂くことができるのです。更には、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(ver5)。

主のもとに行く人は、本当の意味で、主によって、築き上げられて、私達も又、生きた石として用いられていくのです。そして、「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、主を通して、霊的な生贄を献げることができるのです」(ver5)。

主に繋がる人だけが、本当の意味で、霊的な生贄を献げることができるのです。「この主のもとに来なさい」(ver4)。ここから力を頂いて霊的新しく生まれる命の中を歩んでまいりたいと思います。

II.神の選びの恵み

さて、キリスト教は、逆説的だと思いませんか。人の先に立ちたい者は、仕える者にならなければなりません。弱い時にこそ、強いのです。神の恵みは私達の、弱さの中に現れるのです。そして、イエスは、人には捨てられました。十字架で神に裁かれました。しかし、そのキリストこそ、神に選ばれた、尊い生ける石でし

た。人々から見捨てられた、十字架によって、私達の救いが実現したのです。

イエスが、神に見捨てられることによって、私達は、神から見捨てられることがなくなりました。イエスが神に見捨てられてしまったが故に、私達は決して神から見捨てられることがない。だからこそ、私達は決して、失望することがないのです。

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」(ver5-6)。言われているとおりです。

そして、ver7は、「従って」という、接続詞で始まります。では、「従って」何だというのでしょうか。

「従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです」(ver7-8)。

この、「石」と呼ばれた、イエスは、イエスを信じて、救われる私達には、掛け替えのない石です。当然、私達のように、この石に感謝して、より頼む人がいる一方で、その大切さが分からない、それを拒否する人がいることもまた事実です。そのような人々にとっては、イエスは、「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。イエスは、余計な存在でしかないのです。

では、なぜ彼らは躓くのかと言えば、それは、「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです」(ver8)。

御言葉に従わないのは、本人の責任です。しかし、そうなるように定められていたと聖書は語ります。ここから、あの有名な「予定論」が出てきます。

カルバンと言えば、予定論というほどに、「予

定論」は有名です。神は永遠の初めから救われる人と、そうでない人を選んでおられたという

のです。ここから、神が全てを予め決めておられるならば、伝道などしても無駄だという人がいます。しかし、私達には、誰が選ばれているのか分かりません。だから、全ての人に、福音を伝えます。下手な鉄砲数うちゃ当たるではありません。この街には、確かに神が選んで下さっている民がいる。だから、安心して、伝道できるのです。

しかし、もう一つ、この「予定論」は、信じた自分にとっては、本当に感謝できるものだということです。確かに私が信じたのは、私が、永遠の滅びから救い出されたのは、神が私を救いに選んでいて下さったのだ。

このように予定論は、神と私の関係の中で考えるものなのです。「予定論」を第三者に当てはめて、あの人は、選ばれている。あの人は選ばれていないと考える事柄ではありません。神は、私達の、髪の毛の数をも知っておられるのです(マタイ10:30)、実際に神は、被造物のことを、全て知っておいでになります。

ダビデは、神に向かって次のように言いました。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くか

らわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」(詩編139:1-4)。

プロポーズあの日に戻って断りたい。これは、綾小路公磨さんの言葉ですが、実際に結婚したことを後悔している方とお話をしたことがありました。「こうなることが分かっていたら、彼を選ばなかった」というのです。これが人間の知性理性の限界なのです。

しかし、神は、私達のことを、良く知らなかったから、分かっておられなかったから、選ばれたのではありません。全てをご存知の上で、私達を選んで下さったのです。

私達の強さも、弱さも、どれ程、自己中心的か、高慢か、私達が何を必要としているか、私達の性格や賜物、私達の全てを神は知っておいでになるのです。ある意味、自分のことは自分が一番よく知っていると言って憚らない、私達以上に、神は私達のことを知っておいでになるのです。あなたのことを、神はすべてご存知の上で永遠の初めに、神はあなたを救いへと選んでくださったのです。ある人が言われました。本当に私は、選ばれているのでしょうか?私は、こうして、イエスを信じてはいますが、選ばれていないのではないでしょうかというのです。

しかし、私達が、イエスを信じていること。こうして、教会の礼拝に集っていること。そして、洗礼を受けたこと。これこそが、永遠の初めから、神が、私達を選んでいて下さっていた、しるしなのです。

III.闇から光へ

ペトロは、新約に生きるクリスチャンを指してこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(ver9)。

「選ばれた民」、これは、神の民イスラエルを指しています。彼らは、民族の父と呼ばれた、アブラハムの子孫でした。

勿論私達は、イスラエル民族と、血縁的につながっている訳ではありません。しかし、主を信じているが故に、私達も又選ばれた民、同じ永遠の命を所有している神の家族です。神に「選ばれた民」なのです。

「王の血統を引く祭司」、祭司は、神と民との間に在って、執り成しをします。私達クリスチャンも、この世と神の間に在って、この世界のために、執り成しをするのです。

しかも、「王である祭司」なのです。私達の王はどなたでしょうか。父なる神です。父なる神が、この世界を治めておられるように、私達もまた、神と共に、この世界に仕え、この世界を治めるのです。

次に、「聖なる国民」です。クリスチャンであっても、確かに罪があります。罪が完全になくなるのは、私達が天国に行った時です。しかし、神は私達が、イエスを信じているが故に、罪は確

かに心の中にあるのだけれども、「聖よい」と言って下さるのです。聖よい存在なのです。

最後が、「神のものとなった民」です。ある方が言いました。クリスチャン、おつけものだと。私達は酢の物。いいえ、私達は主のものなのです。

私達は神の目から見れば、それほどに、尊い存在、掛け替えのない存在、宝の民なのです。「選ばれた民」、「王の血統を引く祭司」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」。クリスチャンは、神の目から見て、これほどの価値があります。これほど、素晴らしい存在なのです。

そして、そのような栄光に富んだ、存在として、神に愛され、受け入れられている、私達クリスチャンに神が期待しておられることは何でしょうか。それは、私達を、これほどまでに愛して下さった、神の愛を伝えることです。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(ver9)。これこそが、クリスチャンの使命なのです。

私達は、「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であるということ。以前は、憐れみを受けなかったけれども、今は憐れみを受けているということ(ver10)。

何よりも、「闇から、光の中に導き入れられたことを(ver9)、証しするのです。人々に伝えていくのです。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(ver9)。

私達が、このような素晴らしい存在とされたということは、自分に与えられた、この特権を、この恵みを伝えるためなのです。

特別な恵みを頂いたということは、暗闇から光へ、招き入れて下さったお方の御業を語っていくためなのです。私の人生がこのように変えられた。こんなにも神に愛されている。この恵みを伝えるために、私達は、神に選ばれたのです。「以前は、憐れみを受けたことのない者であったが、今は憐れみを受けた者となっている。」そういう変えられた、自分を周りの人々に示して

いく、それが、伝道であり、証しなのです。

神が私達に、どんなに素晴らしいことをして下さったのか、どんなに憐れんで下さったのか。それを語ればよいのです。


同じ福音を聞いても離れて行く人がいます。しかし、皆さんのように喜んで、従おうとする人々もいます。本当に不思議なことです。

しかし、これだけは確かです。私達が、救われているのは、永遠の初めからの神の選び、そして、唯々神の憐れみの故なのです。

「あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです(ver10)。


一方的な憐れみによって、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとされた民」としてくださった、何よりも、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」を、どうか、伝えるものでありたいと思います。


日本基督長老四日市教会の堀越暢治牧師は、三十人ほどの会員で会堂を建て、五年かけて借金も返済し終わったが、伝道にいきづまったときのことをこうあかししている。「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない。 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加えるものはいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使18:9ー10) これを読んで、私は自分が……四日市へ来たのがわかってきたのです。私は信者をつくらないといけないと思っていました。でも違う。選びの民がすでにいるのだ。だから、それを呼び出せばいいのだ。これでずいぶん重荷が軽くなりました。私の仕事は呼ぶ仕事だ。

主の民を呼ぶ、こうして、ここから、四日市長老教会と言えば、日本長老教会においても、一、二位を争う、教会へと成長していったのです。

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