2025年01月12日「人生の宝」

問い合わせ

日本キリスト改革派 花小金井教会のホームページへ戻る

人生の宝

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章10節~12節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

10この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。 11預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。 12彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章10節~12節

原稿のアイコンメッセージ

「人生の宝」

旧約聖書:イザヤ書53:1-6

Iペトロ1:10-12

I.聖書を熱心に調べる

イエス・キリストの福音は、厳密に言えば、イエスが二千年前に来られて初めて、人々に明らかにされたのではありませんでした。それ以前、旧約聖書の時代に、預言者たちの口を通して、明らかにされていました。

預言者たちが、神に導かれて、語っていたのです。


「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53:3-5)。


この様な預言を読むと確かに、イエスが歴史に登場する以前から、神は、預言者たちを通して、語っておられたことが分かります。

しかし、ペトロはこういうのです。「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました」(ver10)。実は、預言者たちも、この語られた救い主が、誰のことを指すのかわからなかったのです。そこで、「探求し、注意深く調べた」のでした。


「それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」(ver11)。「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました」(ver12)。

そして、彼らは、自分たちの語っている預言が、後の世の人々のためだとわかったのです。後の時代にそれが成就し実現するとわかったのです。


「探求し」(ver10)と言うのは、「熱心に尋ね求め」というギリシャ語です。これは、「主を尋ね求める」という文脈で、しばしば出てきます。「注意深く調べ」と言うのは、「隠れた真理を明らかにする」という言葉です。

彼らは、真理を知りたいと、心から願いました。そして、探しました。


そして、イエスこそが、真理だ。イエスこそが、救い主だ。彼らは、それを発見したのです。


今の日本、本当に豊かです。テレビをつけると、四六時中様々な通販番組がやっています。

しかし、この特典は、残念ながら番組終了後30分以内に限らせて頂きます。30分を過ぎますと、この特典は御付けできませんので、御両所下さい。人々の購買意欲を煽るのです。

本当にポチっとするだけで何でも手に入ります。日本は、物が食べ物が溢れています。以前息子とある大きなホテルのレストランで待ち合わせをしました。こんなに要らないでしょう。というぐらい、食べ物で、飲み物で溢れていました。そして、多くのテーブルの多くのお皿の上に、残り物が沢山ありました。

本当に豊かな国、日本です。しかし、それに相反するかのように、心の中は荒廃していま

す。先日も、マックで注文のために並んでいた、中学生が暴漢に襲われ命を落としました。ただチュモンを待っていただけなのです。ただそれだけで命を落としました。大学でハンマを振り回して多くの人々に怪我をさせた人もいました。親の虐待によって、命を落とす子どももいます。

一見平和に生きていたとしても、心の中を紐解けば、様々な闇が心の中にある。私達も、子育て、親の介護、自分の健康、仕事、学び、色々な課題の中を生きています。

そのような中で、私達は、神の御言葉に聴いているでしょうか。今年の私達の教会の前進標語は、「御言葉に堅く立つ群れ」です。年間指標聖句:ペトロの手紙一1:24-25:「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」です。

私達は今年本当に、お題目ではありません。今年此の御言葉を本当に実践していきたいと思うのです。私達は、今年聖書を読み、聖書の御言葉に聴き、神に解決を求めながら、日々歩んでいきたいと思うのです。


私は、クリスチャンホームに生まれました。この日本で、クリスチャンホームに生まれる。どれ位の確立でしょうか。本当に幸せなことです。

私の子供達は、PKです。ペナルティーキックではありません。パスターズキッズです。実は私も、献身したのは、私の方が先だったのですが、父も

会社をリタイヤ―する前に牧師になりましたので、結局順番は違うのですが、私もPKになります。本当に日本ではどれくらいの確立でしょうか。神様の憐れみ以外の何物でもありません。

しかし、私は、こんなに大きな恵みの中に生まれながら、救いの喜びも、祝福も何もわかりませんでした。

私の育った家には当然のように、聖書は置かれ、幼稚園の卒園式に記念の聖書をもらいました。しかし、私は、殆ど聖書を読んだことはありませんでした。

高校時代は、教会に行っても、週報ボックスの横に、礼拝が終わったら、自分の聖書を置いて帰りました。別に、重くて歩くのがしんどいからではないのです。高校生ですから。要は、聖書を読むことに意味を感じなかったのです。

しかし、大学二年の時に神に出会ったときに、私は、本当に新しい思いで、聖書を読み始めました。そうしたら、聖霊のお働き以外の何物でもないと思うのですが、正に、目から鱗が取れるように、聖書の御言葉が、次々と心に飛び込んできました。

そして、私は、確かに神に背を向けて歩んでいたという事が分かってきました。そして、聖書の御言葉によって、私は、変えられ続けていきました。新しくされ続けていきました。聖書の中に私は確かに、人生の宝を発見したのです。私を育ててくれた牧師は、あなたの歳の数だけ、聖書を通読しなさいと言いました。


神学生の時代、奉仕教会の牧師は、「日頃その人が、聖書を読んでいるか否かは外見ではわからない。しかし、その人が試練に逢った時に、どのように対処するかを見たときに、その人が、日頃、どのくらい聖書を読んでいるかどうかが分かるんだよ。」非常に厳しい言葉で、私に聖書を読む重要性を語られました。

「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス8:11)。アモスは言っています。今時代私達は、いつでもどこでも、手軽に聖書は言っています。に触れる事が出来ます。

あるとき、ある集会に招かれて、説教を致しました。所が、前に座っていたご婦人が、説教の間中、ずっと、スマホを見ているのです。何と失礼な、人が一生懸命に神の御言葉を取り次いでいるのに、と憤慨しました。

しかし、後になって、分かりました。そのご夫人は、スマホに落とした聖書で、私のその日の

メッセージの箇所を読んでいたのです。このように私達は、手軽に聖書を読む事が出来ます。神の御言葉は、ネットを通しても、ラジオテレビを通しても、勿論、毎週の礼拝や祈祷会で、語られているのです。こんな豊かな時代に生かされているのです。

「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました」(ver10)。ですから、熱心に聖書を調べるのは本当に、大切なことなのです。

私は神学校を卒業して、13年間、福音派の牧師をして、2001年に改革派の牧師になりました。明確なコンビクション、確信をもって、改革派の牧師になりましたから、福音派に対しては、懐かしさもありますが、今でも基本的には批判的な部分があります。

しかし、一目置いている所が沢山あります。伝道熱心、それは言わずもがなですが、もう一つ、それは、聖書をよく読むところです。

青年たちの集会に招かれて、説教したことが何度かありましたが、それが大学生であっても、社会人青年であっても、良く聖書を読んで、聖書に聴いて、そこに自分の人生を建て上げようとしているのです。

外見だけを見たら、結構チャライ青年も沢山いました。しかし、皆よく本当に聖書を読み、聖書に聴き、聖書によって、自分の人生を建て上げようとしていました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7:24)。熱心に聖書に聴いていくものでありたいと思います。

II.人生の宝

続いて、ペトロは、次のように語ります。

「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」(ver12)。

しかし、幸いなことに、昔の預言者たちにはわからなかったとしても、今、私達にははっきりと知らされているのです。主イエス・キリストの十字架、十字架の御業によって、罪が赦され、それだけではありません。主イエス・キリストの復活によって、新しい命が与えられることになった。ハッキリと宣言されています。

この手紙の受取人は、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており(ver12)、と言われておりますように、彼らに福音を語った人々によって、知らされているのですが、私達は、この聖書66巻によって、ハッキリと知る事が出来るのです。

天から遣わされた聖霊によって、ハッキリと知る事が出来るのです(ver12)。

私達が、へりくだってこの聖書に向かうときに、祈りつつ、聖書に向かうときに、聖霊が私達に教えて下さるのです。

私達は、祈りつつ聖書に向かうときに、神があなたに何を望んでおられるか。あなたの人生に何を願っておられるか、知る事が出来るようになるのです。「キリストの霊が証された」(ver11)。「彼らは啓示を受けました」(ver12)。「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たち」(ver12)。


霊は、私達に聖書を教えて下さるのです。言葉として、知識として、分かったとしても、今いち、心にピンとこないことはあります。

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ16:12-13)。

聖霊のお働きを求めながら、聖書を読むときに、心にすとんと落ちると言いましょうか。御言葉の真理がよくわかるときがきます。あ~こう言う事かと、聖書の御言葉を理解する事が出来る

ようになるのです。

しかも、それは、天使も確かに見たいと願っていることなのです(ver12)。イエスが、復活されたときに、ペトロたちが、空の墓を、身を屈めて覗き込んだと聖書は言っています(ルカ24:12 ヨハネ20:5)

「見て確かめたい」(ver12)というのは、それと同じ言葉なのです。天使でさえ、身を屈めて、覗き込むほどに、聖書の奥深さを知りたいと言おう野です。天使は、神の働き人、神に仕えている者達ですから、神の素晴らしいお働きについては、沢山見ていたことだと思います。


しかし、その天使でさえ、主イエス・キリストの十字架の苦難と復活による、その栄光は、彼らが、天使たちが、身を屈めて、覗き込むほどの、素晴らしい事柄なのです。


「 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」(ver12)。


私達には素晴らしい福音が既に知らされているのです。神から啓示を受けて語った、預言者たちですらも、探求し、注意深く調べなければならないものであったのです。


しかも天使が身を屈めて覗き込むほど、素晴らしい事柄、その福音を私達は、この聖書を通して、紛れもなく、知らされているのです。


この手紙の読者達は、まだ聖書66巻を持っていませんでした。持っていたのは、その一部だけです。しかし、私達は、聖書66巻を、日本語で読む事が出来るのです。


宗教改革の時代、人々の大半は、聖書一巻すらまともに持っていませんでした。当時司祭達がする、ラテン語聖書の朗読は、大半の人々にとっては、チンプンカンプンでした。


正に私が、仏教のお坊さんのお経を聞くのと同じです。どんなに有り難い内容でも、分からなければ仕方がありません。実際に宗教改革の時代人々は、結局聖書を理解できず、その教えは、真理から大きく外れていってしまいました。

しかし、今私達は、聖書をいつでも、どこでも読む事が出来るのですから、デジタルですらも読む事が出来るのですから、この大きな特権、祝福を無駄にすることがないように、祈りながら、聖霊により頼みながら、聖書を読む者でありたいと思います。


そして、私が20歳で神様に出会って、聖霊のお働きによって正に、目から鱗が取れるように、聖書の御言葉が、次々と心に飛び込んできたように、どうか、私達一人一人、聖書を通して、大きな、大きな人生の宝を発見させて頂く者でありたいと思います。


神学生の時に、ある盲目の先生の集会に出ました。集会の後、ある人が先生に質問をしたのです。


先生、もし神が先生の目を開けて下さるとしたら、先生は何をされたいですか。質問をしたのです。

私はお孫さんの顔でも見たいと言われるのかなと思っていましたが、先生はこう言われました。

「一度でいいから、この目で聖書を読んでみたい」先生は言われていました。

私は自分の思いを本当に恥じました。今私達は、聖書をいつでも、どこでも読む事が出来るのですから、デジタルですらも読む事が出来るのですから、この大きな特権、祝福を無駄にすることがないように、祈りながら、聖霊により頼みながら、聖書を読む者でありたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す