2025年02月09日「成長への励まし」

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成長への励まし

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章1節~3節

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生きた石、聖なる国民
1だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 2生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章1節~3節

原稿のアイコンメッセージ

「成長への励まし」
旧約聖書:詩編119:130
Iペトロ2:1-3            

I.混じりけのない霊の乳を慕い求めて
 さて、クリスチャンとは、イエスを救い主と信じて、神から新しい命を頂いて、歩んで行く者達の事です。しかし、それで全てではないのです。それで、終わりではありません。
一章の後半から、二章の前半にかけて(1:13-2:10)、私達がイエスを信じて、救われた結果、どのような歩みをしていくのか、そのことが語られています。
 それは、今迄御言葉に聴いて参りましたように、「聖よい生活」であり、「神を畏れる生活」であり、「お互いに愛し合う生活」でした。
 今日はその続きで、テーマは成長です。しかも、それは、愛にある成長です。
 あなたは、成長したいですか?と問われた時に、あなたは、どうお答えになられるでしょうか。
 自分自身を見ると情けない限りです。皆さんは、クリスチャンになって、長い人も、クリスチャンになって日の浅い人もおられるかと思いますが、皆さんは、成長しておられますか。
どのように成長してこられましたか。そして、これからも、成長したいと願っておられるでしょうか。主を愛することに於いて、教会を愛することに於いて、そして今日のテーマでいえば、人を愛することに於いて、どのように成長されているでしょうか。
今日のテーマは成長です。「だから」(ver1)という接続詞で始まりますが、この、「だから」とい
う接続詞は、「新たに生まれたのです」(1:23)にかかっているのです。新しく生まれた者は、成長していく。成長するのだ。聖書は語ります。
昔、筑波で生活をしておりました時に、夏によくゴーヤを育てました。元々畑だった場所に今でも教会が建っているので、土壌が大変よいのです。ですから、ゴーヤが本当によく育ちました。夏はゴーヤ三昧です。毎日のように、食卓に上りました。教会員にも、ご近所にも、良く配りました。
スタートはゴールデンウイーク明けです。最初は本当に、小さな苗を4本ほど植えるのです。そして毎日、水をやり、折々に野菜用の肥料をやるのです。すると、毎日、雨戸を空けるのが、楽しみな位、日に日に成長していくのです。そして、梅雨が明けるころには、綺麗な、グリーンのカーテンが出来上がって、野菜のとても良い匂いがしてくるのです。私はその時、本当に命あるものは、成長するのだなと、教えられました。
クリスチャンが新しく生まれた者であるならば、必ず成長します。勿論そのスピードには、個人差があると思います。しかし、新しく生まれた者は、必ず成長する、それが聖書のメッセージです。
しかし、ゴーヤが、良い土地と、肥料と水で成長したように、クリスチャンが成長するためにも、必ず条件があります。それは、先ずは捨て去ることです。
「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」(ver1)。と聖書は語ります。
 私達は、五つの物を捨て去ります。第一が「悪意」です。これは、他人を陥れようとするような、大きな物から、小さな日常生活のちょっとした事柄に至るまで、あらゆる「悪意」を捨て去るということです。
 第二に、「偽り」、これは、「ごまかし」とも訳せますが、餌で動物を誘き寄せることを意味しています。「ずるいこと」、「だますこと」、「ごまかすこと」を意味しています。
 第三が、「偽善」。これは舞台俳優やテレビに
でる俳優を表す言葉と関係があります。本当の自分ではなくて、全く別の自分を演じるのです。全く別の自分を振舞うのです。
  おそらく、ペトロは、イエスが祭司長、律法学者達の、偽善を見抜いて、非難しておられたのを思い出したのでしょう(マタイ23章)。
 また彼自身が、神に献げるべきものをごまかして、虫に噛まれて死んだアナニヤとサフィラ事件で、偽善の恐ろしさを体験していたからだと思います(使徒5:1-11)
 第四に捨て去るものは、「ねたみ」です。ねたみは、クリスチャンの交わりを破壊します。いや人間関係を破壊するのです。
人類最初の殺人である、カインがアベルを殺した出来事は、神がアベルの献げ物は受け入れられたのですが、カインの献げ物を受け入れられなかった。それを、カインが妬んだ。こうして、世界で最初の殺人にまで発展してしまったのです。世界で最初の殺人、その原因は妬みでした。
FBやインスタグラムは、人々の必要以上に、盛られた日常で溢れています。
それ見て、ねたみを起こす人も沢山います。実際に、私の知っているある方は、TikTokで、数十万人のフォロワーを持っていました。多くの
人々から、肯定的なレスポンスを受けていたのですが、その中のある少数の妬みから来る誹謗・中傷が嫌になって、結局TikTok止めてしまわれました。
しかし、ねたみは、その人の心の状態が悪い時に起こるのです。ですから、私達はいつも、御言葉によって、自分の心を点検する必要があります。
 実際十字架を前にしての弟子達の天国における席次争いは、ねたみ以外の何物でもありませんでした(マルコ10:35-ルカ9:46-)。
そして、最後が、「悪口」です。ギリシャ語で、「カタリヤ」と言いますが、「下に」という言葉と、「いう」という言葉の合成語です。
 悪口は間違いなく、その相手を自分よりも下に見ているときに起こります。例え、それが上司で
あっても自己優越感に浸っているときに悪口は発生するのです。そして、れは、教会の交わりでも起こりうることです。
しかし、ペトロは、これ等を捨て去れと語ります。しかも、「捨て去って」というのは、不定過去の分詞形ですから、断固として、これ等を捨て去れという事です。曖昧さを残してはいけないのです。断固として、これ等の思いを、1-10まで捨て去れと聖書は語るのです。
 では、そのためにはどうすればよいのでしょうか。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ver2)。 と聖書は語ります。

赤ちゃんは、お母さんのおっぱいを思いっきり吸うのです。同じように私達も霊の乳を求めていくことが、成長の鍵です。

神の御言葉に思い切り親しむのです。クリスチャン生活は、自分はもう大丈夫だ、自分はもう分かっている。このように思ってしまうと、そこで、間違いなく成長は止まります。

ある程度長く人生を生きていると、お分かりだと思います。大体が、経験値だけで何とかなってしまうのです。

それは、牧師も一緒です。40年近くも牧師をしていると、殆どの事が、自分の経験値だけで出来てしまうのです。

講解説教も、テーマ別説教も、主の晩餐も、ご葬儀も、結婚式も、路傍伝道も、個人伝道も、何とか出来てしまうのです。
今の私は、経験値においては、27才で牧師になったころと比べると比較にならないほど、豊かです。

ですから、人間的な言い方をすれば、これからも、経験値だけで牧師をしていくこともできま
す。しかし、これが、罠です。間違いなく罠です。自分は分かっていると思うときに、人の成長は必ず止まります。
どんなに長く、信仰生活を送っていたとしても、長く牧師をしていても、聖書の全てを理解す 
ることは、絶対にできません。ましてや、人生の全てが分かる訳でもありません。

私の知っている部分は、人生のほんの一部でしかないと思うのです。更には、全てに於いて、答えはこれです等と言える筈がありません。
 
実際に、何年経っても新しい問題にぶつかることが現実的にはあります。又何十年もクリスチャンライフを送っていても、分からない問題は沢山あるのです。

ですから、聖書は、牧師にも長老にも、執事にも、信じたばかりのクリスチャンにも、もう何十年も、信仰生活を送っている人にも、全てのクリスチャンに、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ver2)。と語ってやまないのです。

そして、これは、「混じりけのない霊の乳」です。「純粋な霊の乳」ということです。
 
人の言葉ではないのです。自分の信念ではないのです。SNSに溢れている、殆ど裏を取らないような、言葉や情報でもないのです。

ましてや、今の時代のフェイクニュースではないのです。更には、来る日も同じニュースを流し続けるマスコミの言う言葉でもない。識者と呼ばれる人の言葉でもありません。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ver2)。
 聖書の言葉をこそです。語られた神の言葉、説教こそが、神の言葉であるとの宣言は、有名なスイス信条に記されている言葉ですが、神の
言葉に、説教に、そして、この聖書に聴き続けていくのです。

「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます」(詩編119:130)。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩編119:130 新改訳3版)。

 この聖書の言葉に聴き、混じりけのない霊の乳を慕い求めていきたいと思います。霊の乳を慕い求める者こそが、成長していくのです。

II.恵み深い主を味わう
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(ver2-3)。

「これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(ver2)。これだけを読めば、成長しなければ、救われないとも読めてしまいます。
しかし、そうではないのです。ここで言われている救いというのは、救いの恵みを確かに体験していくという事です。

イエスを信じて、罪赦され、新しい命を受けた者として、洗礼を受ける。これが救いの始まり、救いの始めです。しかし、救いというのは、これだけで終わってしまうものではないのです。

 霊の乳を頂き続けるのです。御言葉を読み続け、心に蓄え、御言葉によって変えられながら、自己中心的に生きてきた私達が、他の人に仕える事が出来るようになります。
 人の上に立ちたい。人を支配したい。これが、この世界の価値観ですから、霊の乳を頂き続ける、御言葉を読み続けていくときに、神に仕え、人に仕えていく。そのような人生へと変えられていくのです。
 
人との関係の中で、生まれてくる、恐れや妬みから解放されて、平安を体験するようになります。それが、ここでいう救いなのです。
ですから、私達は、救われました。ハイ感謝します。それで終わってしまうのではない。御言葉によって、変えられ続けていくのです。

そして、それこそが、救いの醍醐味なのです。更にあなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(ver2-3)。

特にver3は、条件文と言われています。これは、直訳すると、「あなたがたは、確かに主が慈しみ深い方であることを確かに味わっているなら」といった文章になるのです。

これは、もし味わっているなら・・・という条件文です。しかし、これは又、「味わっているかどうかわからないけれども」という意味の条件文ではなくて、あなたがたは味わっているのです。という確かな条件文なのです。

実際に、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(ver2)。新共同訳は、訳しておりますし、新改訳2017は、「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました」(ver3)。と訳しているのです。

「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(ver2)。
 
ペトロは語ることによって、この手紙の読者に、さらなる成長を励まして、主が恵み深いことを、もっと味わうように、もっと体験するように、その恵みのもっと浸るようにと励ましているのです。これは、私達も同じです。自分自身を見れば、ガッカリする部分は沢山あると思います。

例えば、仮に仮にですよ。私が自分が信徒だったとして、小堀先生に牧会されたいですかと問われたら、そのように自分自身に問うてみれば、うん~、どうしよう、他の先生の方がいいやとやっぱり思ってしまうのです。

実際牧師としての自分自身を顧みれば、もっと、もっと整えられなければと、本当に思うのです。嘘偽りなく思います。ましてや牧師としての完成形など存在するはずがありません。

しかし、こんな私でも、神は、諦めないで、見捨てないで、見放さないで、私を訓練して、形づくり続けられてきました。

ここまで熱心になられなくても良いのにと、思ってしまうほど、私を形作るための神の御手が、私の人生のそこかしこに間違いなくあるのです。
皆さんもそうだと思います。私は、クリスチャンとして十分だなんて思っておられる方は、恐らく一人もおられないと思います。
神は、あなたの人生にも臨んで下さって、あなたを憐れみ、あなたを導き、そして、あなたを恵んで下さった。
その神の御手が、あなたの人生の、そこかしこに、やはり私と同じように、あると思うのです。

ですから、自分で自分を諦めてしまうのではなく、まあこれだけあれば、こんな者で十分でしょうと、妥協するのでもなくて、霊の乳を、御言葉の乳を慕い求めながら、これからも主が恵み深い方だという事を味わい知って行くものでありたいと思います。

 これからも、主に在って、成長させて頂く、成長し続けていく。そのような歩みをしてまいりたいと思います。

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