徹頭徹尾神の愛
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- 小堀 昇 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章17節~21節
17また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。 18知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、 19きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。 20キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。 21あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章17節~21節
「徹頭徹尾神の愛」
旧約聖書:サムエル記上16:7
Iペトロ1:17-21
I.時が迫っているのですから
クリスチャンライフは、霊的に新しく生まれること、そして、天に蓄えられている永遠の財産、永遠の命をもって、神様の御守りの中を生きていく、そのように言うことができると思います。
そして、困難はあるのだけれども、神様が守って下さる。しかも、私達のような者を、主の似姿へと神のイメージへと変え続けて下さる。聖化の歩みを歩んで行くことができる。クリスチャンライフは、このように恵みに満ちたものです。
さて、ver13から、2:10迄は、救われた結果としての、クリスチャンライフについて書かれています。第一が、先週御言葉に聴きました、「聖よい生活」、所謂、「聖化の恵み」です。
第二が今日の箇所で、「神を恐れる生活」、そして第三に、「兄弟を愛すること」です。今日は、「神を恐れる生活」についてです。
「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(ver17)。
ここで大切なことは、「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから」(ver17)、
ということです。こで、「公平」と言われている言葉は、「外見によらず」という意味です。私達は、外見は幾らでも、取り繕うことができます。
人が人を判断する基準は、視覚 見た目 55% 声 38% 話し方 7%です。これで人は、初めてあった人の、第一印象を決めてしまうのです。殆どが外見で、第一印象は決まります。
「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)。
当時ユダヤの人々は、富んでいるという事は、神様から祝福を受けているしるしであると信じていました。
だから、イエスが、
「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた」(ルカ18:24-27)。
私達は、善であれ、悪であれ、夫々に肉体において、したその行いにおいて、神から裁かれるときが来ます。
どのような人生を生きて来たのか、問われるときがくるのです。しかし、クリスチャンは既に、罪赦されている訳ですから、その裁きは、罪の裁きではなくて、報いを受けるときなのです。
だから、大切なことは、私達の心です。私達が、それをどのような心でなしているのか、どの
ような動機でそれをなしているのか、心を吟味することが大切なのです。そして、その、裁きをされる方が、報いを与えて下さるお方が、私達の「父」であるということです。
天地を創造された、神が、私達の「父」であるということです。「天の父」、「天のお父様」という事なのです。
ですから、私達は、神を徒に恐れる必要はありません。日本人は、神といえば、祟りを与える、触らぬ神に祟りなし、バチを与える神、このような漠然として神概念を持っているのです。得体のしれない恐れを持っています。
しかし、私達は、救われたことによって、神の子とされました。そして、私達は、天の父なる神を、「私の父」とお呼びする事が出来るのです。
天地を創造された、無限で、永遠で、不変で、全知、全能の神を、私達の父と呼ぶ事が出来る。そして、親密な交わりを持つ事が出来る。何と素晴らしいことでしょうか。
この神は私達一人一人を、肉の父である私達が、子供に、最高のものを与えようと思う以上に、よきものをもって、私達を満たして下さるお方です。
「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(ver17)。
仮住まい、これは、寄留している間。という意味です。人生というのは、長いようで短いですね。私は27歳で牧師になったとき、時間がいくらでもあるように思いました。何でもできると思いました。
私の予定では、今頃300名ぐらいの教会を牧会している予定でした。
私も、50を過ぎて、60も半ばを迎えようとしている今、本当に、時が限られていると、本当に
感じるのです。ある意味、人生は、束の間です。私達は、誰もが必ず、何時かは、神の前に立たなければなりません。
先日私より少し年上の牧師が、自分がこんな歳になったことがしんじられないといっておられましたが、本当にそう思います。
ですから、時が短いことを覚えつつ、全知・全能の神を、不変の神を、無限の神を、「私の父」と呼ぶ事が出来る、こんなにも素晴らしい救いが与えられているのですから、神を無限の神を恐れて生きるものでありたいと思います。
II.こんなにも素晴らしい救い
さて、ペトロは、次にこのように言います。
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(ver18-19)。
「空しい生活」これは、ユダヤ人として、律法を必死に守っていた、父祖たちの宗教生活があったからです。
これは、日本人のも一緒です。意味のない、風俗習慣があります。神棚や仏壇を自分で終わらせることができないので、形式的に拝んでいる人がたくさんいます。
茶柱が立ったら吉兆、流れ星が消えるまで三回願い事を言えば、夢が叶う。四葉のクローバーを見つけると、幸福になれる。夜に爪を切ると、親の死に目に会えない。写真を撮られると魂が抜かれる。この様な空しい言い伝えを上げたらキリがありません。
しかし、私達は、このような空しい生き方から、贖い出されたのです。「贖う」とか、「贖い出す」と
言いますのは、奴隷を解放するときに使われた言葉です。
贖いの代価を払って、奴隷は買い戻されました。自由にされました。一般的な奴隷ならば、ある程度のお金で、自由にすることはできます。
しかし、どんなにお金を積んでも、罪と死の支配から、私達を自由にすることはできません。朽ちるものによって、永遠という世界を買い取ることはできないのです。
しかし、私達の贖いは、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(ver19)。
この言葉の背景には、あの過ぎ越しの祭があります。エジプトの奴隷として、苦しんでいた、
イスラエルの民が、モーセに導かれて、エジプトを脱出した時のこと、彼らは、傷のない小さな子羊の血を門柱に塗るように神から命じられました。
それは、エジプトの国を打たれる、神ご自身が、その血を見たら、その家を過ぎ越すためでした。
人々は、その血によって、神の裁きを免れる事が出来、エジプトの国を無事に脱出して、奴隷状態から解放されました(出エジプト記12)。
ユダヤ人は毎年、過ぎ越しの祭りを祝います。自分達が救われたことを記念し、感謝いたしました。勿論今でも彼らは、過ぎ越しの祭りを祝います。
しかし、私達クリスチャンは、過ぎ越しの祭りを祝いません。何故でしょうか。それは、あの過ぎ越しの出来事によって、予告されていた、救いが、そして、解放が、イエスによって、成就していったからでした。
「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ9:12)。
この結果、私達は毎年、過ぎ越しの犠牲を献げる必要がなくなりました。神の御子が、十字架で流された血によって、永遠の救いが成し遂げられていったのであります。
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは金曜日です。そして、主イエス・キリストが十字架の苦難を受けられたのも、同じ金曜日です。過ぎ越しは、主イエス・キリストの十字架の贖いを指し示していたのです。
過ぎ越しは、子羊の血によって、ユダヤ人の罪が赦される事の記念として毎年行われました。しかし、十字架の犠牲は、一度限りです。何故ならば、単なる動物ではありません。何の罪も無い、神の一人子が私達のために命を犠牲にされたからです。
これが神が払われた、贖いの代価です。神の一人子が十字架で命を投げ出された、この十字架の贖いには、全く罪のないお方が、十字架で命を投げ出されたという、この贖いの犠牲には、無限の価値があるのです。
そして、私達には、こんなにも素晴らしい救いが与えられているのです。
III.神が用意して下さった救い
「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(ver20-21)。
ここで言われていることは、神の救いの御計画というのは、決して、思い付きで、行われているようなものではないという事です。
永遠のご計画に中にあって、行われていたものであり、神が十二分に準備された、その救いに、私達は、預かっているという事なのです。
「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を」(ver20)、
と言っています。ある時に、ロシアの作家、トルストイは、次のような質問を受けます。「新しい宗教を始めるのは、どうしたらよいですか?」
トルストイは答えるのです。「自分を十字架につけて、三日目に甦ることです。」
トルストイの言葉の意味はお分かりだと思います。私達人間のレベルでは到底できないことを、神はしてくださったという事なのです。
神ご自身が、実現された、十字架の犠牲と復活の奇跡によって、私達は、救われました。
私達の救いはただ、神にかかっているのです。」ですから、ペトロは、「従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(ver21)。と結びます。
私達の救いの主権は、徹頭徹尾、神の御手にあります。救いにおいては、全てが、神によって、始まり、神によって、進み、神によって、完結していくのです。
救いにおいては、私達は何もすることができません。全てが神様によって用意されたのです。
神様の一方的な恵みによって、救われたことを感謝しようではありませんか。罪深い者ではあるけれども、いつかは、神の前に立たなければならないものだけれども、神が私達の天の父
となって下さり、十字架の大きな犠牲、流された血潮によって、私達の罪は赦されていく、こんなに素晴らしい救いが与えられていくのです。ですから、こんなに素晴らしい救いを神は用意して下さったのですから、神を恐れながらも、どうか、この救いの中に憩うものでありたいと思います。
昔一人のおじいさんが、死んで天国の門まで行きました。そこで天使ガブリエルに会い、天使はこう言いました。「さて、天国のルールを説明させてもうらうよ。門をくぐって天国に入るには100ポイント必要なんだ。お前がしてきた良い行いを全て申告してくれ。そうしたらお前に、それぞれ何ポイント獲得したことになるか教えてあげよう。良い行いほどポイントは高いからね。合計100ポイントになれば、天国には入れるよ。」
「分かった」とおじいさんは言い、早速自分のしてきたよいことを申告しました。「私は50年間たった一人の女性を自分の妻として、心の中でも全く浮気をしなかった。」、「それは素晴らしい、それでは3ポイント獲得だね。」、「たったの3ポイントかい。おじいさんは不服そうな顔で言いました。」、「じゃあこれではどうだ、私は生きている間中、教会の出席を怠らず、献金と奉仕を持って主に仕えてきた。」、「御立派!それは十分に1ポイントの価値があるね。」
「1ポイントだって!?」おじいさんは、少し取り乱した声で言いました。「そうかじゃあ、とっておきのを出そう。私は故郷の町にいるホームレスのために、避難所を開いて、クリスマスシーズンになると毎年、100人以上の人々に、食事を配ったぞ!これならどうだ。」、天使ガブリエルは言いました。「なかなかいいね。よし、2ポイントだ!」、「えっつ、たったの2ポイントだけかい・・・この分じゃ神様の憐れみがなければ、私は天国に入ることができないよ・・・」、
するとガブリエルは言いました。「その通り!では、お入りなさい。」こう天使は言ったそうです。 私達の救いの主権は、徹頭徹尾、神の御手にあります。救いにおいては、全てが、神によって、始まり、神によって、進み、神によって、完結していくのです。
ですから、こんなに素晴らしい救いを神は用意して下さったのですから、神を恐れながらも、どうか、この救いの中に憩うものでありたいと思います。