2025年01月19日「人生の懐石料理」

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人生の懐石料理

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章13節~16節

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聖なる生活をしよう
13だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 14無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、 15召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。 16「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

「人生の懐石料理」
旧約聖書:レビ記11:44-45
Iペトロ1:13-16
I.終わりの時の完成を目指して
 ペトロは、この手紙の読者に対して、霊的に新しい命に生きること、生き生きとした希望、天に蓄えられている、永遠の財産、神ご自身による、救いの啓示、聖書のすばらしさについて、語ってきました。この様な素晴らしい事柄を受けて、

「だから」と、ペトロは語りだします。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(ver13)。

 ここで、ペトロは、この地上でクリスチャンとして生きる人々に三つの大切な事柄を語ります。

 それは、第一に、「いつも、心を引き締める」ことです。協会訳、口語訳聖書は、「心の腰に帯を締める」と言っています。

 この時代、人々は、長い服を着ていました。ですから、何か事に集中するときは、それを腰まで、たくし上げました。

そして、動きやすくしたのです。服が邪魔にならないようにしたのです。余計なものを、取り除いて、神を見上げて、神の御心を行うことに集中しなさいという事なのです。神の国の完成を目指して、ひたすらに主と共に歩んでいくのです。
第二に、「身を慎む」のです。これは、もともとは、「お酒を飲まず、しらふでいる」という意味です。どんな事にも、例え、それが、どんなに素晴らしいことでも、それにのめり込んではいけない。覚めている必要があるのです。

長男・大学一年の頃から、大学のキャリア・センターに入り浸り、経理研究会に入り、ファイナルプランナー等の資格試験をよく受けて、大学三年の頃には、ベンチャー企業の社長のカバン持ちをするような子だったのです。ビジネスに生きがいを感じているような子でした。

先日朝、品川のあるホテルで一緒に朝ご飯を食べたのですが、40分なら時間を取れるよという有様で、大阪出張の直前に飛び込んできました。今でも、良く色々な場所に行くようです。

彼を見ていると確かにその方面に、賜物もあります。私とは全く逆なのです。それは、それで良いことだと思います。しかし、それにのめり込む心配があるのです。それが、どんなに良いことであっても、それが神より上に来てはいけないのです。幸い神様の憐れみで、何とか教会に繋がっています。

それでも、どんなに良いことであっても、神より上に来てはいけない。覚めている必要がある、身を慎む必要があるのです。

そして、第三番目に、ひたすらに待ち望むのです。心を引き締めるのも、身を慎むのも、待ち望むためなのです。

待ち望む、これは、「全ての希望を置く」というギリシャ語です。では何を待ち望むでしょうか、何処に、全ての希望を置くのでしょうか。
それは、「イエス・キリストの現れのとき」、即ち、再臨の時です。私達の救いの完成の時です。これは、神学用語なのですが、私達は、「すでに」と「未だ」の間を生きています。
私達は、「すでに」神によって、救いの恵みが与えられて、この地上において、神の子とされ、永遠の命の恵みの中を生きています。
しかし、「未だ」救いは完成しておらず、私達は罪の現実を生きています。それによって、たとえ、クリスチャンであったとしても、罪のゆえに、悩みます、苦しみます、戦います。私達は、御国に行くまで、「すでに」と「未だ」の間を生きています。
 だから、待ち望むのです。救いの完成を待ち望むのです。主の再臨の時に私達は全ての答えを頂くのです。この地上の矛盾に、悩みに、苦しみに、答えを与えられるのです。

 II.聖化の恵み
 「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(ver14-15)。

 私達は、教会に来れば、必ず救いのお話を聞きます。イエスの十字架の贖いの死と、甦り、信じる者に与えられる、永遠の命について、御言葉に聴きます。そしてもう一つ、欠けてはいけないのは、「聖化」についてです。
 私達は、救われただけではなくて、聖なる者とされていくという事です。

大分前のことですが、ある教会の牧師をしておりました時に、信徒の方が、所謂、懐石料理に招待して下さいました。正に政治家が密会をするようなお店でした。奥座敷に通されて、前菜から始まって、メインディッシュに進み、そして、締めの料理があって、デザートで終わるのです。そのとき、こんな世界が本当にあるのだなと思いました。

クリスチャンがもし、魂の救いだけで終わってしまったら、それは、懐石料理の、前菜だけで 
終わってしまっているようなものなのです。
後で、もっと良い、人生のメインディッシュが来るのです。そして、それが、聖化なのです。

 実は聖化論は実に奥深く、朝の教理教室でも学びましたが、神学的には実に様々な展開があります。
しかし、今は神の御言葉を取り次いでいますから、今日の御言葉に沿って、また何よりも実践的に聖化を考えたいと思います。
今日の御言葉によれば、の聖化には、二つの側面があります。一つは、消極的な側面です。「無知であったころの欲望に引きずられることなく」(ver14)、と聖書は語ります。

「引きずられることなく」、この言葉は、「シュスケーマティゾマイ」というギリシャ語で、「この世に倣ってはいけません」(ローマ12:2)で言われている御言葉です。これは、この世と調子を合わせる という言葉です。
 
少し位なら、という事です。人間だから仕方がないという事です。これ位なら、誰でもやっているという事です。それが、この世と調子を合わせるという事です。
しかし、そのような欲望に引きずられないようにというのです。それらに、身を委ねてはいけないというのです。

そして、聖化の積極的な面は、四つ語られています。

「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです」(ver15-16)。Ver16は、レビ記11:44-45からの引用です。これは、聖化の積極的な側面です。
 

それは第一に、聖化の基準、目的は神なのです。あの人のようになるという事ではありません。人と比べて、私の方が、聖いという事ではあ  
りません。人間の考える基準ではありません。所謂、何時も笑顔で、腰が低くて、物腰が柔らかくて、嘘は決してつかないという、「聖人君子」になること、良い人になるという事ではありません。これは、寧ろ人として完成していくということではなくて、神に似た者に変えられ続けていくという事です。人間だけは、被造物の中で、神のイメージに創造されているのです。アダムとエバの堕落によって、失われてしまった、神のイメージを回復していくという事です。  
 
クリスチャンの究極の目標、それは、私達の内に神のイメージが完全に回復していくことなのです。私達が神のイメージに回復していく、これは、素晴らしいことです。
 
第二に、聖化の範囲です。「あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(ver15)。
生活の全てに於いてです。家、教会、学校、会社、遊んでいるときも、働いているときも、車を運転しているときも、自転車に乗っているときも、歩いているときも、という事なのです。生活の全てに於いてという事です。 

ここだけは、聖められなくても良いという分野はないのです。これだけは別だよと、自分自身を妥協してしまっているようなことはないでしょうか。全ての分野において、愛と真実をもって、生きなさいということなのです。

第三に、聖化の主体です。誰が私達を、聖くして下さるのかという事なのです。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです」(ver16)。
こう考えると、聖化は、非常に高い、高い、ハードルを覚えます。聖なる者となりなさいというだけならば、何か突き放されたように、感じてし
まいます。私は無理だと思ってしまいます。自分の心の内側を見て絶望してしまいます。

しかし、厳密に言えば、これは、生活の全ての分野において、聖なる者となりなさいという事よりも、「聖なる者とされなさい」というギリシャ語なのです。
 ですから、主語は神なのです。私達が主語で、聖なる者になる、というのではなくて、神が私達を、聖なる者として下さる。だから、聖なる者とされなさいと聖書は語るのです。

イエスは、「十字架を背負いなさい」とは言われましたが、私達に、「十字架にかかりなさい」とは言われませんでした。

私達は、自分の十字架を背負って、イエスの後についていくことを求められますが、それにかかることまでは求められるのではないのです。その十字架にはイエスご自身が、私の代わりにかかってくださったからです。
真実な愛をもって、私達を支えてくださる、イエスの守りの中に今日も、私達はあるのです。

あなたの努力で、あなたの力で、あなたの決断で、あなたの意志で、聖くなりなさいというならば、絶望と諦めしかありません。

しかし、聖化は何処までも受身形です。聖化の主語は神です。神が私達を聖くして下さいます。

 神が私達を選び、神が私達を救いに導き、神が私達を聖め、神が私達を完成して下さる、救いを完成して下さるのです。聖化に係る全ての主語は、神で私達は、徹頭徹尾、受身形です。

 では、第四に、最後に、聖化において、私達がなすべきことないのでしょうか。私達は全く受身形ですから、何もしなくてよいのでしょうか。ないのでしょうか。
 いいえそうではありません。今日の御言葉によれば、一つだけあるのです。

それは、「従順な子となり」(ver14)、ということです。直訳すれば、「従順な子として」ということです。「従順」、これは、クリスチャンに求められる、パーソナリティーです。あれこれ言わないの
です。神が与えて下さる、よきものを、従順に受け取るのです。
 
神が示して下さることについては、従順に、素直に従うのです。そして、いつも神を喜んでいく。その結果、私達は、聖められて行くのです。神のイメージに変えられて行くのです。神に似た者へと変えられ続けていくのです。

 私達はイエスを信じて、洗礼を受けた後も、罪を犯す可能性はあります。しかし、それを思い留まらせる、聖霊のお働きがあることも事実なのです。

 私達は、今迄罪に、10回の内、10回負けていたかもしれません。しかし、イエスを信じて、聖化の過程を歩む中で、勿論聖化は、この地上では完成はしませんけれども、今迄、10回の内、10回負けていたものが、2回、3回と打ち勝つ事が出来るようになる。罪を犯す可能性はあります。しかし、それを思い留まらせる、聖霊のお働きがあることも事実なのです。

あのバスティーユ牢獄の襲撃から始まった、18世紀後半の、市民革命、フランス革命によって、絶対君主制と封建制が打ち破られて、フランスは、新たな、近代国家としての歩みを始めていきます。

 この、革命によって、フランス王ルイ16世と、王妃、マリーアントワネットは、ギロチンの刃の露と消えていきます。

 しかし、その息子ルイ17世については、すぐ
 殺さずに、一計を案じて、様々な罪を犯させることによって、その内面から、心の内から、崩壊させようとしたのです。
 来る日も、来る日も、ルイ17世に、様々な悪を教え込み、口汚い言葉を教え、罪を教え込もうとするのです。しかし、彼は、それを毎日、必死に拒否し続けました。そして、言うのです。「僕には、そんなことはできない。僕には、そんなことはできない。だって、僕は、フランスの王となるために、生まれてきたのだから。」
 
私達も、人生の中で、点として、罪に負けることはあったとしても、長々と、線として、罪に負け続けることはないでありましょう。

「僕には、そんなことはできない。僕には、そんなことはできない。だって、僕は、神の子供なのだから。」

私達はイエスを信じて、洗礼を受けた後も、罪を犯す可能性はあります。しかし、それを思い留まらせる、聖霊のお働きがあるのです。
そして、それに聞き従っていくときに、私達の聖化は実現していくのです。

神ご自身に似た者へと変えられ続けていくのです。クリスチャンには、そのような神への語りかけがあるのです。そのような神の語りかけに従い行こうではありませんか。神があなたを変え続けて下さるのです。
 
水野源三さんという、まばたきの詩人は歌いました。
キリストのみ腕に支えられて自分の力では動けない 生きられないと 気づいた瞬間に 私をしっかりささえて下さった キリストの御腕が はっきり見えてきた。神が変えて下さるのです。人生のメインディッシュである聖化への道を進みゆくものでありたいと思います。

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