2025年01月05日「命を拾ってくれたお方」

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命を拾ってくれたお方

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章6節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章6節~9節

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2025年1月5日(日) 礼拝メッセージ
「命を拾ってくれたお方」

旧約聖書:詩編113:1-3
Iペトロ1:6-9

I.試練の中での喜び
 ペトロが書いたこの手紙の受取人たちは、この時代、様々な苦しみの中にあったことが分かります(ver6)。では、彼らは、どんな試練に逢っていた人々だったのでしょうか。
 彼らは何らかの理由で悪人呼ばわりされていました(2:12)。召使であり、不当な仕打ちを受けていました(2:18-19)。義のために、苦しみを受けていました(3:14) 。キリストの御苦しみを思い、武装しなければならないほど、誰かから、危害を加えられる可能性がありました(4:1)。乱行に加わらなかったために、脅かされていました(4:4)。キリストを信じているがゆえに、非難されていました(4:14)。
 彼らは、このような、八方塞がりのような、状況の中にいました。しかし、彼らは、そのような中にあっても、喜びに溢れていたのです。彼らは、四つの理由で試練の中で、喜ぶ事が出来ました。そして、この四つの理由が、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」(ver6)という、「それゆえ」という接続詞が表す、喜びの理由なのです。それは、第一に、「彼らが、神の憐れみによって、新しい命が与えられていた、新しく生まれ変わっていたから」でした。人は残念ながら、生まれながらにして、神に背を向けているのです。そして、神が与えて下さった、霊的な命を失っているのです。そして、神を愛する事が出来なくなってしまったばかりか、お互いを愛する事が出来なくなってしまっているのです。しかし、神の一方的な憐れみによって、私達は、「新しく生まれること」によって、回復の人生を歩むことができるようになりました。人は自分の力で新しく生まれ変わる事が出来ません。ただ、神の憐れみによって、私達は新しい命が与えられていくのです。
 だから、彼らは、試みは沢山あるのだけれども、喜んでいたのです。「新しい命が与えられている」がゆえに、試みの中でも喜んでいました。
第二に、新しく生まれ変わったその結果、「生き生きとした希望」をイエスの復活によって、彼らは、与えられていったのです。イエスが死から甦られたことによって、私達もまた、罪に打ち勝ち、死に打ち勝つ、永遠の命の希望が与えられていくのです(ver3)。だから、彼らは、試みの中で喜ぶことができたのです。 
そして、第三に、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(ver4)を与えられていました。決して、失われない財産を与えられていたのです。私達は、どんなに財を集めても、御国までもっていくことはできません。
人というヘブライ語は、「エノーシュ」と言いますが、これは、「弱い脆いもの」という意味であり、「人の子」という場合の、人は、「アーダマー」という赤土を表しているのです。つまり、人は、どんなに権勢を誇っていたとしても、弱く脆い存在でしかないのです。
人は結局、裸で生まれ、裸で天に帰らなければならいなのです。人がこの世界で獲得していくものは、朽ちていくもの、消えていくものであって、永遠のものではありません。
 しかし、だからと言って、聖書はこの世界に生きることは、空しいことだとは言っていません。寧ろ、クリスチャンとして、神が与えて下さったこの世界という舞台を神と共に精一杯生きていくのです。勿論、そこには弱さや足りなさや、痛み悩むこともあるのだけれども、それでも、私達は、天国というゴールを知っているのですから、この世界をゴールである天国に向けて、雄々しく歩んでいくのです。彼らは、この永遠の財産。永遠の御国のゴールを知っていたのです。だから、試練の中で喜ぶ事が出来ました。
そして、第四に、この永遠の命の恵みの中に、神は、今、今日、ここから守って下さる(ver5)。だから、彼らは、試みの中で喜ぶ事が出来たのです。
 「喜び」というのは、聖書において、大切なテーマの一つです。私たちは、何か素晴らしいことがあったときに、喜ぶことはできます。結婚した、就職した、昇進した学校に合格した、素晴らしい物ばかりです。しかし、残念ながら人生は、そう、うまくいく時ばかりではありません。そうなると、神も仏もあるもんか、神様なんか信じてもしょうがない。祈ったって意味がないということになるのでしょうか。決してそうではないと思います。
 私達は、「新しく生まれ変わっている」のですから、罪に打ち勝ち、死に打ち勝つ、永遠の命の希望、「生き生きとした希望」が与えられているのですから(ver3)、「永遠の財産」、「永遠の命」を手に入れているのですから、そして、その恵みの中に守られているのですから、試みの中でも喜ぶ事が出来るのです。
II.試練に逢う理由
それでも、神がこの恵みの中に守って下さるというのであれば、どうして、クリスチャンが、辛い目に合わなければならないのでしょうか。
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ver7)。続くver7に、その理由が明らかにされていくのです。クリスチャンが試練に逢う理由について、今日の御言葉は、二つの理由から語ります。それは、第一に、「試練によって、信仰が練られる」ということです。そして、ペトロはここで、火の精練のことを持ち出しています。
沖縄に琉球ガラスがあります。戦後、米軍の払い下げの、コカ・コーラの瓶を砕いて、それを 
火に入れて、あの美しい琉球ガラスを創ったのです。今でも原材料は、様々な瓶であることには変わり在りません。私も何度か作ったことが     
あるのですが、600度の火の中にくべるのです。その火の中で、原材料の瓶は、ドロドロに溶かされるのです。すると不純物は、全部落ちて、本当に純粋な、ガラスが出来上がってくるのです。
火で精錬されていてこその、琉球ガラスなのです。火で精錬されて、初めて、琉球ガラスは、価値あるものとなるのです。
ペトロは、ここで、金の精練に言及しているのです。金は火で精錬さえてこそ、値打ちのあるものになるのです。しかし、その金ですらも、私たちの永遠の命を保証し、支えるものとはなり得ないのです。
精錬された金ですらも、失われていくもの、朽ちていくものでしかないのです。それよりも、尊いものが、試練によって生まれてくるというのです。34歳の時に、沖縄で体調を崩したときに、一生懸命に祈っても、中々体調が元に戻らないのです。結局、沖縄での働きを辞して、約一年近く、家内の実家に身を寄せながら、回復の時を持ちました。このときは、私にとって、本当に大きな試練でした。
 しかし、この試練によって、私の宣教や牧会、何よりも、信徒の方々と、接するときの姿勢が変わりました。確かに、試練は、私たちを変えていきます。
人は、順風満帆な時は、中々神に目を向けないのです。結局信仰は、「試み」という土台にこそ、豊かに育っていくのです。
パウロは、ローマ信徒への手紙5:3-4で、
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)。がまさにその通りです。私たちは、試練によって、形作られていくのです。
 第二に、「称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ver7)。ということです。
 これは、一般的に、二重の意味があります。一つは、試練に逢って、苦しんでいる私たちは、今はその意味が分からなくても、終わりの時に、イエスが再び来られるときに、その試練の意味が分かり、神に、称賛と栄光と誉れをもたらすという意味です。もう一つは、試練に逢って苦しんだ者たちが、その試練を耐え忍んだときに、称賛と栄光と誉れを受けるようになるということなのです。
 「よくやった、良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)と言われている通りです。この二種類の考え方は、甲乙つけがたいようです。
そして、忘れてはならないのは、「イエス・キリストが現れるときには」(ver7)、 という御言葉です。「現れる」と言いますのは、「アポカリュプシス」というギリシャ語です。これは、遠くにいたものが、現れるという言葉ではなくて、実は、ずっと一緒いたけれども、隠されていたものが、その存在が、ある時に明らかにされるということです。「わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいます」(マタイ28:20)と約束されています。
 今もイエスは、試みの中にある、私たちと目には見えないけれども、共にいて下さるのです。私たちの目には隠されています。イエスを私たちは、見ることはできません。しかし、確かにイエスは、試練の中で共にいて下さるのです。だから、私たちは、試練を乗り越えていくことができるのです。
先ほど私は、 これは、二重の意味があり、一つは、試練に逢って、苦しんでいる私たちは、今はその意味が分からなくても、終わりの時に、イエスが再び来られるときに、その試練の意味が分かり、神に、称賛と栄光と誉れをもたらすという意味があり、
もう一つは、試練に逢って苦しんだ者たちが、その試練を耐え忍んだときに、称賛と栄光と誉れを受けるようになるという事だと学びました。しかし、私は、後者を取りたいと思います。試練に逢って苦しんだ者たちが、その試練を耐え忍んだときに、称賛と栄光と誉れを受けるようになるということなのです。耐えられない試練を神は与えません。しかも逃れの道が必ずあります(Iコリント10:13)。試練は確かにあるのだけれども、主が共にいて下さるのですから、必ず乗り越えさせてくださいます。主に称賛と栄光と誉れを捧げるものでありたいと思います。
III.心の救い
さて、この手紙を書いたペトロは、主イエス・キリストの12弟子の一人で、約三年にわたって、イエスと共に、寝食を共にしました。主の御教えを直接聴き、主がなされた奇跡をまじかで見て、主が人々に注がれた、愛を体験してきました。しかし、彼は、イエスを三回も否定するという、失敗も致しました。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10:33)。
ある意味、働き人としては、致命的な失敗です。保身に走ったのです。「あんな人知らない」、「何を言っているのかわからない」、イエスとの関係を否定しました。
しかし、イエスは、そんなペトロをお見捨てにはなりませんでした。復活のイエスは、真っ先に彼にお姿を現されて、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、彼の三度の否定をまるで打ち消すかのように、三度問いかけられて、彼をどん底から、もう一度引き上げられました(ヨハネによる福音書21:15-17)。彼には一番弟子の自負がありました。命が脅かされても、イエスについていくという決意がありました。天の御国が訪れた時には、自分がトップだというプライドがありました。しかし、そんな、自負も、決心も、プライドも、イエスを三回否定することによって、粉々に砕かれました。そのような経験を通して、彼は、主に従っていく、その中心にあるものは、イエスに対する愛であることを知らされたのです。
 イエスは彼のもとから去って行かれました。復活のイエスは、40日間ご自分のお姿を弟子たちに表された後、天に帰られました。その後、聖霊が注がれます。ペンテコステです。
 それからは、目に見える形で、イエスはおられ
ないけれども、自分たちは主を愛し、信頼しているという思いがありました。その思いで彼は、エルサレム周辺から始まり、ファレスティナ、シリア、トルコの各地に福音を伝えました。
そして、彼のメッセージを通して、ディアスポラの民が、散らされていた民が救われました。三千人の人が信仰をもち(使徒2:42)、更には、ペトロとヨハネの説教で、「男の数だけで、5千人の人」(使徒4:4)。が信じたのです。
 イエスを信じた人々は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」(ver8)。いたのです。
 これは、ペトロにとっては、驚きでした。ただ自分たちの話を聞いただけで、まるでイエスが共にいて下さるかのように、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」(ver8)。いたのですから。彼らは、クリスチャンになることによって、誤解、中傷、社会的に不利になるにもかかわらず、喜びに溢れていたのです。何故でしょう。やがてペトロたちは、そこに、主イエス・キリストの救いの現実があることを知ったのです。単なる、言葉ではありません。思想でもありません。理屈でもありません。復活のイエスが彼らと共にいて下さって、彼ら一人一人の心の内に語りかけて下さって、心の救いを得ている、魂の救いを得ている、救いの喜びを与えて下さっている、現実を知ったのです。
ですから、ペトロは、「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(ver9)。
あなた方は、直接イエスを見ることはできなかったけれども、確かに、今魂の救いを得ているのだ。心の救いを得ているのだ。この様に言う事が出来ました。それはまた、私たちも同じです。私たちは、直接イエスを見ることはできません。しかし、ペトロの伝えた福音によって、イエスを信じた人々のように、私たちもまた、イエスを信じているならば、確かに今、魂の救いを得ているのです。心の救いを得ているのです。
苦しみは、人夫々です。人と比較できません。どっちが大きい小さいということはありません。しかし、その試み、苦しみ、試練の中で、
イエスは共にいて下さるのです。そして、イエスは、あなたを救いへと導いて下さるのです。どうかあなたもイエスを信じて、魂の救いを、心の救いを得て頂きたいと思います。
ある日学校からの帰り道、マークの前を歩いていた少年がつまずきました。抱えていた沢山の荷物を落としてしまい、あたりに飛び散りました。マークは駆け寄って、落ちたものを拾うのを手伝いました。同じ方向に家があるというので、荷物を少し持ってあげ、おしゃべりしながら一緒に帰ったのです。
自己紹介によると、少年の名前はビル。TVゲームと野球が大好きで、歴史以外の科目は苦手だという。そして、ガールフレンドと別れたばかりだと話しました。ビルの家に着くと、マークはコーラを飲んでいかないかと誘われました。二人は、午後の時間、テレビを見たり、笑ったり、おしゃべりして楽しく過ごしました。
それからは、学校でもしばしば顔を合せるようになり、昼食も共にすることもありました。結局、同じ高校に進学し、そんな深いつきあいはずっと続いたのでした。高校の卒業式を前に、ビルがマークの家で、最初の出会いを話しだしました。
「マーク、あの日、なぜ僕があんなに沢山のものを持ち歩いていたかわかるかい?学校のロッカーから中身を全部持って帰ろうとしていたんだよ。実は、君に初めて会った日、帰宅したら自殺するつもりだったんだ。でも君に出会って、おしゃべりをしたり、笑ったりしたよね。君が帰った後に、もしあのまま自殺していたら君との楽しい時間も持てなかったし、これから起きる沢山の素晴らしいことを経験することなく死んでしまうことになると思ったんだ。
これでわかっただろう?!マーク、君は僕の荷物を拾ったとしか思ってなかっただろうけど、あの日、僕の命も拾ってくれていたんだよ。」
どうかあなたもイエスを信じて、魂の救いを、心の救いを得て頂きたいと思います。

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